橋長戯言

Bluegrass Music lover, sometimes fly-fishing addict.
橋長です。

EHAGAKI #421≪料理と利他≫

2022年04月22日 | EHAGAKI
COVID-19は相変わらず
そして気が滅入る世界情勢の今日この頃であります

・・・・・
テレビで切り干しやひじきを食べて「おいしいっ!」と
驚いていたらわざとらしいと疑います。

若い人が「普通においしい」という言葉使いをする。
それは正しいと思います。
普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。

切り干しのおいしさは、
「普通においしい」のです。
・・・・・

これは、「一汁一菜でよいという提案」
土井義晴:著 (新潮文庫)

の一節です

まだサンプルしか見てませんので、この本についてはいずれまた

今回のお題は
土井善晴さんと中島岳志さんの対談本からであります

参考図書)
「料理と利他」
土井善晴、中島岳志:著(MSLive!Books)


◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

◆味付けは食べる人に任せるべき

子どものころ
カレーライスはまだ珍しく、皆カレーライスを注文した時代
カレーといったらウスターソースをかける

それを真似していたら、父が
「善晴、カレーをつくった人がいるんだから、味見してからかけなさい」と

※橋長注
土井氏の父はかつてのテレビ料理の顔
船場言葉がなんともええ感じの土井勝さん
善晴氏は1957年生まれで橋長とほぼ同世代

それはごもっとも
それから
味見してからソースをかけるようになる

しかし
その瞬間から日本中のお母さんが味に責任を持たされるようになる
味付けが大事だ、ということになる

料理は味付け、美味い、不味いばかりが評価される
今や子どもまでが評論家で
「お母さんちょっと濃い 」とか言い出す

お母さんはシェフじゃない
大変だ

ヨーロッパで、薄い野菜の水煮スープが作られる

食べる人が自分でチーズをおろしたり
オリーブオイルやバターを入れたりする

おばあちゃんも子供もひとつのスープで満足するようにる

自分流にして食べるのがヨーロッパ流
個人を大切にするから

メニューはコース料理ではなくアラカルト
自分が食べるものは自分で選ぶ
そして自分でナイフとフォークで切る
調理に参加し、好きなサイズで食べる
味付けも、絡めて混ぜたり、自分でつくって食べる
それは調理に参加することになる

◆地球の環境

地球環境のような世界の大問題を解决する能力は一人の人間にはない
目先の楽しみに気を紛らわすことで、誤魔化す
しかし
大きな問題に対して、私たちができることは何か

「良き食事をする」ということ

どんな食材を使おうかと考えることは
すでに台所の外に飛び出し
社会や大自然を思っていることにつながる

台所の安心は、心の底にある揺るぎない平和


◆ハレの日

神様と一緒に食べる( 神人共食) という慣習
それは、澄んだお吸い物やお肉のヒレやロースのいいところだけ
魚の白身のおいしいところだけを用いる料理

使わない部位は、ハレの日には相応しくないとして
廃棄しないまでも除かれる
それを「澄(清)ませる」と言う

これに対し
日常では一物全体(いちぶつぜんたい)と言われ
捨てるところがなにもない
無駄なくすべて食べるという考え方

現代ではハレをまつりごとではなく
ご馳走を食べる日(贅沢をする日)とし
みんな大好きな握り寿司やステーキのようなわかりやすいおいしさのもの
きれいに整えられたものを食べるようになった

カロリー過多になり、食品ロスの問題にもつながり
地球にとっても不健康になった

ハレを日常の食卓に持ち込みすぎているのではないか


◆レシピに依存すると感性が休んでしまう

「味噌に任せればレシピの計量は不要です」
「まぁ、レシピは設計図ではありませんから」

記載された分量、時間に頼らず自分で判断する
料理は自然の食材を扱う
自然がそうであるように、いつも変化し、正解はない

違いに応じた答えはいくつもある
だから
失敗のなかにも正しさがあるかもしれない

レシピ自体が極めて近代的なもの
政治学で言う設計主義

他者を抑圧してしまったり、枠のなかにはめようとして
暴力的な行為をおこなったりする

設計主義をどのように超えていくか
政治学にとって非常に大きな問題

 

◆レシピを超えるということとは

素材の前提条件をいつも同じにする、なんて不可能
鍋も違えば、きゅうりも細いのも太いのも季節外れのものだってある
ということ
だから常に違うことが前提
レシビだけいつも人間に都合よく大さじ一杯
そんなことはありえない

まぁ、だいたいそのようにはできるけれども

レシヒを意識した途端に人間という生き物は
感覚所与(五感)を使わなくなる
なにかに依存すると感性は休んでしまう

「さあ、どうなるかわからない」
というところで心を使って料理することになる

レシピに頼らずに
まずは、人が手を加える以前の料理を経験すべき


◆人間という器

誰かがケータイ大喜利に送ってきた言葉が
土井さんを通ることによってなにかが生まれる

これを出来る人は器である人
人間というのは本当は器なんだ

仏教的に言うと
「私」なんていう絶対的な実体は存在しない
常に私は縁を得ながら変化する現象として存在している、と

「私になにかがやってきて私のなかにとどまっているんだ」
という感覚が仏教

人間国宝の染織家、志村ふくみさんは
「自分がなにか色をつくっているなんて思ったことがない」と
「色がやってきて、私を通して出ていく」という言う

経験を積んだ職人的な方は
自分がつくっているという感覚はない
自分は器なんだという感覚を強く語られる

土井さんは器として、料理をされているのですか

 「わからへん
 ろくでもないことを考える性分なんで
 頭で考えたこと、信じてないんですわ」

手の仕事というのは、本当に正直
食材に反応して動く手、というのは
心とつながり、頭とつながっていない
のではないか、と


◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆


ということでした

ここでは「レシピを超えるには?」
という表現をしていましたが、超えるのではなく
レシピと今の気分と、ぐらいなんでしょうか

気分や直感、何かと何か
間の「と」が大切だと愚考する次第です

この本の中にも
・・・・・
すべての美しいものというのは
ひとつだけでは美しく輝かない。
他者によって、人間と物と自然のあいだにある
「〜 と〜 」の「と」のところに
ハートマークのような大切な美が生まれます。
・・・・・

とありました

皆様におかれましても
心の栄養補給は怠らない様ご自愛下さい

ではまた

「と」について
EHAGAKI #403≪どっちもどっち≫ 2020.10.30