ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟へ!(最後の石垣島)

2020年04月01日 | 俳句

 先日削除してしまった3月28日のブログ〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟の(最後の石垣島)に、もう一度挑戦します。うろ覚えなんですが…もう一度読んで下さいね。

 このところお天気が今ひとつで、雨が降ったり止んだり…こういうのを、俳句では〝菜種梅雨〟といいます。

 歳時記を見ますと、〝三月から四月頃、菜の花が咲く、その頃降り続く長雨をいう〟と。確かにその通りですが、その後の小沢實氏の解説が面白いのでちょっと紹介してみましょうか。

 〝「梅雨」は当然夏の季語。また、「菜種」は菜の花の結実したもの、アブラナの実である。季節は夏となる。その二つが合わさると、春の季語になるというのが不思議である。もともと、三、四月頃に吹く、雨を含んだ風をさしたそうであるが、風をなぜ「梅雨」とよんだのか、不可解。方言に漢字を当てたものか。「菜種」はア音が続いて明るく、「梅雨」はウ音が連続して籠ったような暗さが加わる。一語が照り翳る、陰翳の繊細さを楽しみたい〟と。

  菜種梅雨念仏の膝つめあわせ      桂信子

 ここまで丁寧に解説してもらえば、私たちも季語を用いるときはもっと神経を使いたいもの。

 そういえば、先日のNHKのテレビ「チコちゃんに叱られる!」で、〝春一番〟のことをやっていましたね。それを見ると、どうも私も勘違いをしていたようで…。立春を過ぎてから初めて吹く強い風ということは、もちろん知っていましたが、ただ感じとしては、春をもたらしてくれる明るいありがたい風だと思って、作句していました。でも、違うんですね。本来の意味は、壱岐の漁師さんたちが一番恐れた〝死を招く風〟だったんです。ある時のこの風で壱岐の漁師さんの3分の2以上が亡くなったって。エエッ、びっくりでしょ。どうもこの勘違いを大きくしたのが、昔全国的に流行したキャンデーズの歌「春一番」にあったと。作詞家の方もそれを後から知って、申し訳ないので「あぶないぞ、あぶないぞ!春一番」という歌を作ったそうですが流行らなくって…私も初めて聞きましたけど。

 とにかく自分では知っているものとして、間違って使っているものがあるということですので、しっかり再確認をして使いましょうね。ハイ、私も反省していま~す。

 さて、そろそろ〝八重山諸島5島めぐり 3日間〟の、(最後の石垣島)を書いて、この旅も終わりにしましょう。

 2月26日、午前中に小浜島内観光を終えて、また石垣港へ戻り、今度はバスで昼食会場へ。和流ダイニング「みふね」の〝アグー豚と豚の食べ比べ!島野菜のしゃぶしゃぶ〟をいただきましたが、とてもおいしかったです。でも、珍しい島野菜の名前、教えてもらったのに…聞いたことのない島言葉ですからさっぱり。食後はその店でしばらくショッピングです。

 その後最後の観光地〝バンナ展望台〟へ向かいました。

 バンナ岳は石垣市街の北にある標高230メートルの山。ふもとからバンナスカイラインを通り頂上まで車で15分です。展望台からは、名蔵湾や竹富島、西表島、小浜島などの島々や天候が良い時は遠く黒島や波照間島まで見渡すことができ、周辺のバンナ公園には琉球松や亜熱帯植物の花が咲き誇っていて、気軽に訪れられる景勝地。地元の方の憩いの場でもあります。また、手軽に石垣島の夜景を楽しむにはお薦めの穴場スポットなんですってよ。

 もう二度と来ることはないかも知れませんので、私も頑張って展望台へ上がりました。

 早めに下に降りてぶらぶらしているとバナナの花を見つけました。添乗員さんに聞いてみると、バナナには二種類あって、黄色くなって食べられるものと青いままで料理に使うものがあるんですって。これは料理用のバナナ。フ~ウン、知らなかったなあ。

 これでいよいよ本当に最後になりました。後は石垣空港まで一走り。ところが、バスの窓から名残惜しげに景色を眺めていると、今まで一度も降らなかった雨が、まるで別れを惜しむかように突然土砂降りになったんです。〝わあ、大変!傘を出さなくっちゃ〟と思っていると、空港に着く頃はもう小雨に。なんともアリガタイこと。これでこの3日間一度も傘をささずに…ラッキーな旅でした。感謝、感謝!八重山諸島のみなさん大変お世話になりました。

 空港に着いて、来たときと同じように15時25分発FDAチャ-ター便に乗り、山口宇部空港に17時30分無事到着。非常に快適な3日間の旅でした。私の怪我を除いては…ね。アハッ!

 最後まで読んでいただいた皆様、お疲れ様でした。有難うございま~す。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の〝闘病記〟かな?

2020年04月01日 | 俳句

 とうとう3月も終わりましたね。コロナに明けてコロナに暮れた一ヶ月間でした。初め頃はまだまだ暢気に冗談など言って笑い合っていましたが、ここまで深刻な状態に陥るとは月初めにはだれも想像しなかったでしょう。これほどに世界中を震撼させて、今なおその猛威は衰えを知りません。

 こんなことは私の今までの人生では最初にして最後の体験でしょう。これまでだって確かに人類を脅かす感染症として、ペストやスペインかぜは知りませんが、エイズやSARSにMARS、エボラ熱、鳥インフルなど…いろいろ恐ろしい伝染性の病気についてはニュースで聞いて知ってはいても、他所のこととして傍観者の一人でしたし、身近にそれらの病気に罹った人がいて、恐怖を実感したこともありませんでした。せいぜいインフルエンザの流行で罹患した時。でもこれだってもうタミフルという特効薬ができていて、それを飲んだらすぐに治りましたものね。

 私がウイルスの脅威を一番に感じたのは、C型肝炎ウイルスでした。目に見えない菌が肝臓に巣くって、長い時間をかけて肝細胞を徐々に破壊しているのだと教えられたとき本当に恐怖でした。

 最初の発病は、まだ20代。子宮外妊娠での突然の破裂。これで一度は死にかけましたが、運良く緊急手術と輸血で助かりました。が、そのときの輸血量1400cc。牛乳瓶7本だよと言われて…。でもその時はそんなことよりただひたすら傷が癒えて学校へいつ復帰できるのかと、…それがもうすぐという時になって、急性肝炎だと。

 輸血後の血清肝炎が怖いから気をつけなさいということは聞いていたし、知ってもいました。それで先生に確かめると、〝もう今は売血の時代じゃないんだから大丈夫だよ〟という返事。ところが医学書通りに間違いなく症状が出て、輸血一ヶ月後の発病でした。即入院で3ヶ月。

 このときの病院では、まだC型が発見されていませんでしたので、私は〝非A非B〟。それで先生やみんなからよかったねと言われ、ああ、助かったと私も思ったのでしたが、それが大間違いだったということが分かるのは20年後でした。それからは当然慢性肝炎の診断を下されて、長い間の通院治療生活でした。

 それでも普通の生活ができましたので、慢性肝炎は私の持病だとだんだん気にもしなくなりました。ところがですよ。もうすっかり肝炎のことなど忘れかけていた頃、学校の定期検診で肝臓の数値が上がっていると。それで精密検査をという通達がきました。

 その後の検査でC型肝炎が判明。〝何ですか、C型って?〟と、先生に聞くと、先生は黙ってこれを読みなさい、詳しく書いてあるからと冊子をくれました。それを読むと…、〝一度罹ると一旦沈静化してから次に発病するまで潜伏し、20年前後に再発。再発後は肝硬変から肝臓癌へと移行。その割合は非常に高い…〟と。もう目の前が真っ暗になりました。私にはもう先がないの?後何年ぐらい…10年は生きられるのかしら…など、などと考えると食事も喉を通りませんでした。主人にも言わず確か1週間ぐらいはふさぎ込んでいたような記憶がありますが、〝もうどうしようもないわ〟と腹をくくって、主人と相談し先生の言われるままに、まだ治験中のインターフェロン治療を受けたのでした。その後は…話してたらきりがありません。

 とにかくウイルスはしぶといやつです。あの苦しいインターフェロンを半年も打って、やっと正常値になったと、家族中がそれは喜びましたよ。ところが、その喜びは半年しか持ちませんでした。その後は強力ネオミノファーゲンシーの点滴治療。勤務後2時間の点滴を受けては帰宅していました。これも辛かったです。だって血管が出にくくて唯一一本の血管でしのぎましたから…。だから、今でも点滴には尻込みしてしまいます。

 そのうちまた、新しいものが出来たからもう一度インターフェロンしてみないかと、先生に言われ2度目のインターフェロン。今度は体験済みなので準備万端整えて…挑みました。

 半年後の結果を聞きに行くとウイルスが消えていると。ああ、うれしや、うれしや!あの苦しみを乗り越えた甲斐があったと。なのに、なのに…神様は非情ですよ。正常だったのは今度は一年間。このときほどがっかりしたことはありませんでした。もう、運命に任せるしかないちゃ…と、やけにもなります。しかし、母が心配して民間療法を聞いてきては、まだ市場には出回っていなかったキョーレオピンやプロポリスなどを取り寄せ送ってくれるので、随分飲みました。相当お金もかかったんでしょうのに…。

 それからどれほど経ってからでしょう。先生がもう一度…今度は良い飲み薬が出来て、それと併用すればかなりの人がよくなっていると…、また説得されました。もし今度もダメだったらもう立ち直れそうにないので、するのには勇気がいります。今までだって何パーセントかは治った人がいるというのに、私はいつも外れ…まるで私の引く籤と一緒です。だからもう半分以上は期待せずに受けましたよ。でも3度目の正直というやつ、やっとのことで…今のところ正常値で無事です。今はもう薬だけで治るようになったそうですが…。本当に医学の進歩は凄いです!それでも、ウイルスの発見から20年以上ですものね。

 本当に目に見えないウイルスとは厄介なもの。肝炎のウイルスは短期間で猛威を奮うほどの強いものではないのですが、その分冒されているのが分かりにくい。それで長年の間気づかずに手遅れの人が出るということ。しかし、今回の新型コロナウイルスは伝染性が強く、また、短期間で肺を冒すという。それなのにそれに対抗する治療薬がないということ。罹ってしまうとあっという間に増殖するのでしょうね。一日も早くそのウイルスを撲滅する薬などが出来ることを祈るしかありません。新型コロナもいずれは解明されて治療薬やワクチンなどもできるでしょうが、それまでにどれほどの人が犠牲にならねばならないのかと思うとき、本当に他人事ではありません。でも、何も出来ない…

 今日のニュースでは、早くも感染者が70万人を超えて、死者も3万6千人を超えたと。こんな時自分のことを長々と書いてしまいました。書き切れないことが山ほどありますが、私たちはいうならこのような目に見えないウイルスの中で生きているとも言えるでしょう。まだまだ未知のウイルスがどれほどあるのか見当もつきませんが、その度に人類は結集して、なんとかその対策を見つけてきました。

 明治の初めにあれほど恐れられ、〝死の病〟と言われていた結核が今では恐怖ではなくなりましたもの。その代わりの〝死の病〟が癌ですが、それもだんだんと治癒率が高まって、以前のように癌=死ではなくなっています。ひたすら願いましょう、そして、信じましょう。世の中を、人類を…

 読んでいただいた皆さん、お疲れ様でした。私の言いたいことは希望があるということ…、アリガトウございました。

 お口直しに…いやお目直しに、八重山諸島の〝シーサー〟などいかがですか。沖縄での代表的なおみやげの一つ、「シーサー」は、建物の門や屋根、村落の高台などに据え付けられ、家や人、村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けをするものと言われています。八重山では〝シーシー〟ともいわれ、自分の手で作ったり、色づけしたりすることができるんですよ。これで、コロナを撃退しましょう!基本的なのは一枚目の屋根の上。でもみなそれぞれにカワイイでしょ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする