有体に言うと、僕の知らない世界は、存在しない。
この言葉には、二つの意味がある。
一つは、僕が知りえない世界は存在しない世界も同然という意味であり、もう一つは僕はすべての世界を知っているという意味としても理解できる。
同じ言葉なのに、まるで別の意味を持つ言葉になるな。
一つ前の原稿は、当然「僕が知りえない世界は存在しない世界も同然」という意味合いで書いている。知らなければないのと一緒ということ。
こういう言葉の遊びのような認識の窓口、理解のとば口は、人を惑わすね。そして、言葉の曖昧さは、人間の認識の曖昧さとほぼ同義で……。
誤解を恐れると、何も書けなくなるのだが、ことその点に関しては僕は恐れがない。
どう理解してもらっても構わない。
なにせ、誰かに説教するつもりもないし、何かをわからせようとも思わない。分かって欲しいとも思わない。一つだけ書く意味があるとすれば、共鳴を呼び覚ます音叉のようでありたいとは思う。
それは意識の問題で、誰かの意識に僕の中のなにかが呼び覚まされたいとも思うし、響きたい。同様に、自分が発したことが、どこかで誰かを震わせていたら面白いなとも思うし、そうあって欲しいとも思う。
だがそれは、誰かを説き伏せたり、納得させたいという営為とは違う。
もっというと、まったく知らない世界で、僕が発した事柄が、誰かを震わせていて欲しいとは思う。
だから、こうして誰が読むのかまったく知りえないブログで、僕は言葉を綴っているのだ。
と、小難しいなあ……。
この言葉には、二つの意味がある。
一つは、僕が知りえない世界は存在しない世界も同然という意味であり、もう一つは僕はすべての世界を知っているという意味としても理解できる。
同じ言葉なのに、まるで別の意味を持つ言葉になるな。
一つ前の原稿は、当然「僕が知りえない世界は存在しない世界も同然」という意味合いで書いている。知らなければないのと一緒ということ。
こういう言葉の遊びのような認識の窓口、理解のとば口は、人を惑わすね。そして、言葉の曖昧さは、人間の認識の曖昧さとほぼ同義で……。
誤解を恐れると、何も書けなくなるのだが、ことその点に関しては僕は恐れがない。
どう理解してもらっても構わない。
なにせ、誰かに説教するつもりもないし、何かをわからせようとも思わない。分かって欲しいとも思わない。一つだけ書く意味があるとすれば、共鳴を呼び覚ます音叉のようでありたいとは思う。
それは意識の問題で、誰かの意識に僕の中のなにかが呼び覚まされたいとも思うし、響きたい。同様に、自分が発したことが、どこかで誰かを震わせていたら面白いなとも思うし、そうあって欲しいとも思う。
だがそれは、誰かを説き伏せたり、納得させたいという営為とは違う。
もっというと、まったく知らない世界で、僕が発した事柄が、誰かを震わせていて欲しいとは思う。
だから、こうして誰が読むのかまったく知りえないブログで、僕は言葉を綴っているのだ。
と、小難しいなあ……。