忘れじのゆくすゑまではかたければ今日をかぎりのいのちともがな 儀同三司母
“(いつまでも)忘れまいという誓いが、将来まで(変わらないこと)は期待できないので、(その言葉を聞いた幸せな)今日を限りとして命を閉じたいものだ”。作者は「ぎどうさんし」、藤原伊周(これちか)の母。
女性から“いのち”という言葉を出されると、“恋”に“いのち”をかけるということがピンと来ない男達(筆者も含む)は、“たじたじ”となる。しかし、女流達は、そうではないのかもしれない。
あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな 和泉式部
“(私はもう)生きていられないであろう(から)、あの世への想い出に(あなたと)もう一度逢いたいものだよ”。
ここまで詠み込めるのかと、思わずハッとさせられる。情熱的な和泉式部が、病の床から恋人に贈ったとされる歌。貰った彼が、彼女の元を訪ねたどうかは定かではない。
だが彼女には、“もう二度と逢う機会がなくともかまわない”との覚悟があるように思えてならない。といってその覚悟は“諦念”から来るものではなく、“愛の無常(無情)”を悟り得た気持の余裕と言えるものかもしれない。自分の中から確実に薄れていく“恋の情念”。それを自分なりに想い測りながら、どこか楽しんでもいるようだ。
玉の緒よたえなばたえねながらへば忍ぶることの弱りもぞする 式子内親王
忘らるる身をば思はずちかひてし人の命の惜しくもあるかな 右近
対照的な“恋情”であり、“恋情の究極”を示唆しているのかも知れない。
前者は、“私の命よ。絶えるなら絶えてしまえ。このまま生きながらえるなら、(この恋)を心に秘めておくれ。耐え忍ぶ力も弱ってしまうといけないから”。
後者は、“(あなたに)忘れられる私はどうなってもかまわない。(それよりも、私への愛を神に)誓ったあなたの命が(誓いを破った神罰のために失われるのではないかと)惜しまれることだよ”。
女流なればこその表現と言える。とても“慟哭”の「ひとこと」で片づけられるものではない。男にはこうした感覚や詩嚢はまずありえない(と筆者は思うのだが……)。
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それにしても、古文も和歌も満足に知らない素人が、厚かましくも長々と書き連ねてしまった。だが、歌を何度も口に上らせているうちに、少しずつ和歌の「息づかい」に慣れ、またその言い回しの魅力に気づき始めたのは確かだ。
百首のうち、恋の歌が半分以上を占めることについても、何となく理解できるようになった。というより、恋であれ何であれ、自分の気持や感情を言葉に綴っていくとき、ごく自然に「五七五七七」という「調べ」に辿り着くのだろう。そこに大きな意味があったのかもしれない。 [了]