『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・豊かな詩情と抒情/『六月の綻び』(下-6)[最終回]

2014年10月12日 00時00分00秒 | ●演劇鑑賞

 

  “現実”を直視した“寓意性”

   「登場人物」に固有の名前を付けず、〈兄・弟・妹〉と抽象的な呼称にとどめたのも、“寓意性” を意識してのことでしょう

   しかし、寓意性や「現代の寓意(アレゴリー)」、そして「哲学的な解釈」と言っても、この「物語」そして「舞台」は極めて “現実的” であり、また “写実的” です。〈〉は、「舞台」上において何度も “暴力” を振ったり、振われたり”、もちろん三人揃って “食事” もしています。

   三人は “生身の身体” を持ち、“家の中の限られた食べ物で空腹を凌ぎ”、“家事を分担” し、“バスタオル” を共用し、“激しく罵倒” することもあれば “赦す” こともあったのです。

   “六月の雨” に降り込められ、その激しい雨音や雷鳴に感情や意識を弄ばれながらも必死に“生き”、《内なる家族》の中で “葛藤” し、“生命を終え”、あるいは《外なる社会》に “同化” や “救済” を求めたのです。

   ときには “常識では考えられないものを食べた” ことでしょう。しかし作者は、下手をすれば “残忍かつ猟奇的でおぞましい” と見られがちなこの「家族」を、“実存主義” 的雰囲気の漂う “洗練された台詞” で包んでいます。以下はその一例です。

 

:「わたしはお兄ちゃんを食べない。もうお互い食べ合うことなどしなくていい……。だって……わたしたちは、家族じゃないもん……。」(妹★3[下‐4])

 

   ということは、“家族” であれば “食べ合うこともある” ということになるのでしょうか。この意味するところをお考えください。本作の「基本テーマ」に大きく近づくことができるでしょう。

 

:「……家族が僕の心を食べて、僕は家族の身体を食べたのです。…(中略)…ここに残った僕は何なんでしょうか? 僕の身体には、いま家族の血が流れています。僕たちは文字通り、形を超えた家族となったのです。これは多分、とても幸せなことなんです。」(弟★5[下‐4])

 

   この一節は、本作の「究極的なテーマ」へと到る最大のメッセージと言えるでしょう。他の「台詞」ことに「」や「」と比較しながら、“作者の意図” に迫って欲しいと思います。

 

:「ここから出してください。もう誰もいないんです。もう食べるものがないんです。……助けてください。誰か僕を見つけてください。」(弟★6[下‐4])

 

   以上「A・B・C」は、 “哲学的” には “不条理性” を、“社会学的” には《内なる家族》と《外なる社会》との “軋轢” に起因する “人間疎外” の一面を示唆しています。「共通ワード」は “食べる” であり、この言葉が意味する “寓意性” と “現実性” について、それぞれの “現実” をもとにお考えください。

       ☆

 

  豊かな詩情と抒情

   作者は以上にとどまらず、以下のような “詩情そして抒情豊かな表現” も用いています。

 

:「……梅雨は、雨が降ってできたんだから。……[]は……やっぱり桜? 定番。私は葉桜。桜は眼に悪い。眼が悪くなって、世界がどんどん見えなくなって来る。」(妹★2[下‐4])

:「そしてまた[梅雨]がやって来る。……雨は止んじゃいけない。止んじゃうと、それ以上の音が聞こえちゃうから人の動く音……。」(同上)

 

   『桜は眼に悪い。眼が悪くなって、世界がどんどん見えなくなって来る。』とは、“消失した父” を含めた《内なる家族》の “破綻” に到ったプロセスを象徴的に示しています。それにしても、『桜は眼に悪い』とは大胆であり、また繊細です。

   次のフレーズは、『雨は止んじゃいけない。止んじゃうと、それ以上の音が聞こえちゃうから。人の動く音……。』

   何と言う “詩情”、そして “抒情” でしょうか。作者の非凡な才能がよく表われています。本作において、筆者が一番惹かれた一節です。 “詩情” や “抒情” を感じさせるだけでなく、“消失” 直前の〈妹〉が、自らの “心情” を吐露するものでもあり、胸に迫るものがあります。

   そのため、この「場面」は少しドラスティック(drastic)に、しかしスタティック(static)に… …ゆっくりと……「筆者が勝手に想い描いた》」(※後述)をちょっと “開け”て「雨音」を確かめ…… “窓を閉めた後” で……静かに、呟くように語る……というのが筆者のイメージなのですが。

       ☆

 

   「窓」を使った「雨音」を

   そこで、《》について、少し触れたいと思います。

   今回、筆者が一番気になったのは、「Aバージョン」(DVD前半)の「舞台背景」、ことに「腰高窓」の存在でした。これはおそらく、「大学キャンパス倉庫」壁面の “実際の窓” でしょう。しかし、「アルミサッシ枠の窓」というのは、“あまりにも日常的、現実的” であり、多分に “寓意性” を損なうものです。

   以前、何かの機会に述べたことがあります。「観客」にとって “実際に眼に見え、耳に聞こえるもの” は、その総てが “舞台演出すなわち舞台進行上の意味ある実体” であると。

   そのため筆者は、「雨音」のより効果的な表現として、「この窓」の “開閉” が行われ、その瞬間、「雨音」がいっそう強く聞こえたり、逆に弱く聞こえたり……というシーンを期待していました。

   そうなれば、本作「タイトル名」の『六月』もぐんと迫って来たでしょう。また「雨音」の “オノマトペ” に興じる〈妹〉の台詞も、いっそう活き活きとしたでしょう。何よりも、 “消失する” 直前の〈妹〉が、「」で語った言葉も、遥かに深い意味を持ったと思われます。

   この期待は、舞台が進むにつれていっそう高まって来ました。なぜなら、舞台のど真ん中に位置する「この窓」の意味は、“効果的な雨音の演出” に留まらず、《内なる家族》と《外なる社会》を繋ぐ “象徴的な存在” と考えられたからです。それは同時に、この「物語」の「テーマ」の根幹を成すものでもあったのです。

   そのため、今述べたような “窓の演出” がないというのであれば、“見えないように” 覆って欲しいものでした。

   とはいえ、筆者の本音は、「舞台美術」によって “寓意性を感じさせる窓” を別に作り、先ほど述べた「雨音」の演出がなされることでした。無論、それに伴う役者の演技や台詞回しも……。

        ☆

 

   オマージュとしての『動物園物語』

   最後に、今回の3人の役者について、簡単に触れましょう。

   〈〉役の「棟久 綾志郎」氏は、作・演出の「森 聡太郎」氏とはコンビでの活動が顕著のようです。昨年、筆者が観たエドワード・オールビー作の『動物園物語』では、演出と〈ピーター〉役であり、〈ジェリー〉役は氏でした。

   この舞台の〈ピーター〉役はとても優れており、棟久氏自身によく合っていたのではないでしょうか。“条理の世界”に生きる “ごく普通の常識人” であり、本来は “穏やかで理性的な人間” でした。その “アクも嫌みもない凡庸な役” をよく演じていたと思います。

   その意味において、今回の〈〉役は、前記の〈ピーター〉役とは対照的な役まわりでした。熱演であり、優れた演技でしたが、筆者的にはもう一段ギヤアップして、おそらく暴力的と思われる “亡き父親” を感じさせて欲しかったのですが……。ひょっとして、棟久氏の “地” は〈ピーター〉に近いのかも。

   〈〉役の「山本 貴久」氏も、意欲的な演劇活動をしています。最近では『蒲田行進曲』の演出が印象的でした。しかし、今回の演技は “等身大” でもあり、 “自然体” の演技、そして台詞回しと思います。願わくば、「モノローグ」に今一つ工夫が加わると、人物の深みがいっそう増したのでは……。 

   〈〉役の「武藤 悠未」嬢。彼女については、実はまったく知りません。九州大学演劇部の「公演記録」にも名前はなく、筆者にとっては謎の女優ということになります。それでも、よく声の通る好演でした。彼女も “等身大” の〈妹〉役を “自然体” で演じていました。次が楽しみです。

        ☆

 

  再演を期待したい秀作

   それにしても、今回の「物語」に一貫して流れていたのは、 “不条理性” であり “人間疎外” でした。この基本テーマは、前述のように、今回の作・演出の森氏と、〈兄〉役の棟久氏が共演した『動物園物語』の「テーマ」でもありました。

   その意味において、今回の『六月の綻び』は、まるで『動物園物語』の“消化不良”を、今一度 “反芻” することによって解消しようとでもするかのように……。そういう意志を垣間見たような気がします。

   そのため筆者には、今回の〈兄〉役を〈ジェリー〉に、〈弟〉役を〈ピーター〉として感じることがたびたびあり、『動物園物語』の舞台が何度も脳裡に甦ってもいたのです。 

        ☆

   今回、筆者が計8回にも渡って採りあげたのは、ひとえに本作が優れている証左です。本作は、これまで筆者が観た「学生脚本の秀作」として、確実に三本の指に数えられるでしょう。いや、それ以上かも知れません。

   そういう作品に出合えたことをあらためて幸せに思います。併せて、この秀作を生みだした森聡太郎氏をはじめ、キャスト及びスタッフ各位に敬意を表し、本稿の締めといたします。……本作の「再演」をひそかに祈りながら……。[了]

 



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