『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

◎巨星墜つ/追悼・三國連太郎:(上)

2013年04月17日 21時23分34秒 | ■人物小論

 「巨星」の条件

  “銀幕の巨星墜つ”――。

 この表現に相応しい俳優となると、過去から現在に至るまで、はたして何人の映画俳優が当てはまるだろうか。三國氏の死去報道の後、しばし考えてみた。

 だが〝これはという俳優〟  を想い浮かべることは、容易ではなかった。 

   確かに「石原裕次郎」は銀幕の「大スター」であり、それも “” を付けなければならないほどのスター性の持主だ。当時の或る「映画評論家」は断言している。

  『石原裕次郎以上の「国民的大スター」は、もう二度と現れないだろう』と。

 筆者もそんな気がしてならない。といって、裕次郎氏を “巨星” と言う気にもなれない。また事実、そう言う記事や表現の記憶もない。それは彼の死が、52歳と いう若さによるからだろう。

                      ★

   “巨星” と言われるための「第1の条件」は、何と言っ ても “長寿” であろう。“長寿” なればこそ、ファンすなわち人々に対して “長い期間、夢や感動を与え続けることができる”  のであり、つまりは、それだけ永く、また多く “期待” に応えうるというものだ。……死が訪れるそのときまでは。

  その意味において裕次郎氏は、たとえ彼の死が病によるものであったにしても、年齢的にも実際の活動においても、人々の “期待” に充分応えたとは言い難いのかもしれない。

 つまりは、“完全燃焼” したとまでは行かず、“巨星にまでは到らなかった” ということではないだろうか。

  “巨星” と言われるための「第2の条件」は、“その道の第一人者” と呼ばれるに相応しい「特筆すべ業績や功績の持主」ということだろう。裕次郎氏は、この第2の条件はクリアしていたのではないだろうか。

             

 

 「飢餓海峡」と「復讐するは我にあり」

 今回の三國連太郎氏の死去――。筆者の感想として、彼こそは “巨星墜つ” に相応しい俳優と思う。裕次郎氏と異なり、決して “” が付くほどの「大スター」ではなかったにしても。

 しかし、『飢餓海峡』(原作:水上勉、監督:内田吐夢)で見せた鬼気迫るほどの殺害行為――。その迫真の演技と深い哲学性に、優れた「役者」としての奥の深さを見せつけられる思いがした。観終えたあと、しばらくのあいだ “評すべき言葉” が出てこなかった。

 本当に人を殺した人間としか言いようのない所作。“人が人を殺す” という、およそ “人間の行為” の中でも、もっとも赦しがたいもの……。生きること、生きるために他者の生を奪うこと……。

   そこまでして、なぜ人は生きようとするのか……。そういうことまでも思い起こさせる凄さがあり、あらためて “人間の業” や “罪と罰” について考えさせられた。

 

             

   一方、「殺人者」を息子とする「カトリック信者」榎津鎮雄(えのきずしずお)役――。

 これは実際の「殺人鬼・西口彰」事件をモデルとした、佐木隆三氏原作による『復讐するは我にあり』(監督:今村昌平)だ。

 この映画の「ラスト」は、死刑執行による息子・榎津巌(えのきずいわお:緒形拳)の遺骨を “散骨” するシーンとなっている。

 山の上から巌の嫁(賠償美津子)と二人で骨壷の骨を投げ棄てるわけだが、今回、三國氏の長男として知られる俳優の佐藤浩市氏は、三國氏が生前、『戒名はいらない。散骨してくれ』と、言い遺していたことを明かした。(続く)

  

 ◎2020年12月5日午前 加筆修正 花雅美 秀理


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