普通な生活 普通な人々

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市民オーケストラの原点がここに。群響と群馬音楽センター

2011-11-29 00:00:45 | 音楽にまつわる話<的>な
 太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦で、日本はおよそすべてを失った。
 すでに敗戦の色濃くなってきた1943年頃からは、もはや文化などというものは日本から駆逐され、ただただひたすら戦争遂行のための精神と道具だけが必要で、音楽すら戦争遂行の道具でしかなかった。
 戦争前まで、人の心を歌っていた歌手も、戦意を鼓舞する歌しか歌えなくなっていた。否、歌うことすら「軟弱な精神」と批判された時代だった。「歌う前に戦え」。それが戦時国家の国民の正しいあり方だった。
                  
 ただ、どれほど規制が厳しかろうとも、迫り来る空襲の中でも、人の目を盗むようにしてでも、音楽を愛し続けた人々はいた。それが判れば「非国民」と謗りを受けるのは当たり前のことだったが、こっそりと蓄音機に針を落とし、シャーシャーと竹針の擦れる音の向うで鳴り響くピアノの音に耳を澄まし、オーケストラの作り出す音空間に耳をそばだてた。そんな人々はたくさんいた。
 戦時中はオーケストラの楽団員も、皆、ラジオ放送での演奏、大陸や南方への慰問で楽器を奏でることがあるくらいだった。敗戦近くには、海を渡ることもできず、出征兵士を送るための威勢の良いマーチを演奏するのが関の山だった。
 そして太平洋戦争の終結。
                  
 敗戦という、まったく予期せぬ結果に、国民の動揺は激しかった。戦争中の価値基準、規範、国家の意味……すべてが一瞬にして崩れ去った。昨日まで純粋に信じていた至高の価値が、ぼろくずのような価値しか持たなくなったのだ。
 政治・経済の大枠すらマッカーサーの極東軍事政策の傘下に置かれ、日本人は我先に新しい為政者の示す価値を受け入れざるを得なかった。
 だが、敗戦からたった3ヶ月でオーケストラを立ち上げ、敗戦に沈む人々の心に音楽という希望の灯を点した人達がいた。
                  
 群馬県の高崎市。現在の高崎市のHPにこんな一文がある。
「昭和20年(1945)11月、敗戦直後の荒廃した世相の中で高崎市民オーケストラは誕生しました。戦前から音楽活動をしていた丸山勝廣が中心となり、戦後のすさんだ心を音楽で癒し、生活に潤いのある文化国家を目指して結成され、井上房一郎が会長になりました。指揮者には、井上の仲人・画家有島生馬の甥の山本直忠を招きました。長男の直純は当時12歳でした。当初は、楽員8人のアマチュア楽団で、練習場は、東小学校わきの消防団の二階でしたが、まもなく田町の熊井呉服店の二階に移りました。昭和21年9月、その一階に喫茶店『ラ・メーゾン・ドゥ・ラ・ミュージック』(音楽の家)が開店、高崎の新しい文化活動の拠点になりました~(山口聰)」
                  
 そしてこの市民手作りの楽団は、昭和21年3月には第一回定期演奏会を市立高等女学校講堂で開催、「モーツァルトのセレナーデ」などを演奏、超満員の盛況だったという。5月には「群馬フィルハーモニーオーケストラ」(群響)と改称し、翌昭和22年からプロの交響楽団として出発した。
 市民レベルでのオーケストラ運営など、行政の支援があったとしても困難な時代に、ほとんど奇跡と言って良い出来事だった。この群響の戦後の苦闘の歴史は、昭和30年2月に封切られた映画「ここに泉あり」(監督・今井正 出演・岸恵子、小林桂樹、岡田英次他)で活写されている。
                  
 この群響の本拠地が「群馬音楽センター」だ。アントニン・レーモンドの設計になる、日本のモダニズム建築の代表作とも評される音楽ホールだ。
 1961(昭和36)年7月に市制施行60周年を記念して落成した同ホールは、まだ市財政も苦しい時期でおよそ3億円の予算のうち寄付金を1億円募り、うち3千万円を市内の一世帯平均1,200円の募金で賄うという、まさに官民一体となって建設された音楽ホール。1961年を記念して1960の座席数(現在は1932席)とし、最後の1つをステージとしたという。落成時の記念公演には、市の全3万世帯から一人ずつを招待した。
 いまでもホールの前には「ときの市民之を建つ」と刻まれた碑が建っている。
 築50年を越え老朽化も目立つ。すでに改築、建て直しの話しなども出始めている。潰される前に、是非日本のオーケストラの黎明期を支えたホールに足を運んでみて欲しい。