J OKAYAMA ~岡山スポーツの桃源郷へ

岡山トップスポーツファミリー(ファジアーノ等)、スポーツ文化情報リスペクトブログ(共同運営)。

草の根運動36

2017-09-17 00:59:16 | 草の根運動

リスペクト(事例紹介)コラムです。
 今年6月に山陽新聞朝刊に「岡山サッカーの歩み」という特集記事が連載されました。岡山サッカー界の本当の創世記から現代まで詳しく書かれていました。当ブログとしては、'05年頃の「岡山からJリーグを」運動が本格化した頃から覚えています。最近の情報は読者の皆さんもよくご存知だと思うので、今回はその中の「第2部 ファジアーノ編」のJリーグへ昇格までの記事を順番に引用して紹介していきたいと思います。第2回の今回は「② 誕生へ」から。以下、抜粋して引用させていただきました。
            
「岡山にJリーグをつくろう会」の活動は、チームの母体に見込んだ川崎製鉄(倉敷市)の神戸移転(1995年)が痛手となり終息をみる。だが、サッカー関係者の気持ちは枯れていなかった。新世紀を迎えた2001年ごろ、Jチーム創設に向けて再び動きだす。
 つくろう会のアプローチが「草の根」なら、今度は「国体」がキーワードだった。43年ぶりとなる岡山国体が05年に迫り、スポーツ環境の整備が各方面で進んでいた。
 サッカーとの関わりでは、県陸上競技場(岡山市)が大規模改修されることになり、Jリーグ公式戦を開催できるめどが立った。国体強化選手として優秀な人材を県外から集める方針も早々に打ち出されていた。
 さらに、一足早く開かれる日韓ワールドカップ(02年)でサッカーブーム再来の気配。世間の理解も得られやすい。条件はそろっていた。「地元国体に向けて強豪チームをつくり、将来的にJ入りを狙おう。このタイミングを逃してはいけない」
「岡山県サッカー協会の面々が立ち上がった。まず核となるチームが必要だった。真っ先に候補に挙がったのが中国リーグの古豪・三菱自動車水島。ただ当時監督の熊代正志(61)=倉敷市三田=は「企業チームでやっているのをいきなりやめてJを目指すというのは思い描けなかった」。チーム名から「三菱」がなくなることへの抵抗も少なくなかった。
 県リーグ1部にいた複数のチームには「趣味でやりたい」などと断られた。ゼロからの立ち上げでは国体に間に合わない。教会関係者が次の手を模索する中、神戸へ去った川鉄のOBらでつくるクラブチーム「RFK(リバーフリーキッカーズ)」が手を挙げた。チームには川鉄から移行した「ヴィッセル神戸」に在籍した選手もおり、高みを目指すにはうってつけだった。」
「メンバー約40人も大半が賛成意見だった。遠征費などの活動資金がネックとなり、「チームの維持が難しくなっていた」(柴岡)という事情もあった。Jチームの監督ができる資格を持つ就実大の山下立次(現・岡山県協会会長)が初代監督を引き受け、03年9月にチームの運営母体を設立した。RFKは翌04年から「ファジアーノ岡山」と名前を変更。Jを目指す新たなチームの誕生が決まった。
 チーム名は、桃太郎にも登場する県鳥のキジが由来。英語やフランス語をヒントに「フィーサント」「ファイサン」も候補に挙がったが、一番呼びやすいイタリア語に落ち着いたという。
 キジとともに三つの星が描かれているエンブレムは、チーム最年長でデザインが得意だった丸野勝一郎(48)=同市連島町新田=が考案した。「Jリーグ入り、地域密着、岡山のレベル向上という三つの目標に向かって羽ばたいていこう」と込めた思いを説明する。」
引用:山陽新聞(上左画像参照)

 今回の記事に名前が出ていたMさん(現某市議)には、NPO法人ヒューマンスポーツクラブ時代に、同志として本当にお世話になりました。当時は某市役所職員なのに、本職と掛け持ちで事務局長として尽力され、「岡山からJリーグを運動」について、運動を生活を犠牲にして取り組まれていた事を思い出します。SさんはRFKの監督だったのですね。当時役員会やグッズ委員会でご一緒しましたが、本当の草創期の功労者だったのですね。
 「岡山からJリーグを」運動は、つくろう会の終焉で一旦はリセットされましたが、その後岡山国体を機に再び気運が盛り上がっていきました。つくろう会の影響は大きかったと思います。つくろう会は確か「カモンJ」という呼び名だったと思いますが、今回の山陽新聞さんの記事には出てきませんでしたね。 
 あと、岡山国体に向けて、メイン競技場をどう整備するかという議論がまず起こった事を記憶しています。別の場所に新スタジアムを建設する考え方もあったようですが、建設費の縮小のために、県陸上競技場の改修に至ったと聞いています。これがもし新スタジアムとして郊外にできていたらどうなっていたでしょうか。チャレンジ1どころか、平均6千人目標とかのレベルだったかもしれません。お金が無くて改修した事が、結果的に駅前スタジアムになってしまったという事で運がありましたねぇ。
 RFKは1975年の設立と実は古豪でした。受け皿チームとして、水島さんに声をかけたが断られたという事ですが、例えば少し経ってから水島さんが「やはりJを目指す」という事になっていたら、県内に2つJリーグを目指すチームができていました。前にも書きましたが、ひょっとしたらファジアーノ岡山になった後に、合併という流れで岡山ユナイテッドになって消えていたかもしれません。あくまで超極端な空想ばなしですが。名前もフィーサント岡山とか、ファイサン岡山になっていたかもしれないのですね。
 エンブレムのデザインは丸野選手だったのですね。何となく聞いていましたが、思い出しました。3つの星は「Jリーグ入り」「地域密着」「岡山のレベル向上」という三つの目標だったようですが、他にも羽の数や尾っぽの数、チームカラーのワインレッドは確かキジが威嚇する時の目の色と聞いたような、いろいろといわれがあるようですが、ぜひ調べていつか紹介したいと思います。
 一つ思うのは、当時3つの目標に向かって尽力された県協会の方々は、今のクラブ(運営会社)がどう映っているのか聞いてみたい点。成績や経営数値だけでなく、地域密着度やJリーグ百年構想の達成度など幅広い分野で。山下初代監督(現県協会会長)とは、ごくたまにセミナー等でお会いしていましたが、当ブログと価値観はほとんど同じ印象です。O前会長(元専務理事)も同様。③に続く。
岡山サッカーの歩み①:http://blog.goo.ne.jp/kataru-kai/d/20170910

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする