『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・現実と寓意の狭間で/『六月の綻び』(下-5)

2014年10月09日 00時00分29秒 | ●演劇鑑賞

 

  『……今は私自身生きる自信さえ喪失しかけておりますが、私の命をもってお詫びしても償うことはできないものと捉え……』(※註1)

 

  この一節は、今年7月26日に起きた「佐世保市女子高1年生殺人事件」加害者の父親が、事件後一週間ほどしてマスコミに発表したものの一部です。この方は10月5日、ご承知のように自ら命を……。

   それにしても、「実の父親」さえ殺そうとした少女。際立って優秀なその父や母のもとに生を享け、豊かな生活に支えられていた少女。猫の解剖に飽き足らず、“人間を殺したい” と想い続けていたという少女……。

  今回の『六月の綻び』を鑑賞するにあたり、筆者の脳裏には、たえず《この殺人事件が渦巻いていました。 のみならず、繰り返される「子殺し」「親殺し」そして「配偶者殺し」という「家族間殺人」も、同様に脳裏を駆け巡っていたのです。

   このことは、《家族とは何か?》というプリミティブ(原初的)な「問題提起」から、「人間」は “逃れることができない” ……いや、決して “逃れてはならない” と、厳しく突き付けられているような気がします。

   同様に、夫婦とは? 親子とは? 兄弟姉妹とは? ……自我(自分)とは? 他我(他者)とは? 生きるとは? 死ぬとは? 愛するとは? そして、自由とは? 自由意思とは? 正義(義)とは? 秩序とは? 正義や秩序の保持や回復とは? さらに、“人が人を殺(あや)めるとは?” ……という “哲学的” な「基本命題」についても、たえず振り返るよう戒められているのかもしれません。  

       ☆ 

  ……行きすぎた暴力に対する自衛や憎悪とはいえ、“なぜかくも親、子、兄弟姉妹や配偶者を殺害できるのか?”。  あるいは「家族間」を含め、“人が人を殺めるということが、なぜかくも安易に繰り返されるのか?”。  

   人間にとって、“血のつながり(肉親)” というもっとも強い絆で結ばれた「親子の間」でさえ、“互いの生命を奪い合う” という “人間の業の深さ” ……。これは一体どこから来るのでしょうか? 無論、誰も答えることができません。それだけに、人間がそのような “自由意思” をいつでも行使できるという “身近な選択の忌まわしさ” を、嫌と言うほど思い知らされます。

       ☆

   今回採り上げた『六月の綻び』も、以上のような「問題提起」や「基本命題」を含んでいることは確かです。しかし、言うまでもなく、これらの「問題提起」や「基本命題」は、簡単に “論破” できるものではありませんし、またその必要もないと思います。というより、そのような解決を図るべきではないのでしょう。

   なぜならこのような「問題提起」や「基本命題」は、各人の感性・意識、価値観、人生観や世界観、そして生命観や倫理道徳観といったものに大きく左右されるからです。筆者のような個人が、このような「ブログ」において、「結論めいた考えを披歴する」ことは言うに及ばず、滔々と論じることさえ憚られます。

       ☆

   では本作における作者の基本的な狙い”は、何だったのでしょうか。それは、本シリーズ[中]の「演出の言葉」に隠されているようです。以下は「その一文」です。もう一度、じっくりご覧ください(※下線・太字とも筆者)。

 

  [A]:僕は外の世界僕の価値観人間性を手に入れたつもりなのに、家族の中では「家族の中の僕」でいなければなりません。だって、僕たちは「家族」なんです。》

   [B]:《来年からは社会人となります。結婚子供のことも現実味を帯びてきて、いつかはみなと同じように新しい家族を築くんだろうなぁ、》

        ☆

   以上の[A]を筆者なりに解釈すれば――。 

   “限定された世界観や価値観” の《内なる家族》によって守られて来た「家族の一人」が、《外なる社会》を覘き見た後に《内なる家族》へと戻って来たとき、否応なく《外なる社会の持つ世界観や価値観の多様性や可能性》を突き付けられた。 

   ……ということでしょう。それでも《内なる家族》にいるかぎりは、その世界観や価値観に “拘束される” という “不自由さ” も避けられません。

   とはいえ、たとえ “不自由” ではあっても、その “学習効果” が正常に機能すれば問題はないのでしょう。しかし、著しい “齟齬” や “混乱” を来たすとなれば、ただでは済まないことに……。

 

   思うに、《内なる家族》とは、「子供」を《外なる社会》の「構成員」(学生や社員)として送り出すための「生産の場」であり、また《外なる社会》とは、その「構成員」(社員や学生)を《さらに高次の「外なる社会」》の「構成員」(市民や国民)として送り出すための「再生産の場」と言えるでしょう。

   無論、「生産・再生産された構成員」は、いつの日にか「新しい内なる家族」の「生産」のために “フィードバック” されるわけですが……。

 

   [B]は、本シリーズ[下‐3]の〈兄 ★1〉の「台詞」の根幹をなしているようです。以下の一節は、〈兄〉が〈弟〉と〈妹〉の二人に、包丁を突き付けて声高に罵る場面です。

 

   《この家から出れば、自分で金稼いで、結婚して、子供産んで、新しい家族作ってさ。お前らの苦しみなんて笑い話にできただろ? 俺は幸せになれたんだよ! お前らが余計なことをしなければさ。殴られてばよかったんだよ。》

 

   以上、〈〉の〈弟・妹〉二人に対する憤りの “前提” は、《内なる家族》の “崩壊” でした。中心的な存在であった〈〉そして〈〉の “消失(死去)” によって、正確に言えば、“消失(死去)”に到ったプロセスに問題があったがために、《前の家族》は “崩壊” すなわち “破綻” したのです。つまりは、“大いなる綻び” を見せたというわけです。問題は、なぜ “破綻” したのかと言うことになるのですが……。

   《前の家族》が “破綻” した後、〈〉〈〉〈〉は、何とか三人だけの《新しい家族》を創ろうと試みました。しかし……。

   そしてその後、〈〉と〈〉に “拒絶” された〈〉が、 “消える” ことになるのです。

   さらには、その〈〉も、[下-4]の「妹 ★3」において、

 

   『「わたしはお兄ちゃんを食べない。もうお互い食べ合うことなどしなくていい……。だって……わたしたちは、家族じゃないもん……。」 』

 

   という「謎めいた言葉」を残して “消えた” のです。あとには、〈〉がたった “一人残った”。いえ、“残された” のです。

       ☆   ☆

 

   さて、物語の紹介は「前回(下-4)」で終了しています。お気づきのように、これまでの6回分は、多少「台詞」を紹介し、これといった役者の動きも採りあげたつもりです。ことに「下-2」以降の3回分では極力「台詞」を再現するとともに、舞台の “雰囲気” を伝えることに努めました。

   その「理由」は、筆者の個人的な鑑賞をできるだけ避けながら、実際にこの「舞台を観ていない人」にも一緒に “考えて欲しい” と思ったからです。実際にこの「舞台を観た人」には、再度 “考える機会” になればとの気持もありました。

        ☆

   これまでの「6回分」をご覧になれば、この物語の筋や展開について、かなり理解されたことでしょう。

   筆者は、本作が目指そうとした「テーマをつぎのように捉えています。それを “哲学的” に言えば――、

   “人間の究極のエゴイズムを、家族というコミュニティの中でどこまで純化できるか。”

   ということでしょうか。少し言い方を変えるなら――、

   “自我の絶対的な確立は、どのような他我の同化や否定をもたらすのか?

   ……でしょうか。

   筆者があえて “哲学的” と言ったのは、本作に「テーマ」を組み込んだ作者自身が、「観客」そして「受け手」に “哲学的” な “解釈” を求めていると筆者が感じたからです。

   もし、“哲学的” ではなく、“現実的” な “解釈” を求めるとなれば、本作の「テーマ」は、“残忍で猟奇的でおぞましい” ものとなりかねないのです。“家族とは何か?” や “自我の確立とは?”、また “「内なる家族」と「外なる社会」とは?” どころではなくなるのです。

   作者はあくまでも、極めて “現代的な寓意(アレゴリー)” として、数々の “伏線” と “問題提起” と “基本命題” とを「観客そして、結果として本ブログ「読者に投げかけながら、各自の解釈に委ねたのでしょう。そうでなければ、「現実的な家族殺人」として、「罪と罰」云々どころか、「カニバリズム(cannibalism)」にまで言及せざるをえなくなるからです。無論、それは作者の本意ではないと思います。(続く)

            ★

 ※註1 掲出の言葉のあとは、 『特にご遺族様に対しては、そのご心情を十二分に配慮しつつ、適切な時期・方法において、謝罪・補償等、私の力の及ぶ限り誠意ある対応をしていく所存です。』 となっています。

 その「誠意ある対応」は、おそらく “志半ば” に終わったことでしょう。愛すべき自分の娘が、常軌を逸した方法で “人を殺めた” という事実に、弁護士であるこの父親は、何を想い、何を憂い、何を後悔し、そして、どれほど慟哭したことでしょうか。 黙祷。

         ★   ★   ★

 

  「お知らせ」

   この『六月の綻び』に関する「鑑賞」は、前回、予告しておりましたように、今回を「最終回」としていました。

   しかし、「最終稿」が予想以上に長くなり、今回分だけでは収まりきれなくなりました。筆者は、本作に賭けた作者の強い、そして熱い思いを重く受け留め、安直な「終稿」で纏めることを避けたいと思うに到りました。多少の課題が残ったとはいえ、本作がそれだけ優れた作品である証左です。

   次回が正真正銘の「最終回」となります。以上、お詫びかたがたお知らせいたします。

  2014年10月9日 午前零時  

  花雅美 秀理  kagami shuri 

 


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