『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・人入つて門のこりたる暮春かな/芝不器男

2014年05月04日 12時31分10秒 | ■俳句・短歌・詩

 

   人入つて門のこりたる暮春かな  芝 不器男

    26歳で夭逝した天才肌の「しばふきお」。5年足らずの作句活動も、晩年は病気療養により思うようには行かなかったのだろう。

   明日、5月5日は「立夏」。暦の上では「夏」となる。 「暮春(ぼしゅん)」は「暮の春」であり、春という季節の “終わり(暮)” を意味する。「春の暮」すなわち「春の日の夕暮れ」ではない。だが句の “解釈” において「夕暮れ」とすることは可能だ。 

   事実、初めてこの句を眼にした20代の終わり、「春が尽きようとしている日の夕暮れ」とすることに、何の躊躇もなかった。これから夜へと向かう「夕暮れ」とした方が、「話(物語)」のケリもつけやすく、また “薄暗い” 方が絵的なまとまりも容易だからだ。何と言っても、“余情” も演出しやすい。

   しかし、今では初夏の暑さを感じさせる「日盛り」というイメージが強い。「夕暮れ」では、いかにも高温多湿の “しっとり感見え見え” のような気がする。もちろん、これは筆者個人の感覚であり、趣味の問題だ。

        ☆

   さて、本句は典型的な俳句的省略の効いた平明な句。『……春も終わりに近い或る日、とある屋敷の「門」を「人」が入って行く。そのあとには、取り残されたかのように「門」がそこにあるだけである。

  ……とは、誰もが感じるだろう。だが “省略が効いている” だけに、「鑑賞者」それぞれのイマジネーションは際限もなく拡がって行く。「時刻」も「物音」もなく、また「造形的な形や色」の表現もないため、華美な修飾の入り込む余地はない。ドライなリアリティに包まれ、“実存主義” 的な “渇いた”、そして “突き放された” ニュアンスがある。それがまた「夭逝した作者」の人生と重なり合うような気もする。

    それにしても、句中の「人」や「門」とはどのようなものだろうか。まず「人」について言えば、「老若男女」や「人数」の違い、「家人」か「客人」かによっても句の趣きが異なる。ことに「客人」とした場合は「家人」との絡みが加わるため、「話(物語)」を拡げることができる。だがそうなると、「とり残された門」の存在感が薄らぐ。ここは “単純” に徹し、「家人」とした方が勝るようだ。

   「門」については「冠木(かぶき)門」ほどではないにしても、やはり “ある程度の門構え” は必要……と想われがちだ。しかし、筆者個人としては、「門扉」はなくとも「門柱」と「家を囲む最小限の塀」があれば、それで充分と思う。もっと言えば、「門塀」は古びた質素なものが好ましいのだが……。

   今回だけは、筆者の鑑賞を控え、読者各位において自身の鑑賞をお楽しみあれ。

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   筆者が好きな不器男の句――。

 

    白藤の揺れやみしかばうすみどり

  麦車馬におくれて動き出づ

  あなたなる夜雨(よさめ)の葛(くず)のあなたかな

  寒烏巳(し)が影の上におりたちぬ

  炭出すやさし入るひすぢ汚しつつ

 

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  芝 不器男(しば ふきお)  1903年(明治36)4月18日~1930年(昭和5)2月24日。愛媛県出身。東京帝大農学部中退後、東北帝国大工学部に入る。1825年、俳誌「天の川」主宰の吉岡禅寺洞に師事。翌年、高浜虚子の「ホトトギス」にも投句を始め、虚子の注目を受ける。1928年に婿養子となるも翌年発病、治療のため九州帝国大付属病院に入院。この頃、禅寺洞と面会。12月に退院後、俳人でもある主治医・横山白紅の治療を受けるため、福岡市薬院庄を寓居とする。翌1930年2月死去。[筆者編集]

   



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