『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

◎孤高の含羞/追悼・三國連太郎:(下)

2013年04月23日 18時51分14秒 | ■人物小論

  父と息子の確執を超えて

  今回、三國連太郎氏 “死去” の「報道」は各局において何回も繰り返され、その中心は子息佐藤浩市氏に対するインタビューだった。その中で筆者がハッとした言葉がある。

 『父親としてはどうでしたか?

 と尋ねられたときの浩市氏の次のひとことだ――。 

  ――そりゃ、ひどい!

  この言葉を発するまで、浩市氏は緊張気味の戸惑いの中にあっても、懸命に自制しながら答えていた。それだけに、本音ともとれる『そりゃ、ひどい!』に、積り積もっていたものが吐き出されたような感があった。

 それはおそらく、怨嗟と諦観とが入り混じったものではなかっただろうか。それだけこの父と息子の間に潜む “鬱屈した情愛” は、複雑なものがあったに違いない。

   4回「結婚」して、3回「離婚」したと言われる三國連太郎氏。その3番目の妻との間にできたのが、佐藤浩市氏だった。

 三國氏はかって言ったことがある。

   ――息子(浩市氏)が小学校に上がるまでは一緒に(住んで)いよう。

   妻子の元を去るタイミングを心に秘めながら、三國氏はその通り実行した。父去りし以降の浩市氏の胸中は、察するに余りある。

             

 

  『美味しんぼ』での共演の意味

   筆者はまだ観ていないが、『美味しんぼ』(1996年:松竹)という映画がある。料理人親子の「剥き出しの確執」を描いたものだが、二人はその「父」と「息子」を演じた。

 実はその「息子役」に浩市氏を指名したのは、三國氏だった。

 親子二人が同席した「会見の場」において、三國氏は指名の理由を――、

 『親子でなければ出しえない雰囲気が映るのではないか』と。

 一方、指名を引き受けた浩市氏は、

 『親の中にどういうものがあるかを知るにはいい機会だ』と。

   しかし、互いにそう触れながらも、三國氏は『佐藤浩市君は、僕の芝居を今日まで否定してきた』と述べて、挑戦的な気配も見せた。

 浩市氏が、『映画はサービス業』と言ったとき、三國氏はやや強い口調で、

 『ほらここにもう対立がありまして……映画というものは運命的にはサービス業であっても、映画を撮るということはサービスではない』 と強く浩市氏の言葉を遮ったのだ。

             

   以上の下線部を「筆者流」に言いかえると、『映画は本質的にはサービス業だが、役者が演じるそのことは絶対にサービスではない』。

 もっと進めて「三國流」に言えば、『 “役者が演じる” ことは、決して〝観客のためではない〟』であり、『役者が自分自身と “命がけ” で闘うためのものだ。〝何やかや捨て去ってでも、手に入れたいと思うほどのもの〟』

 ……そう言いたかったのだろう。

              

  映画完成後の記者発表は、制作発表のときとは明らかに様相が変わっていた。 共演者の羽田美智子さんは、撮影現場の「三國氏」と「浩市氏」二人の様子について――。

  『三國さんは現場に入ると、まず浩市さんを探し、浩市さんも三國さんがどこにいるかを確認していらしたようです。お二人の間には、親子にしかない愛や絆があったように感じます』

  と語り、三國氏は穏やかに愛しむような眼差しで浩市氏について、次のように語った。

   『親馬鹿と言われれば困りますけど、ここまで才能を持った人なのかと感じました。立派な役者になってくれれば……』

   それに対して浩市氏は、『最初に想像していたよりはやりやすかったようです。情熱を持った熱い若い役者よりも面白かった……』

              ★

 おそらく二人は、「共演」を通して、役者同士としての何かを共有できたのかもしれない。だがそれで親子の確執が拭い去られたわけでもないだろう。

   葬儀の際の浩市氏の言葉はこうだ――。 

   『三國連太郎で生きたんだな。役者として生きたんだな。そう生きることの孤高さを自分の中で守り続けながら、芝居に関わってきたんだな。親爺の死に顔を見たとき、そのことを何となく感じた。』

   三國氏が『 “” 馬鹿』との言葉を」発したとき、浩市氏の中で何かが “フッきれた” のではないだろうか。そのような表情が垣間見えたように思う。

 また浩市氏が『親爺』と言った瞬間、彼の中の《三國連太郎が父》と言う気持が、《父が三國連太郎》へと変化したような気がしてならない。

             

   三人の妻と三つの家庭を、何人もの女性を、……そして、その果てに佐藤浩市を捨てた三國連太郎。その代償に得たものは何だったのか。役者としての数々の功績や賞賛……。いや、違うような気がする。  

 優れた役者と呼ばれたいとも、いい演技をしようとすら考えなかったに違いない。妻子はおろか、映画関係者や観客がどう感じようと評価しようと、我関せずとする  “自若の体〟ではなかっただろうか。そんな気がしてならない。

 そこにたった一つ、三國氏自身が己を納得させうるものがあったとすれば、それは誰に対しても、また何処であっても、たえず “孤高” であり続け得た “含羞(がんしゅう)” ではなかっただろうか。 

   三國連太郎氏、2013年4月14日没 90歳。 合掌礼拝 

 

  ◎2020年12月5日午前 加筆修正 花雅美 秀理



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