東京新聞に、村上春樹さんの発言要旨が掲載された。
これで、ようやく全体像がわかってきました。
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作家の村上春樹さんが京都大学での公開インタビューで発言し、記者がまとめた要旨は次の通り。
▽冒頭の講演
僕は普段はあまり人前に出ません。ごく普通の生活を送っている普通の人間です。文章を書くのが仕事なので、なるべくそれ以外のことに首を突っ込みたくない。だから僕のことは絶滅危惧種の動物、イリオモテヤマネコみたいなものだと思ってくれるとありがたい。そばに寄って触ったりしないでください。おびえて、かみついたりするかもしれないので。
河合隼雄先生とは二十年ぐらい前に米プリンストン大で初めてお会いし、その後あちこちで時間を一緒に過ごした。僕にとっては「河合先生」で、最後までそのスタンスは変わらなかった。小説家と心理療法家というコスチュームを脱ぐことはなく、そういう枠があった方が率直に話ができた。
今でも覚えているのは、先生の駄じゃれ。一種の悪魔払いのようなものだと思っていた。臨床家としてクライアントと向き合い、相手の魂の暗い場所におりていく作業を日々されていた。それは往々にして危険を伴う。そういう暗い場所で、糸くずのように体に絡みついてくる闇の気配を振り払うには、くだらない駄じゃれを口にしなければならなかったのではないか。
僕の場合の悪魔払いは、毎日外に出て走ること。それで、絡みついてきた闇の気配をふるい落としてきた気がする。
われわれが共有していたのは物語でいうコンセプトだったと思う。物語というのは人の魂の奥底にある。人の心の一番深い場所にあるから、人と人とを根元でつなぎあわせることができる。僕は小説を書くときにそういう深い場所におりていき、河合先生もクライアントと向かい合うときに深い場所におりていく。そういうことを犬と犬がにおいで分かり合うように、分かり合っていたのではないか。
▽インタビュー
<人間とは。物語とは>
魂を二階、一階、地下一階、地下二階に分けて考えている。地下一階だけでは、人を引きつけるものは書けないんじゃないか。(ジャズピアニストの)セロニアス・モンクは深いユニークな音を出す。人の魂に響くのは、自分で下に行く通路を見つけたから。本当に何かをつくりたいと思えば、もっと下まで行くしかない。
<新作「色彩を持たない多崎(たざき)つくると、彼の巡礼の年」
について>
「ノルウェイの森」のときは純粋なリアリズム小説を書こうと思った。一度書いておかないと、ひとつ上にいけないと思った。自分では実験的だと書いたものがベストセラーになったのは、うれしかったが、ある種のプレッシャーになった。
前作「1Q84」での大きな意味は、全部三人称で書いたこと。三人称はどこにでも行けるし、誰にでも会える。ドストエフスキーの「悪霊」のような総合小説を書きたかった。(「多崎つくる」は)僕の感覚としては、頭と意識が別々に動いている話。今回は「1Q84」に比べ、文学的後退だと思う人がいるかもしれないが、僕にとっては新しい試みです。
出来事を追うのではなく、意識の流れの中に出来事を置いていく。(多崎の恋人の)沙羅(さら)さんが、つくるくんに(過去と向き合うため)名古屋に行きなさいと言うが、同じように僕に書きなさいと言う。彼女が僕も導いている。導かれ何かを体験することで、より自分が強く大きくなっていく感覚がある。読む人の中でもそういう感覚があればいいなと思う。
今回は生身の人間に対する興味がすごく出てきて、ずっと考えているうちに、(登場人物たちが)勝手に動きだしていった。人間と人間のつながりに、強い関心と共感を持つようになった。
(多崎は友人四人との共同体から切り捨てられるが)僕も似たような経験をしたことはあるし、何が人の心を傷つけるのかはだいたい分かる。人はそういう傷を受けて、心をふさいで、時間がたつと少し開いて、ひとつ上に行くことを繰り返しながら成長する。ひとつの成長物語なんです。
<最後に>
本当にうれしいのは、待って買ってくれる読者がいること。「今回はつまらない、がっかりした。次も買います」みたいな人が大好きです。つまらないと思ってもらってもけっこう。僕自身は一生懸命書いているが、好みに合わないことはもちろんある。ただ、理解してほしいのは、本当に手抜きなしに書いている。もし今回の小説が合わないとしても、村上は一生懸命やっていると考えてもらえるとすごくうれしい。
(東京新聞 2013.05.07)