橋長戯言

Bluegrass Music lover, sometimes fly-fishing addict.
橋長です。

EHAGAKI #426≪SDGs平和と公正を その2 ≫

2022年08月20日 | EHAGAKI

前回に引き続き、SDGsの観点から

「平和と公正をすべての人に(Peace, Justice and Strong Institutions)」
であります

2013年9月9日EHAGAKI #275≪戦争の話≫として紹介した 
身近に聞いた戦争体験談のリメイクであります

◆京都は爆撃された
◆母親に戦争の話を聞いてみた

SDGsな、ネタ資源保護の為のリサイクル、眺めて頂ければ幸いです


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

◆京都は爆撃された
(京都 ヨシィさんのfacebookより)

◇2013年8月11日
戦後、京都は文化都市で
爆撃は(されなっかた)しなかった。
が通説になっている。

多くの日本人はそう思われているようだ。
だが、大阪や東京の大空襲より前
昭和20年(1945)1月16日深夜に
京都市東山区馬町が爆撃され、死者42名がでた。

倒壊家屋、負傷者も多くでたが秘密保護の「箝口令」で
外部には伏せられていた。

付近にある現京都女子学園の学生寮が被爆した。
三十三間堂,恩賜(現・国立)京都博物館
妙法院が直近にある、住宅地の馬町にである。

清水寺は北東700米
当時、国民学校5年生だった私達は
その年の4月に学童疎開させられた。

爆撃はその他、西陣など数か所あり
死者も出て、慰霊碑がつくられている。
が、馬町の爆撃は忘れられた形であった。

東日本大震災で
石碑の忠告で被害が少なかった地区があると知り
忘れられた「馬町爆撃を語り継ぐ会」が出来た。

馬町空襲を語り継ぐ会↓
http://www.umamachi.jpn.org/

◇馬町空襲を語り継ぐ会、第1回会合より

●近年になって判明してきた資料によると
京都は原爆投下の第一目標で
京都、広島、横浜、小倉の順だったそうです。

●京都が選ばれた理由は
・人口が100万人ぐらいで市街地が広く、三方が山に囲まれた盆地であり
 原爆の爆風が最大限効果を発揮できる

・神社、仏閣が多く日本人にとって宗教的な意義を持つ重要都市であり
 日本人に大きな衝撃を与えられる

・文化人や知識人が多く住み、核分裂による新型爆弾を認識した知識人が
 日本政府に早期降伏を働きかけることが予想できる

●アメリカは、人類史上最初の核兵器を使用するに当たって
 その威力を正確に測定するため
 通常爆弾による空襲を行わず都市形態を温存させておいた

●このような理由により
 空襲被害をほとんど受けていない大都市、京都を目標としたのです

◇馬町空襲を語り継ぐ会」第5回会合より

●京の馬町空襲、通説覆す、米軍資料で判明

●市民団体が発見した馬町空襲などの実態を記録した米軍資料

●京都府内初の空襲だった京都市東山区の「馬町空襲」について
市民団体が米軍資料を調査したところ、これまでの京都府の
公式記録を覆す新資料を発見した。

●当初の攻撃目標が名古屋の兵器工場だったことや
250ポンド(約112キロ)高性能爆弾を20発投下したことが判明し
専門家は
「戦時中の混乱の中での調査結果がそのまま史実のように伝わってきたが
実態を伝える新たな資料だ」としている。
 京都新聞【 2010年08月03日 】


◇8月15日

68年前の今日、国民学校6年生だった。
祖父が病気で疎開地から、家に戻っていた。

祖父が、正午にレジオで「重大放送」ある。
店先のレジオで聞いて知らせろと命じられた。

正午に陛下の放送だと説明後
「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非情ノ措置ヲ以テ
時局ヲ収拾セムト欲シ茲二忠良ナルナン爾(ナンジ〉臣民二告グ・・・」
の昭和天皇のお声による「終戦の詔書」を聞いた。

レジオの音声は聞き取り難く、お言葉も難しく、何のことか判らなかった、
只何か大変なことだろうと察し、
祖父に告げると近くの「新聞屋のおじさんに聞いてくれ」と

そして日本の敗戦を知った。
祖父は、声を出して泣いた。

【天気は今日のようにジリットする暑い日だった】

その晩は、前日までの暗がりがウソの様に、家々の明かり、
街路灯も点利、町全体がキンキラと輝いて見えた。


◇2013年8月20日
敗戦の時、国民学校6年生であった私は
出征した父との面会に行った時、
この写真※とそっくりな光景を何度か見た。

※「自衛隊運用、制服組に移管
来年度にも、文官部局は廃止」報道に使われた写真

その頃の
「大きくなれば兵隊になって、陛下とお国に命をささげる」べき
との教育を受けていて、格好が良いに姿に憧れに似た感情を持った

敗戦で価値観が大きくかわり、平和と民主々義の新憲法ができた。
国民の祝日にまでして多くの国民は喜び歓迎した。

戦争の無残がなくなり、自らの力が政治に反映する。。。
その世代が少なくなり、最近の姿をみていると
前の戦争前夜のような感じがする。

この写真を見て「ゾーと」した。
軍隊を持たない憲法は完全に無視されている。
我が孫たちが戦争に巻き込まれないように
年寄りでも頑張ろうと思う。

◇2013年9月7日
東京の人たちの「オリンピック開催」が
きまってハシャグ様子をTVでみた。

その東京を電力でささえた「東北」は
今も原発事故で苦しんでいる。

家族、友人を亡くし、今も自宅に戻れずにいる人たちは
まだ悲しみを持ち続けているだろう。

私たちは何を置いても
「東北の復活」を最優先ですべきではなかろうか?。
それが日本人としての正義だと思うのだが・・

もし今、啄木がいたら
どんな詩を書くだろうか?


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


◆母親に戦争の話を聞いてみた

■2013年8月4日/東京単身赴任 kanpaiさんより
※現在、神戸三宮でBar「隠れ谷」営業中
https://kakuredani.wixsite.com/kobe

母親は昭和4年(1929年)生まれの84歳。
終戦の年は16歳なので
戦争の記憶を語れる最後の年齢かもしれない。
母親の記憶があいまいなので
名称等は間違っているかもしれない。

西脇の女学校の時に、女学生の学徒動員で
川崎航空機の明石工場の寮に入った。

寮で朝1時間だけ勉強して
「歩調とれ!」との号令でバスに乗って工場門に入る。

そこから気筒(きとう)部行きのバスに乗り込んだ。
気筒部とは飛行機のエンジン部分を組み立てるところで
そこの検査部門に入れられた。

野田高女から来たという女学生さんに検査の仕方を教えてもらう。
組み立てられたエンジンにホースで水を入れる。
ピューと水芸の様に水が噴き出す。
水の出ないエンジンは10台に1台もない。

心の中で「こんなことで飛行機ができるんやろか」
と思いながらも、黙々と不合格として処理する。

仕事中は、長い日本刀を腰から下げた将校さんがいるので
私語もできない。
不合格のエンジンは、土山の東亜金属に送り返す。

ある日、空襲が来そうなので
気筒部は東洋紡績の二見工場へ移ることになり
トラックで移動した。

その紡績工場では、軍需工場として引き渡すための
整理作業が行われていた。

食堂が垣根で隠されており
そっと中を覗いてみると、真っ白な大量の白米が炊かれていた。

おそらく、食堂に置いていた食料を
最後に従業員が食べたのだろう。

その後、明石の川崎航空機に空襲があり
二見の工場も危険なので防空頭巾をかぶって山の中へ逃げ込んだ。

目と耳を両手でふさいで、爆弾の落ちる音と爆発音を聞いていたが
そっと目を開けて明石の方向を見た。

大量の花火を見ている様で、明石の空が真っ赤になっていた。

空襲のあとは、電線に人肉が引っかかっていたりしていたらしい。
野田の女学生さんは逃げられたのか。
その後は西脇の野村の織物工場に移った。

西脇や社(やしろ)のような田舎でも
空襲警報はよくあった。

空襲警報があった時
佐保神社の裏山から崖を転げ落ちて逃げたこともあった。

田んぼの中で機銃掃射を受けて亡くなった人もいた。

ウーという警報が鳴ると、家中の電気を消して
真っ暗な中でご飯を食べた。

今、よく生きていると思う。
今思い出しても
短かかったのか、長かったのか、生きた心地がしなかった。

※川崎航空機明石工場空襲は昭和20年1月19日、
犠牲者263名、全国から来ていた学徒勤労報国隊16名
女子挺身隊8名も犠牲になった。

追伸:調べてみるとエンジンは岐阜工場で
組み立てられていた飛燕のものでした。
当初からエンジンの油漏れが問題の飛行機だった様です。
なんか納得。

コメント)
WH氏
私の父も昭和4年生まれの軍国少年でした
(今なお健在です)。
父は、海軍兵学校に志願し、最後の卒業生として
江田島の寄宿生活を送りました。

祖父は旧制中学の教師で、
教え子を戦場に送り出す役割をしていたそうですが
戦争に勝ち目がないことは分かっていたそうで
息子が海軍を志願した時
「お前が行くことは無かろうに」と泣いたそうです。

しかし、兵学校では、訓練する兵器もなく
海軍も敗戦後の復興を視野に
英語教育に力を入れていたそうです。

昨年、江田島の見学に行きましたが
父の上の学年までは、卒業写真が残っていました。
多分、多くの卒業生が死地へ赴いたのでしょう。

父の代だけは写真がありません。
ある意味、幸せなことだったのではないかと感じました。

いずれにせよ、父自体は
それほど悲惨な経験をしなかったようで、
あと1年、生まれるのが早くても遅くても
運命は大きく違っていただろうと思います。

母は昭和10年生まれで、学童疎開経験者です。
田舎の人にいじめられたりひもじい思いもしたようですが、
幼かったせいか
戦争の悲惨さに直面したという感じではないかも知れません。
8/4 23:11

MH氏
ウチの母も4年生まれです。
学徒動員で仁丹をつくらされ
3月の大阪大空襲で家を灼かれ
末弟(つまり私の叔父)を背負って火の海を逃げ
命からがら祖母の実家に疎開し
やはり辛いめに遭ったそうです。

こんな話を孫の世代に伝えようにも
聞く方はほとんど実感出来ないでしょうね。
8/5 19:51

MB氏
お袋さんも大変な時代を生てきたんだね。
僕の父も尋常小学校を出て、一人で大連の満鉄学校に入って、
その後、ハルピンで終戦を迎えたらしい。

ロシアの進軍から命からがら栄養失調になりながら
必死で引き上げ船に乗って門司についたらしい。

あまり多くを語らないが
その分、大変な目にあったたんだと思う。
8/5 23:42

kanpai氏
いろいろ調べるうちに、空襲で犠牲になった女学生16名の中に
野田高女の1名も含まれるいう記述がありました。
母に検査の仕方を教えてくれた人かは分かりませんが、
悲しい気持ちになります。
8/6 21:04

IT氏
うちのばあさんは昭和3年生まれ
愛知県の知多半島の半田の工場で
飛行機の翼を磨いていたそうです
・・・このとき空襲で同級生を一人亡くしたとか・・・・
戦争はいけません。
8/7 11:01


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


ということでした

最近、ウクライナの現地映像をみてゾッとする光景があります
破壊された高層の共同住宅です

今まで見てきた戦争の傷跡は、低層の街並みがほとんどでした
今、我々が目にしている光景は、見慣れた14階建
おもちゃの家の様に壁が無く室内が見える実物

映像なのか現実なのか
その区別も曖昧な我々
おそらくその指導者たちも曖昧なのでは

指導者たるもの、臆病でなければ
と、愚考する次第です

皆様におかれましても
心の栄養補給は怠らない様ご自愛下さい

ではまた


EHAGAKI#424≪SDGs音楽ネタ≫

2022年08月06日 | EHAGAKI

今年もまた、何かと微妙な夏休み期間となりました

さて
古い知人から古いカメラを預かりました
私が古いフィルムカメラを撮り続けてるのを知って
コンタックスを送ってくれました

そこに有効期限が2001年4月が有効期限の冨士フイルムが
添えられていました

昭和のコトは語られることは多いですが、2001年といえば平成13年
その頃は何を考えていたのか

このEHAGAKIで当時を振り返ってみました
SDGsの観点から
今回は持続可能な音楽ネタのリサイクルであります

軽く眺めて頂ければ幸いです

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

ニューヨークの路上で老婦人がミュージシャンに尋ねる

「すみません、カーネギーホールにはどうやったら行けるのでしょうか?」

ミュージシャンは答える

「練習あるのみ!」

2006年5月22日≪逸話≫より
※参考図書:「ジャズ・アネクドーツ」
ブル・クロウ著 村上春樹訳(新潮文庫)

◆2001年4月10日、LS HAGAKI Vol.36より

贔屓にしている人が活躍するのは嬉しいものです
第43回グラミー賞が発表され
【最優秀コンテンポラリー・ジャズ・アルバム】部門で
BELA FLECK&FLECKTONES「Outbound」が選ばれました

私は大学時代にBanjoという楽器をしていました
Bluegrassという音楽ジャンル(アメリカ民謡研究会所属)で
今もBanjoという楽器が好きなのですが
なかなか一般には馴染みのない楽器です

ジャズの世界ではデキシーランドで4弦Banjoが使われることがありますが
私がやっていたのは5弦Banjoでカントリーの中のでもBluegrassでしか
使われていないものでした

ですからBanjo奏者として成功しても大した収入にもならなかった様です
そんなBanjo界にあってジャンルにとらわれない演奏が出来る人材が出てきました
1958年生まれ(私とほぼ同年代)のBela?Fleckという男で
77年頃にデビューしBluegrassのバンドで活躍その世界ではNo,1となっていました
(でもマイナーですが)

そして89年に自身のバンドを結成コンテンポラリージャズに分類するしかない様な
新し音楽を始めたのです
それがまたふざけたバンドでBanjo、エレキベース、シンセサイザードラムに
ブルースハープという変則編成で、今までにないバンドサウンドを作り
その後はメジャーな活躍を始めたのです

彼の楽器には特徴があり、弦高(弦とフィンガーボードの間の高さ)が
かなり高いのです
ギターを演奏される方ならわかってもらえると思いますが
かなり弾きにくくなります(音量は上がりますが)

(↑1984/11/17 千里セルシーで橋長撮影)

85年のインタビューで次の様に語っています

「高すぎると自分でも思うけど、、、Banjoと闘っているんだ
闘っているというのがいいと思うんだ
流れる様なBanjoよりも、意識的にでも俺は弾いているんだ
という感じがライブではエキサイトしていいんだ
本当に高すぎて困る事もあるけど、それがいいんだ」

と答えています

そのインタビュー記事では

「彼の内向的な性格(たぶん)とスルドイ頭脳が生んだ
 ナルホドというやり方」と結んでいます  

私も新しい形の新築分譲マンションの販売会社を目指しています
新しいものを創る為に闘うことは不可欠だと言われます

日々の生活の中に「闘う工夫」をしなければならないなぁ
と考えている、今日この頃です


◆≪逸話≫2006年5月22日≪逸話≫より

バディー・リッチが入院した時、受付の看護婦が彼に

「何かアレルギーみたいなものはありますか?」

と尋ねた

バディーは答えた

「カントリー・アンド・ウエスタン!」



◆2002年3月19日、LS HAGAKI Vol.42より

今年(2002)のグラミー賞は、私にとって嬉しいものでした
私の音楽のフェイバリットであるブルーグラスがクローズアップされたのです

年間最優秀アルバムを受賞した『O Brother, Where Art Thou?』は
アメリカ の古い音楽がいっぱい入っています

その中でも特にカントリー男性ヴォーカル賞を受賞した
ラルフ・スタンレーが1人でアカペラで歌う"O Death"なんかは
日本の民謡(商業的ではないワーク ソング的な)と同じパワーを感じます

ちかごろの日本の歌(子供が聞いているヒップホップ調)は
歌詞の内容が清く美しすぎるものが多い様に思います
韻を踏んでいる関係もあるのでしょうが
「虫も殺したことの無い人が自然保護を訴えている」
様でどうにも落ち着きません

アメリカの古いブルースやトラディショナル(民謡)には
汚くて投げやりな言葉が多用さる時もあり
「清々しさ」とは対極の世界があります

If the river was whiskey, And I was a duck
I'd dive to the bottom, And I'd never come up

というフレーズは複数の歌に共通して使われています
なんともダメ男の現実逃避の歌詞なのですが
それは「叫び」でありそこにものすごいパワーを感じます

私の読書のフェイバリットである南方熊楠は
知人からの「酒を控えた方がいい ですよ」という親切な忠告に対して
以下の様な返事の手紙を書いています

小生に酒をつつしめ云々と有之(これあり)。
小生は親や兄弟が言うても酒を つつしまず。

又、たとえ慎むべしと約束した処が、酒をつつしむ男に無之候 (これなくそうろう)。
小生、従来名を挙げ事を成したるは、みな酒の被護にて候。

其許は酒を飲まず。
故に常に腰弱く・・・・酒がいやなら自分謹んで可 なり。
人に勧むるに及ばず。

・・・・小生酒を飲んでも其許の損に成らず。
其許は酒を飲まぬが、非常に小生及び当地方の多人数の迷惑を起こし居る也。
?・・・・体や酒の事は其許等の世話にならず。

ここまで言いきることに
パワーとある種の感動を覚えるのは私だけでしょうか


◆2006年5月22日≪逸話≫より

グローヴァー・ミチェッルは
彼が加入した時のデュークのバンドについて語っている

その時俺はバンドで仕事を始めて一週間ぐらいだった
最初の2日は全員がステージに上がって、目のさめるような演奏をしていた

でもそのあとステージに上がるのは5、6人で
あとの8人か10人は客席を歩き回って
客とおしゃべりしたりバーで酒を飲んでいた

ある夜、ステージで演奏していると1人のウェイターがやってきて
ジミー・ハミルトンに「ステーキができました」と言った
彼はそのままステージから降りて、ステーキを切り出した

そのあとで俺はデュークに言った

「よくこんな状態に我慢できますね?」

彼は俺に言った

「いいかね、良いこと教えてやろう
私はこのバンドが最高である夜のために生きているんだ!
君が気にするような夜のことは、見ないようにしている

あの連中のことを真剣に考えだしたら
頭がいくつあっても足りやしないよ、私はそんな目にはあいたくない」


シェリー・マンはあるインタビューで
ジャズ・ミュージシャンの定義を求められこう言った

「我々は同じ演奏を二度出来ない人種だ!」

◆2004年5月12日≪意識or無意識≫より

私はよく社員に
「指示がない時 何をするかが問題だぞ」と言います

「無意識で出来てるコト」
「意識しないと出来ないコト」
それを支えているのは“志”ではないか と

ジャズでのピアノトリオを思い浮かべて下さい(EHAGAKI LIVE !)

スタンダード曲です
まず良く知られたテーマのメロディーをピアノが 奏でます

何回かくりかえされ、よく聴くと徐々にメロディーが変化し
アクセントも変わっています

ドラムとベースは安定したリズムを刻みます
そして印象深いドラムの一撃が加わると、ピアノの一人旅が始まります

ドラムとベースは押さえ気味になり
聴衆と同じ視線でピアノのアドリブを楽しみます

ピアノは与えられたコード進行の中で
オリジナルな音を紡いでいきます

沈んだり、泣いたり、笑ったり、イライラしたりを表現し
気がつけば元のメロディーも顔を出しています

再びドラムの一撃でピアニストは、軽く会釈し歓声と拍手がおこります
歓声がさめるとすでにベースソロが始まっています
あくまでリズムキープしながら

歓声が静まったことを確認すると
主張がはじまります

気がつけばピアノはリズムを刻んでいません
低く野太いベースの音に注目が集まります

「受けるフレーズ」を熟知したベーシストは
表情豊かに別世界への旅に出ます

すでにドラムもわずかにリズムを刻みながら
タオルで汗を拭っています

観客から声があがります
ベースソロはハイライトを迎え聴衆はクライマックスを知ります

しかし予想は裏切られ延々とソロが続きます
「もう終われ」と言うかの様に
ピアノとドラムがアクセントをつけリズムを創ります

満足顔のベーシストもそれに呼吸をあわせるとドラムの出番です
短いソロのあとそれに答える様にピアノが語り再びドラムが叫ぶ
この応酬が繰り返され聴衆の興奮も極限に達します

そのテンションのままピアノがテーマを奏で
聴衆は、何の曲だったかを思い出します

もう一度テーマが繰り返され演奏は幕を閉じます
大半がアドリブでの演奏です

大変な練習量により「意識したコト」を音に表現し
感性により「意識していないコト」をも表現します

他人に感動を与える為には「志」+「トレーニング~行動」なのかな、と


◆2008年1月4日≪NATURAL RHYTHM≫より

“NATURAL RHYTHM”
このタイトルは1955年に録音された2枚のアルバム
フレディー・グリーンの“MR.RHYTHM”とアル・コーンの“THE NATURAL SEVEN”を
一枚のCDとして再発売された時のタイトルです

この2枚のアルバムはほぼ同じメンバーで録音されたもの
このスイング感を支えているのがリズムギターのフレディー・グリーンです

カウント・ベイシー・オーケストラのスイングするリズムを支え続けてきた
フレディー・グリーンを知ったのは、子供の頃
親父がこの“MR.RHYTHM”のLPレコードを持っていて聞かせてくれたからです

カウント・ベイシー楽団のリズム隊が“オール・アメリカン・リズム・セクション”
と呼ばれていることを教えてもらい、カッコイイと思いました

オール何々、ザ・何々という言い回しは
その世界ではトップの人に与えられる称号であることは
教えられなくともイメージできるものです

"All-American Rhythm Section"
Freddie Green on rhythm guitar with
Count Basie on piano,Jo Jones on drums, and Walter Page on bass.

バンドにおけるリズム・ギターについて
フレディー・グリーンはこう語っています

I don't try to play those big concert chords.
I play just a couple of notes,sometimes just one,
but it sets the sound of the chord.
When you try to play those big chords,
it can make the whole band drag.-Freddie Green

俺は6弦とも使ったコードは弾かないね
俺は2つか3つの音、時には1音だけで演奏するよ
そこに大切な音があり(バンドに必要な)コードになってるんだ
あんたが全部の弦を弾いたら、バンドは引きずられっちまうだろう
フレディー・グリーン

同じくスイングするギタリストのベッキー・ピザレリは

The minute you start hitting six strings at one time,
the band stops. -Bucky Pizzarelli

あんたが6弦全部を一気に掻き鳴らした途端バンドはストップしちまうよ
ベッキー・ピザレリ

どういうことかと言うと
リズム・ギターは、リズムを刻むと同時に和音を出します
和音によって曲の表情を創っていく訳です

ギターは6本の弦があります
つまり同時に6種類の音を出すことが可能なのです

たとえば基本的なGのコードは
Gの音がオクターブ違いで3つ、Bの音は2つ弾くことになります(他はD1つ)

これは、ソロでのパーフォーマンスでは
ギターという楽器の特性を活かした演奏となります
しかしバンドの中、つまり他の楽器とのアンサンブルを考えた場合
邪魔をする場合がある、ということです

ソロをとっているプレイヤーにとって不必要な和音を省略することによって
ソロプレイを際立たせるということのようです

違う楽器との共演、それぞれが目一杯に音を出したら?
考えれば解ることなのですがついついやってしまっている訳であります

会社をオーケストラに例えると、私などはリズムセクションです
最前線で営業している社員はソロ・プレイヤー
彼らの進むべき方向を示しつつ、体を揺さぶる様なウキウキ出来る和音とリズムを刻む
それも決して邪魔することのない
厳選された最小の音で

※参考図書:“Rhythm Guitar the Ranger Doug Way”(英語版)

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


ということでした

改めて読むと
人間20年ぐらいでは成長しないことがよくわかりました
そして
20年前のフィルムで撮ってみると、スカイツリーが色褪せて写っていました



皆様におかれましても
心の栄養補給は怠らない様ご自愛下さい

ではまた