12月7日まで、ということで息子クンがくれたチケットを無駄にはできないと、東京国立博物館へ。
日本国宝展ということで、なにか予兆めいたものを感じながら出向いたのだが、何事かは判然としなかった予兆が、実際にその場に立つと、みるみる姿を露わにする。
その正体を端的に言葉にすると、「日本の国宝は器なのだ」ということに尽きる。
仏教関連の国宝は殊に、金張りの器や、厨子、美しげに書かれた曼荼羅や経典。
早い話が、そこに書かれたもの、ことの本質ではなく、仏陀が、マホメットが、キリストが戒めた偶像を「国の宝」と言っている。日本での法華経にまつわる説話集である「日本霊異記」だけは、しっかり眺めてしまった。
それ以外は、そういうことなのだなと思いながら展示スペースを経巡っていたのだが、縄文期の土偶に行き当たって「あぁ、ここに来てよかった」と思った。
「縄文のビーナス」「仮面の女神」などとと題された土偶は、どこからどう見ても、あの遮光器土偶と同様に、ライフスーツを身にまとった、異星人としか思えない造形。
「合掌土偶」と題されたものは、以前から見たいと念願していていたもので、これはまるで「キン肉マン」のようでなにか微笑ましい。
それでも結局のところ、宝とは「器」としか思えない展示物の数々を、しんねりと眺めてきた。
だが、土偶とは別に、昔から国立博物館を訪れるたびに「日本刀」の美しさに惹かれ、何時間も展示室にいるのが常だったのだが、結局今回も、日本刀の展示室にいってしまった。
鎌倉・室町期から江戸期に至る日本刀の系譜は、それは素晴らしい展示。ピリピリとした空気がヒタヒタと迫ってくる。ずっとその場にいたいと思うほど。日本刀を手になにか不穏なことを構えようなどという気はさらさらなくて、ただその造形の美しさに、惹かれるのだ。
また来たいな、と思った次第。
日本国宝展ということで、なにか予兆めいたものを感じながら出向いたのだが、何事かは判然としなかった予兆が、実際にその場に立つと、みるみる姿を露わにする。
その正体を端的に言葉にすると、「日本の国宝は器なのだ」ということに尽きる。
仏教関連の国宝は殊に、金張りの器や、厨子、美しげに書かれた曼荼羅や経典。
早い話が、そこに書かれたもの、ことの本質ではなく、仏陀が、マホメットが、キリストが戒めた偶像を「国の宝」と言っている。日本での法華経にまつわる説話集である「日本霊異記」だけは、しっかり眺めてしまった。
それ以外は、そういうことなのだなと思いながら展示スペースを経巡っていたのだが、縄文期の土偶に行き当たって「あぁ、ここに来てよかった」と思った。
「縄文のビーナス」「仮面の女神」などとと題された土偶は、どこからどう見ても、あの遮光器土偶と同様に、ライフスーツを身にまとった、異星人としか思えない造形。
「合掌土偶」と題されたものは、以前から見たいと念願していていたもので、これはまるで「キン肉マン」のようでなにか微笑ましい。
それでも結局のところ、宝とは「器」としか思えない展示物の数々を、しんねりと眺めてきた。
だが、土偶とは別に、昔から国立博物館を訪れるたびに「日本刀」の美しさに惹かれ、何時間も展示室にいるのが常だったのだが、結局今回も、日本刀の展示室にいってしまった。
鎌倉・室町期から江戸期に至る日本刀の系譜は、それは素晴らしい展示。ピリピリとした空気がヒタヒタと迫ってくる。ずっとその場にいたいと思うほど。日本刀を手になにか不穏なことを構えようなどという気はさらさらなくて、ただその造形の美しさに、惹かれるのだ。
また来たいな、と思った次第。