『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・小倉百人一首「恋歌異論」㊦―中

2009年11月07日 19時41分51秒 | ■俳句・短歌・詩

 

  やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな  赤染衛門

 “ためらわずに寝てしまったらよかったものを……。(あなたがお出でになるかもしれないと)夜が更けて、月が山の端に傾くまで眺めて明かしたことよ”。

 期待を持たせつつも、とうとう訪れることがなかった男への気持ちを詠んでいるとされる。注釈書などには“男への恨み”といった解説がある。だがそう言いきってしまっては身も蓋もない。それほど単純な“女性の心理”、というより“恋情の心理”でもなければ、男女の間柄でもないだろう。

 ところでこの時代、「月の出没」は“時を計る”拠り所の一つとなっていた。月は、「十五夜」以後の呼び方として「十六夜(いざよい)」があり、これは「十五夜」よりも月の出が遅く、“ためらいながら”出て来るという情緒をとらえている。次の十七日は、立って待つ「立待月(たちまちづき)」となり、十八日は座して待つので「居待月(いまちづき)」、十九日は寝ながら待つ「寝待月(ねまちづき)」、そして二十日は、夜も更けてから出るという意味で「更待月(ふけまちづき)」となる。

 単に「月の出」の“遅速”だけを言うのであれば、はたしてこれだけの名称が残っただろうか……。微妙に変化する「月齢の様」を、移ろいやすくまた脆弱な「人の様」に重ねているのだろう。

 無論、この作者は「更待月」を歌っているのではない。「出ていた月」を「夜が更けるまで」ずっと気にしながら見ていたのだ。というより、おそらく「月が出るずっと前」より“待って”いたのではないだろうか。“ときの移ろい”を意味する「月の出没(月の様)」に、「訪れるかもしれない……だが、訪れないかもしれない男」の“そのとき”を重ね合わせているのであり、“悦びの期待と失望の不安”との狭間で揺れ動く作者の姿がある。

 前回の紫式部の歌については、『抑えきれなくなった“女性の恋情の息づかい”を感じる』と述べた。だが、この赤染衛門の歌には、“恨みつらみ”や“ひとり寝の哀しみ”を超越した作者の強さが感じられる。

 と言って、相手の男に愛想を尽かした風でもなく、“はっきりしないひとね……”という程度の大らかな気持で男を思い浮かべているような気がする。歌を詠んだ際の、作者の年齢も状況も判らないので何ともいえないが、どこか“諦観”めいた雰囲気が漂っている。

 “所詮、男(夫)って、恋って……こんなものよ”。といって愚痴るでもなく、我が身の恋を客観視しながら、どこか懐かしんでもいるかのようだ。



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