今日もあまりいい天気ではありませんでしたので、洗濯物がイマイチ…風も冷たかったですね。我が家ではもう白梅は終わってしまい、遅咲きの豊後梅がさあ咲こうと蕾をたくさん付けていますのに、このところの寒さで足踏み状態です。
昨日は、午後と夜の部のダブル句会でしたので、やはり疲れました。このところ気がかりなことも重なって、精神的な重たさが余計に疲労感を覚えさせるのかも。よく言うでしょ、〝気が重い〟とか〝気が滅入る〟とか。あれですよ。
ところで、夜の部の兼題は「余寒」でした。先日の「冴返る」や「寒戻り」と同じ内容の春の季語で、暦の上では寒が明けて、春を迎えてはいるものの、まだ残る寒さがあるということ。
では馬醉木の俳人の3句を採り上げて、これらの季語の使い方などをみてみましょうか。
先ず今は亡き大先輩のお二人の句です。
橋の灯の水に鍼なす余寒かな 千代田葛彦
校正の朱を八方へ冴返る 福永耕二
前句、「余寒」を川面に映った橋の灯、それを〝鍼なす〟と見立てて捉えたもの。〝鍼なす〟とは、鍼灸に使う針のように尖って銀色をしている…と、寒さを感覚的に捉えたのでしょう。後句は、嘗ては馬醉木の編集長だった作者ですから、その校正の時の赤鉛筆の色に「冴返る」寒さを実感しているようです。
さてみなさんはこの2句を比べてみてどう思いますか。前句の方により寒さを感じませんか?後句は寒いとはいっても、朱色とそれが更に〈八方へ〉と開放的に捉えて、やがて来る〝春〟を予感させているからでしょうか。前句にはやはり〝鍼〟の一語が効いていますね。同じような季語でも感覚的なものが違うでしょう。
ここで、もう1句みてみましょうか。わが馬醉木の現主宰・德田千鶴子先生の句です。
冴ゆる夜の無韻につもる砂時計 德田千鶴子
この句のキーワードは「無韻」です。「無韻」とは〝雪などが音もなく静かに降ること〟なんですが、ここでは雪ではなく砂時計の砂が落ちていく様子です。冬の季語「冴ゆ」は、寒さが極まって光や音・色などが澄みわたった透明な状態をいう季語ですし、夜の静寂なんですから、かすかな砂の零れ積もる音が聞えてもおかしくはないのでしょうが、そこにあるのはただ時間という無限の闇。その音のない中で主宰は一体何を見つめていたのでしょうか。主宰という多忙の日々に、ふっと訪れる一人の時間、早くに逝かれたご主人への思いかも。闇の中に一途に研ぎ澄まされていく感覚…。でもこの時間は短いですよね。どんなに長くても砂時計なんだから…。でも「冴ゆ」という季語を使うと、まだまだ〝春〟への兆しが感じられませんので、どこまでも〝無〟へ繋がっていくような気がするのです。
ここでこれらの句を、例えば〈橋の灯の水に鍼なす寒戻り〉とか〈校正の朱を八方へ冴えにけり〉〈冴え返る夜や無韻の砂時計〉などと言い換えてみることができますが、やはりしっくりとこないでしょう。ということは、それぞれの季語がその句の内容とびったり合っている…即ち季語が〝動かない〟ということになるのですよ。少しは分かっていただけたかしら?
写真は、お隣さんちの〝紅梅〟??? 薄紅梅はよく見かけますが、こんなに濃い色は珍しいから違うかも。今度聞いてみましょう。ついでに8日に撮った満月?いや、9日が満月だから〝小望月〟。これも「寒月」と詠んではいけないかしら?
このように強烈な紅梅は初めて見ました
ちわきさんの文章も解りやすくて楽しみにしています
お変わりないですか?
このところ忙しくってお隣さんとお会いすることもなく…まだ聞いてないので確認できませんが、やっぱり紅梅でしょうか。
ブログ読んでくださってありがとうございます。千鶴子先生や葛彦先生はよく知っていますので、歳時記の例句に採り上げてあるとつい嬉しくなりますね。耕二さん…といっていいのかしら?でも私は全く知りませんので先生とは言いにくくって…。でも、やはり馬醉木の方と聞くだけでも懐かしく思います。
昌子さんはご存じなんでしょう?どんな方だったのか知っていれば教えて下さいね。