ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

秋元不死男

2017年07月30日 | 俳句

 今日は何も書くことが…いや、朝から一日中物書きで過ぎてしまいましたので、もう書く気がしないのです。スミマセン。

 でも、何か…やっぱり俳句の話でもしましょうか。

 私の大好きな俳人の一人・秋元不死男、名前はよく知っているのですが、今までは詳しく知らないままで次のような有名な句を鑑賞していました。恥ずかしいことです。ちょっと調べる機会がありましたので、皆さんにも紹介しますね。

   鳥わたるこきこきこきと罐切れば

 1901年~1977年、享年75歳。本名不二雄で最初は、「東京三」(ひがしきょうぞう)や「秋元地平線」の名で投句し、昭和23年より「秋元不死男」の俳号を使う。彼が「新興俳句運動」に加わり、その後治安維持法違反による「俳句弾圧事件」の関連で、平畑静塔や西東三鬼らと検挙されたことは歴史的にも有名なので私も知っていましたが…。昭和16年から18年の2年間投獄された体験を、昭和25年に句集『瘤』を発刊して発表し、所収の366句中、172句が獄中句ということは知りませんでした。そして、この句もその『瘤』に所収されている句だということを知りました。

 俳句では擬音語などのオノマトペがよく使われますが、彼は「オノマトペの不死男」と言われるぐらいにこれが上手だったんです。この句では「こきこきこき」です。もちろん缶詰を切る音ですが、最近では缶切りを使うことがなくなったので、ピンとこない人も増えたでしょうが…。この句は昭和21年の作だと言えばすぐお分かりでしょう。戦後直ぐの時に缶詰が簡単に手に入ったかということです。私は幼いとき大分県の別府市に住んでいました。その頃(昭和20年代後半)は進駐軍がたくさん居て、初めてパイナップルの缶詰が手に入り、父に缶を切ってもらって食べましたが、〝この世にこんなに美味しいものがあるのかしら〟とびっくりしたことがいまだに忘れられませんもの。缶詰とは当時普通では滅多に口に入らない、それ程貴重なものだったのでしょう。まして終戦直後ならなおさらのこと。

 この句について不死男が自解しています。「その頃、横浜の根岸に棲んでいた。駐留軍が前の海を埋めて飛行場をこしらえた。風景が一変すると私の身の上も一変した。俳句事件で負うた戦前の罪名は無くなり、つき纏うていた黒い影も消えた。たまたま入手した缶詰を切っていると、渡り鳥が窓の向こうの海からやってきた。この句、初めて賞めてくれたのが神戸にいた三鬼だった。以来私を『こきこき亭京三』と呼んだりした。(私が東京三の筆名を捨てたのは、それから間もなくだった。)天下晴れて俳句が作れるようになった私たちは、東西に別れて懸命に俳句を作った。敗戦のまだ生なましい風景の中で、私は解放された明るさを噛みしめながら、渡り鳥を見上げ、こきこきこきと缶を切った。」と。飯田龍太は、彼を「昭和の俳諧師」と名づけたというが、そんな秋元不死男の代表句だったんですよ。知らないということはオソロシイ!

 今日は忙しかったので、写真はありません。ゴメンナサイ!では、また。

コメント
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