staying at home
長引いておりますが、油断せずもう少し臆病で
と愚考する今日この頃であります
プラスアルファの時間
私は早朝に荒川まで散歩したり
映画を観たりというところでしょうか
映画はネットではなくWOWOW
自分の都合・好きな時に観るのではなく予定して、と
そこで
戦艦「大和」の建造の是非を巡る出来事を描いた映画
「アルキメデスの大戦」を観ました
海軍とはこういうもんだ、海戦とはこうすべきだと
「伝統的なので正しい、守る」という考えがはびこっていることに
やれやれ、今も一緒か、と暗澹たる思いになりました
※暗澹たる:手書きでは決して使わないであろう言葉
いずれにしても歴史、事実の積み重ねを大切にして
見失うことの無い様にしたいものです
さて、今回はネタ資源の持続可能性を高める目的で
使いまわしであります
大きく時代が動くかと思われる昨今SNSでは
「伝統云々」の話題もありますので、そのあたりを
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◆昔はよかったか?
戦後の日本は道徳が崩壊した
「昔はよかったのに」という様な話はよく聞きます
ここでの昔は、明治から終戦(1945年)までを
指すようです
いきなり結論を
日本人の道徳心は終戦(1945年)を境に
低下しはじめたのではなく「もともと低かった」
それどころか、今の日本人の方が
昔の日本人に比べて道徳的に優れているとさえ言える
そもそも
明治以前は
一言で言えば「大らか」だったようです
幕末から明治期に日本を訪れた外国人の多くが
驚きをもって記録に留めています
幕末に日英修好通商条約締結のために来日した
ジェラード・オズボーンは「日本への航海」の中で
江戸郊外で見た様子を以下のように書いています
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郊外で午後五時だったので、誰もが沐浴をしていて
「清潔第一、慎みは二の次」がモットーのようだった
ある場合にはタライが戸口の外に置かれて
家族が屋外で楽しく、湯気を上げている湯につかって
布で体を擦っていた
また他のものは、タライを屋内の土間に置いていたが
家の正面は完全に開け放してあるので
女性がイブそのままの姿で、風呂から出て
我々を見ようとして走り出てくる様子は
少々ぎょっとさせるものだった
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日本では徳川時代にもその前の時代にも
特有の礼法が武士の社会にも、町人の社会にも規定されていて
それを破るものは、しりぞけられていた
維新後には次第に古い風習が廃れて
新しい行儀作法は整わず、私などは
不行儀無作法御免の時代に成長したような有様であった
自由気ままでよかったようなものの
皆がそういう風では、世の中が乱雑で殺風景で
社会生活が快くないのであろう
虚儀虚礼も社会を和やかにするに必要なのであろうか
讀賣新聞・1938年6月11日(正宗白鳥)
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維新前までの日本の教育で大いに重視され
明治後全く無視されないまでも
極めて軽視されたのは「躾」である
徳川時代の藩学、すなわち各藩の武士の学校には
必ずそれが一科をなしていたが
明治後は僅かに女子教育の片隅に残され
その語も「作法」と改められた
(中略)
今の教育では、個人としての、国民としての目的意識は与えられ
何を企図し、何をなすべきかは教えられているが
「いかなる“躾”によってなすべきか」が教えられていない。
讀賣新聞・1940年4月5日(長谷川如是閑)
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電車の中や汽車その他人混みの場所で
ところかまわずコンパクトを出してパタパタ顔をはたき
果ては衆目を浴びつつ
口紅までも念入りに塗っている人達をよく見受けます
お化粧は婦人の身だしなみだから、決して怠ってはなりません
がしかし、人前も憚らずあのようにお化粧をしているのは
あまり感心致しませんし
第一私の地肌ではこれをやらねば駄目なのです、、、
と自分の弱点を告白しているようなものでしょう
お化粧はそれぞれの持って生まれた
個々の美しさを生かす事ですから、人の見ない場所でお化粧をして
そしてコテコテやっていないように見せてこそ
はじめて婦人の身だしなみとなるのではないかと思います
東京朝日新聞・1935年6月18日
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日本人は必要があろうがなかろうが
他人を押しのけて我先に電車に乗り込もうとします
駅にいると、集団の中の日本人が
いかに単純で野蛮であるかがよくわかります
電車やサービスは概して良いし、駅も立派なのに
乗客には感心できません
彼らは列に並んで自分の番を待つということをしないので
切符売り場や改札口では勝手に割り込んできます
彼らの頭には、目的地に早く着くことしかないのです
この目的が達成されれば
彼らはもとの善良でのんきな日本人に戻ります
キャサリン・サンソム「東京に暮らす 1928~1936」
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以前は中学生は精力強健を誇りとし
空席があっても腰掛けるものは
殆どないといってもよいくらいであった
ところが近年は座席を望むものが多い
中には眼前に老幼者のよろめく姿を見ながらも
平気でいるものさえある
女学生はさすがに男生のようなムチャはしないが
男女ともこの傾向が増してゆくように思われる
東京朝日新聞・1940年10月11日
この頃市中の電車に乗っていて著しく眼につくことは
婦人や老人に席を譲る風が衰えたということであります
これは譲らねばならぬ側の人もわるいでしょうが
譲らるる側に人にも咎がありはしないかと思われます
讀賣新聞・1918年4月26日
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男湯では十人中三人まではお尻を洗わないで湯ぶねに
前をゴシゴシこすり、背中を縦横にに流す
これが田舎者ならいざ知らず
ひげを蓄え洋服を着る先生方にも少なくない
東京朝日新聞・1926年4月29日
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天長節の夜会に食器の紛失する事度々にて
毎年帝国ホテルに開く同会にフォーク、匙は勿論
煙草などは箱ぐるみ持去る者ありとは誠に恥かしき次第なり
讀賣新聞編「公徳養成之実例」
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これを読んで感じたことは
いつの時代も「平均してまとめてしまうのは危険」
ということです
それぞれの時代に、いろんな人がいたでしょうから
参考図書
「昔はよかった」と言うけれど
戦前のマナー・モラルから考える 大倉幸宏著
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◆あの伝統は何年前から?
伝統に合う、伝統に合わない、よく議論になります
ではその「伝統」とは?
その定義はなかなか曖昧です
政治家さんの「伝統に合わない」という言葉は
「私の意見と違う」という意味に聞こえます
2018年を基点に“何年前か”を探ってみました
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初日の出を拝むのは、約二百四十年
重箱のおせちは、約百五十年
「春の海」は、約九十年、昭和4年作曲
庶民が「姓」を名乗るようになって、約百四十年
「夫婦別姓」になって、約百四十年
「夫婦同姓」に変更されて、約百二十年
「選択的夫婦別姓」が議論されて、約五十年
箱根駅伝は、約百年
正月の箱根駅伝は、約六十五年
日本テレビが中継する箱根駅伝は、約三十年
お中元、お歳暮は、約四百年
七五三は、約三百四十年
すべて一般的になって(デパートができて)、約百十五年
大伴家持が「夏に鰻を食べろ」と言って、約千二百六十年
醤油もまだ発明されてなくぶつ切りで食べていた
開いて焼く蒲焼ができて、約三百二十年
土用の丑の日の鰻が始まって、約二百四十年
<平賀源内のコピーライト説が有名ですが諸説あり>
鰻丼ができて、約百八十年
鰻の養殖が始まって、約百四十年
日本で白菜の栽培に成功して、約百五年
日本にジャガイモが伝わって、約四百年
日本人がおおっぴらに肉を食べ始めて、約百五十年
「肉じゃがらしき料理」ができて、約百五年
名前が「肉じゃが」になって、約四十年
「目玉焼き」は、約百五十年
「卵かけご飯」は、約百四十五年
「卵かけご飯」が一般的になって、約六十年
日本でのキリスト教式結婚式から、約百四十五年
仏前結婚式から、約百二十五年
神前結婚式から、約百二十年
明治六年(1873) 黙認の形でキリスト教の禁止が解かれた
麹町の日本人女性が神田共立学校の外国人教師と結婚したのが、
日本におけるキリスト教式結婚式の最初だと言われている
それから、あちこちでキリスト教式の結婚式が行われた
(教会で神に誓う形式)
それを見て、西洋文明の香りを感じ、神聖だと思っただろう
そして欧米人からの「日本には、結婚の儀式もないのか?」
という視線も感じたに違いない
明治二十五年(1892)、最初の仏前結婚式が行われる
浄土真宗本願寺派の藤井宣正が東京白蓮社会堂で挙式
遅れて、明治三十三年(1900)、当時の皇太子(のちの大正天皇)の婚儀に
際して定めれらた様式が、神前結婚式
翌年、東京日比谷の神宮奉斎会本院(皇大神宮遙拝殿として明治十三年創建、
現在の飯田橋·東京大神宮)が、「模擬結婚式」なるものを開催して、
神前結婚式の様式を定めた
現在、東京大神宮のホームページには「神前結婚式の創始」と誇らしげに
書かれている
仏前、神前いずれも、キリスト教式を参考にして式次第が作られたのか、
内容はよく似ている
神前結婚式の「古式」は二十世紀に入って作られた訳である
ここから、
神社で行う神前結婚式が増えてくる
仏前でなく神前が多いのは、神道と家制度を使って国民を治める
という明治政府の思惑が大か
バレンタイン司祭処刑から、約千七百五十年
西洋のバレンタインデー(家族、友だちなど)から、約千年
固形チョコ登場から、約百七十年
西洋のバレンタインデー(恋人同士。チョコは関係ない)は、約百十年
日本でチョコと愛の告白になって、約六十年
盛んになって、約五十年
義理チョコ誕生から、約四十年
友チョコ誕生から、約十五年
告別式が始まって、約百十五年
告別式が一般的になって約百五年
天皇や皇族の霊は、平安時代以来、宮中の御黒戸に祀られていた
御黒戸とは、普通の家で言えば仏壇にあたるもの
位牌が置かれた仏式であった
天皇家の菩提寺は、京都にある泉涌寺
皇室の葬儀は代々、泉涌寺の僧侶を中心に仏教で行われてきた
神式に改められたのは、明治元年十二月二十五日の孝明天皇三年祭から
神道による国家運営という明治政府の基本方針はここにも及んだ
「平安神宮」は、約百二十年
「橿原神宮」は、約百三十年
「明治神宮」は、約百年
「白峯神宮」は、約百五十年
「吉野神宮」は、約百二十五年
「湊川神社」は、約百四十五年
「豊国神社」の再興から、約百五十年
「建勲神社」は、約百五十年
「東京招魂社」から、約百五十年
「靖国神社」になって、約百四十年
「伊勢神宮」は、約二千年
「伊勢神宮」に天皇がはじめて参拝して、約百五十年
「神田明神」は、約千二百九十年
「神田明神」の将門が末社に遷されて、約百四十五年
「神田明神」の将門が本殿に戻って、約三十五年
落語の誕生から、約三百二十年
寄席の誕生から、約二百二十年
「芝浜、妥七元結」などの誕生から、約百五十年
「落語」という名になって、約百三十年
「古典落語」の誕生から、約六十五年
しば漬けは、約八百三十年
すぐき漬けは、約四百二十年
千枚漬けは、約百五十年
したがって「京都三大漬物」は、約百五十年
最初の元号「大化」から、約千三百七十年
定着した「大宝」から、約千三百十五年
一世一元号から、約百五十年
元号の法的根拠ができて、約百三十年
元号の法的根拠がなくなって、約七十年
「元号法」で再び法的根拠ができて、約四十年
西暦は、キリストが生まれたと言われる年から数えている
今では事実上の世界標準紀年法となっているが
西暦が生まれたのは6世紀
それが一般化するのは10世紀頃と意外に新しい
しかも後に、肝心の起点がキリストの生年とズレていることが判明
しかし、そのまま使い続ける
もともと宗教由来の紀年法だが
この間違いのおかげで宗教色が薄まった
そしてもう一つ
17世紀に、「紀元前(BC)」という数え方が発明された
ほとんどの国や宗教の紀年法は、起点以前に遡ることがなかったが
この発明のおかげで
西曆は過去へも未来へも、えんえん伸びて行く
ことができるようなった
とびぬけて普遍性ができ、世界標準になる
紀元二千五百三十三年を言い始めてから、約百四十五年
「紀元節」から、約百四十五年
「紀元節」廃止から、約七十年
「建国記念の日」実施から、約五十年
葵祭は、約千四百五十年
祇園祭は、約千百五十年
時代祭は、約百二十年
したがって、「京都三大祭り」は、約百二十年
舞鶴の満願寺は、約八百年
とうがらしの日本伝来から、約四百七十五年
万願寺とうがらしは、約九十年
万願寺とうがらしが「京野菜」になって、約三十年
福沢諭吉が翻訳した「演説」から、約百四十五年
川上音二郎が歌った「演歌」から約百三十年
流しの「演歌師」から、約九十年
五木寛之が再定義した「演歌」から、約五十年
EHAGAKI #351 ≪あの伝統は何年前から?≫ 2020.4.6
参考図書:「日本の伝統」の正体 藤井青銅著 柏書房
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ということでした
厳しい時は続きます
心の栄養補給は怠らない様、ご自愛下さい
ではまた