橋長戯言

Bluegrass Music lover, sometimes fly-fishing addict.
橋長です。

EHAGAKI #324 ≪ソメイヨシノ≫

2016年03月30日 | EHAGAKI

お世話になります

先般、全日空のシステムダウンで終日大混乱、集中しすぎることのリスクを感じました
集中すること、別の方法が無いこと、不気味であります

さて、桜が盛りです

桜にまつわる一つの記事が目につき、桜の集中について考えてみました
今回のお題は「ソメイヨシノ」であります

■メモ:「桜が創った日本」

■記事:多様な桜を守った英国人 「絶滅タイハク、京都へ穂木送る

■書籍:チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人

 

■ ■ ■ ■ ■

■橋長メモ:「桜が創った日本」

参考図書)

桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅 (岩波新書)
佐藤 俊樹
岩波書店

 

1、染井吉野(ソメイヨシノ)はクローン

江戸時代末期までは、国土のほぼ全域をひとつの種類の桜が覆うことはなかった
日本は、ヤマザクラやエドヒガン、カンヒザクラ、オオシマザクラなどなど形や色、開花時期のちがう桜が咲き、ほぼ一ヶ月の間、様々な桜を見て楽しむことが普通であった

現在日本の桜の約8割を占めると言われるソメイヨシノは、幕末にエドヒガンとオオシマザクラの交配で生み出され、明治初期に全国に広がっていった新種
ソメイヨシノは、種子から育った樹ではなく、すべて接木や挿木
接木や挿木でふやせば元の樹の形質をそのまま引き継ぐ複製ができる、つまり、クローン(栄養繁殖)

2、ソメイヨシノが大ヒットした訳は、新しさ

幕末から明治、近代化を急いだ日本で、新しく生まれた桜を伝統や由緒をもたない場所に植えて行くのは新鮮
他の桜に比べて成長が格段に速い
接木や挿木で増やすのも比較的簡単なので、短期間に景観を整備するのにはとても便利で経済的だった

3、ソメイヨシノの歴史を浅く探ると

明治末期から、軍国主義の台頭とともに戦争に突入、桜が意図的にナショナリズムと結びつける文脈で語られたことがある
私が思い浮かぶのは、軍歌「同期の桜」の「咲いた花なら散るのが覚悟」

ソメイヨシノ~クローン~全体主義 と簡単にイメージしてしまう

実際のソメイヨシノは、明治~戦前はゆるやかに増加、戦後はより加速して増加している

4、種だから正しい クローンだから正しくない

桜を擬人化してしまう傾向があるが、現実はそう単純なものではない

ソメイヨシノは品種の名前で、いわば特定の樹単位でつけらつけられている、つまりそこにあるソメイヨシノと同じ樹しかソメイヨシノと呼べない
それに対して
ヤマザクラやエドヒガンやオオシマザクラというのは自生種の種名で、似通った樹々の総称

人間でいえば、ソメイヨシノは個人名の名前で、ヤマザクラなどは「モンゴロイド」などの集団の名称

5、経済的にみて

ソメイヨシノは、繁殖させやすく成長も早いので大量生産に向いていた
近代社会においては桜も市場経済の一商品、生産者からすれば、ソメイヨシノはとても経済的な品種であった

6、官僚向き

安くて根つきが良い、これは官庁や企業、宗教法人が計画的に植える上では都合が良い
すぐに枯れたりすれば、担当者の責任問題になってしまう

軍隊も役所も宗教法人も官僚組織、担当者は予算内で確実な成果を要求されるし、国民の目もある
ソメイヨシノはその点で、サラリーマン向きの桜であった

7、嫌われる理由

結果として8割を占めるようになったソメイヨシノは、「見飽きた」「クローンだ」と嫌われる部分も多くなる

だからといってソメイヨシノは人工的で、不自然という、よくある結論に結びつけていいのか

8、地域差

「日本」という一つの自然がある訳では無いのに、ソメイヨシノの開花情報等によって「一つの空間」というイメージを持ってしまう

そもそもソメイヨシノにとって日本が一つの均質な環境であるとは限らない
日本の自然は一つではない、一つかどうかは、どの生物の視点でみるかによって違う

9、自然、人工の反転

ソメイヨシノの風景は極めて人工的なもの、だから不自然だ、と人間は思う
ソメイヨシノの側からみれば、日本の桜の八割を占める事実こそ、成功している証拠

病気が蔓延すれば人間が「桜を救え」といろいろ手を打つ
人間はソメイヨシノにいろいろやってあげるつもりでも、結局はソメイヨシノにいいように使われているだけなのではないか
ソメイヨシノの普及に人間が深く関っているというより、本当はソメイヨシノが人間をうまく使って繁栄してきたのではないか

人間にとってソメイヨシノは環境の一部だが、ソメイヨシノにとっては人間が環境の一部だといえる
人間は、自然と人工を分けたがるが「自然」とされた方からみれば、人工も環境の一部

ソメイヨシノは日本列島の人間社会を含む生態系全体にうまく適応し、空前の大繁殖を勝ち得たとも言える

10、桜らしい桜

それは思想やイデオロギーの産物ではなく、官僚組織との相性の良さ、身近な空間を美しくしたいという願い、あるいは故郷と異郷への想いや死者の追憶が幾重にもからまり、重なりあって出来た

さまざまなほつれをはらみながらも、自然にあるべき姿として感じられやすいソメイヨシノ

「桜らしさ=自然=日本らしさ」の等式もそこに根ざしている

最後に著者はこう締めくくる
「ソメイヨシノは創り創られる桜として、桜の中の一つでありながら、桜らしい桜でありつづけるだろう。
ソメイヨシノはやはり日本近代を生きる桜なのである。」

■ ■ ■ ■ ■

■記事:多様な桜を守った英国人 「絶滅」タイハク、京都へ穂木送る
東京新聞2016年3月21日 朝刊

■ ■ ■ ■ ■

書籍:チェリー・イングラム  日本の桜を救ったイギリス人
阿部菜穂子 著

岩波書店から 一部立ち読み→(PDFで公開されています)

■ ■ ■ ■ ■

ということでした

ソメイヨシノ、多様性の対局のように語られがちで、今回もその様なまとめかたにするつもりで書きはじめました

何かを観察する場合、観察する自分を“居ないことにして”観ることがありますが、それは現実ではないんですね
影響を受け、与え、それも含めて我々の“居場所”があるんだ、と愚考する次第です

ではまた


EHAGAKI #323≪ウヰスキー≫

2016年03月21日 | EHAGAKI

お世話になります

酒は何が好きか?という話題になると必ずウイスキーと答えます
理由は二つ
・ウイスキーそのものの手間暇かけた製造工程、そこから生まれる独特な味、それににも関わらず(ワインに比べ)価格が安い
・文化的である
という点であります

休日でリラックス、今回のお題は、日本人にとっての“ウヰスキー”であります

参考図書)

ウイスキー粋人列伝 (文春新書 918)
矢島 裕紀彦
文藝春秋

■ ■ ■ ■ ■

秋山好古
日露戦争終結から八年、好古は第十三師団長として満州に駐在した。夜半に目が覚めると、床の中でウイスキーをラッパ飲みしていた。それをみかけた従卒が、すでに五十代半ばを過ぎている好古の身体を心配して軍医部長に報告した。
軍医部長はベットの下のウイスキーの瓶が置かれているのを確かめ、忠告した。

「お酒を召し上がるのも結構ですが、あんまりお過ごしなるとお体にさわりますから」

「見つかったか。つい、おいしいもんだからね」と快活に受け止め、「これから気をつけるよ」と答えた。

それからまもなく、軍医部長のもとに好古から届物があった。
それは中国の官吏たちが好古に贈った一ダースのウイスキーだった。


升田幸三
将棋の為の事情聴取にGHQから呼び出された(1948)

「酒を飲ませてもらいたい」
「日本酒はないが、ビールかウイスキーなら」

そこでビールを所望した。ビールなら難問を突き付けられた時、トイレに行くという理由で席をたち、時間かせぎができる、と

「日本の将棋では、とった相手の駒を自軍の兵隊として試用する。これは捕虜虐待で条約違反だ。日本軍の捕虜虐待に通じる野蛮なゲームだ」

「冗談を言われては困る。チェスでとった駒を使わんのこそ、捕虜の虐殺である。そこえいくと、日本の将棋は常に全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに働き場所を与えようという思想である。しかも、敵から味方に移ってきても、金は金、飛車なら飛車と、元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」

「あんたたちはしきりに民主主義を振り回すけれども、チャスなんてなんだ。王様が危うくなると女王を盾にして逃げようとするじゃないか。古来から日本の武将は、落城にあたっては女や子供を間道から逃がし、しかるのち潔く切腹したもんだ」

酔いも手伝い幸三の独断場となり「ナポレオンを飲むか?」と勧められると

「冬がくると負けちまうような将軍、わたしゃすきになれん」と正体を知らないまま断る

「よくわかった。沈黙は金とかで、日本人は口が重い。だが貴公は実によくしゃべる。珍しい日本人である。土産にウイスキーを持って行け」

これにはこたえた。
ウイスキーの味は知っている。が今まで言いたい放題で大風呂敷を広げていて急に「ありがとう」と受け取る訳にもいかない。喉から手が出るほどほしいところを「いりません」と断った。


開高建
「ウイスキーはやっぱり生(き)でやってほしい。瓶をドンとおき、ピッチャーに清冽な井戸水をなみなみとみたし、ゆったりとすわって大いなる黄昏を迎い入れるというぐあいであってほしいのや。舌や喉で飲むのもよろしいが、歯ぐきで味わうのが賢人のふるまいや」


荒正人
「私はウイスキーを飲むときに、小さいウイスキー・グラスでなめるように飲む飲み方を余り好まない。サイダーのコップに三分の一ぐらい注いで、それを三口ぐらいに飲むのが性にあっている。酔い心地はこのほうがずっとよい」


茂木健一郎
「人生の味わいを溶かし込むには、ウイスキーは格好の媒体である」


山崎まさよし
「樽の苦み走った感じというか、渋みみたいなものもウイスキーの魅力。僕はアコースティックギターとか、木の楽器がすごく好きなんですが、フェンダーやギブソンのギターの横にウイスキーがあると、それだけですごく気持ちが上りますね。ウイスキーはだからフォトジェニックでもありますよね」


永井龍男
「ウイスキーはオンザロックなどという呑み方が全盛だが、これは私とは無関係である。呑みはじめと終わりでは、まるで味が違ってウイスキーを呑んでいる気がしない。氷は一切用いずに冷やしておいたミネラルウォーターで割って呑む」


山田風太郎
「飲み方は必ずオンザロックだ。シングルもダブルもない。自分に適当な濃度があって、ウイスキーは氷が溶けると適時新しくそそいでその濃度を保ちつつ飲む。水割りよりもだいぶ濃い。全体としての量も一定していて、まずダルマ瓶にして三分の一が私の適量だろう」


久保田二郎
ホットウイスキーに我は想う
その一、HWを簡単に「ウイスキーのお湯割り」と呼んでもらいたくない。HWはまずお湯が先であり、それに適量のウイスキーを差し加えるのが正統である。
その二、、屋内でHWを賞味するのもよろしかろう。ただし常にその由って来たるべきユエンを忘れず、心は常に大雪原に在って頂きたい。
その三、その容器はいずこで飲もうが、常にホーローびきのコップにして頂きたい。(LLビーン社製を推奨していた)


矢野暢
「日本人は、そういう水の存在を信じることが出来る。私がウイスキーのミルク割りやウーロン茶割りに抵抗を覚えるのは、“水割り”の組み合わせにみられるような、ウイスキー+水という、実に神秘的なペア、つまり、1+1=1という摩訶不思議な構図がそこに感じとれないからである。」

「“水割り”の“割り”は、水を加えて薄めるの意味であって、それほどかどかどしい意味をもたない。しかも、多くの人が気づいていないけれども、水を加えて薄めても、本来のものの本質はいささかも変わらないのである。水で割ったからといって、割られる方のウイスキーがまったく別のものに変質する訳ではないのだ。」

「たして二で割るやり方は、それからけっして最善の策が出てこないという重大な欠点をもつし、一見、万人の相対的満足を満たしても、半面で、相対的不満足を残す、という欠点を克服できないのである。(略)そこで不思議なことが起こる。外国のひとは見たら全く不自然な事柄が、正当性をもって世の中を通るということが生ずるのである。
いったん定まったら悪法も法という秩序のかたちは、ほかのどこよりも、この日本を特徴づけているのだ」


池波正太郎
「だれでもがそれぞれ自分の一番好きな飲み方で飲む。これがウイスキーという酒の正しい飲み方である。逆にいえば、俺はこうやってウイスキーを飲むという自分流を持っていないような男は、男の風上にも置けない。」

「ウイスキーは主張である。ウイスキーは個の表現である。本質に孤独である。人間はもともと一人で生まれ、一人で死んでいく生きものだ。
他のどんな動物とも変わらない。そのことを人はしばしば忘れる。ウイスキーがそのことを思い出させる。そういう酒であればこそ、何のパーソナリティも感じられないような飲み方では、ウイスキーはを飲んだことにはならない、ということである。」


山口瞳
二十歳の諸君!
今日から酒が飲めるようになったと思ったら大間違いだ。諸君は、今日から酒を飲むことについて勉強する資格を得ただけなのだ。仮免許なのだ。
最初に、陰気な酒飲みになるなと言っておく。酒は心の憂さを払うなんて、とんでもない話だ。悩みがあれば、自分でで克服せよ。悲しき酒になるな。
次に、酒を飲むことは分を知ることだと思いなさい。そうすれば、失敗がない。第三に、酒のうえの約束を守れと言いたい。諸君は、いつでも、試されているのだ。
ところで、かく言う私自身であるが、実は、いまだに、仮免許がとれないのだ。諸君!この人生、大変なんだ。(サントリーオールドの広告)

「水割りですか?」などと尋ねられようものなら

「酒を水で割って飲むほど貧乏しちゃいねえや」と答えるのが常で、
ストレートまたはオン・ザ・ロックスで飲んだ

晩年

「今の私はウイスキイを水で割って飲む。特に寝酒がそうだ。裏切られたと思う方は六十七歳という年齢に免じて許してもらいた。(略)
私は依然としてウイスキイを愛している。なんだか自分の人生そのものであったような気さえしている。あるいは最も信頼できる友人か」


■ ■ ■ ■ ■

ということでした
“自分流”カッコよくなりたいものです

ではまた


EHAGAKI #322 ≪御一新≫

2016年03月14日 | EHAGAKI

 

お世話になります

今回のお題は、御一新“幕末”であります
学校でろくに近代史を勉強せず、大河ドラマで歴史を知ってるつもりの私から見れば

幕府側=悪、古い体質、能力がない、だから終焉した
維新側=正義、無血革命に成功、日本の夜明け

となってしまってます

ペリーがいきなり来て、誰が通訳したん?と思ってましたが、幕府も諸外国の研究や語学等に長けた優秀な人材の育成をし、優秀な官僚組織があったようです

複数の参考図書からメモしてみました

 

■開国
■司馬史観
■長州藩
■通貨
■銀行

■ ■ ■ ■ ■


■開国

「1853年(嘉永6)にペリー率いる黒船が来航して、その武力威圧に屈して幕府は遂に開国した。」
というのが官軍教育に則って今も学校で教える日本史です

実際には
1842年(天保13)遭難した外国船に対して飲料水や燃料の給与を認める「薪水給与令」を発令し、実質的に開国しました
1825年(文政8)から施行されていた「異国船打払令」を完全否定し、対外政策を見直したものでした

1797年(寛政9)以降、長崎・出島へアメリカの交易船来航した回数は少なくとも13回確認されています
オランダの了解のもとアメリカ船がオランダ国旗を揚げて交易していた、つまり幕末時点で、日米交易は既に百年ほどの実績があったことになります

1845年(引化2)には日本人漂流民を救助したアメリカ捕鯨船マンハッタン号がが浦賀に入港し、浦賀奉行と対面しており、翌1846年(引化3)には、アメリカの軍艦2艦が浦賀に入港し通商を求めたが、その時幕府はこれを拒否しています

鎖国令という名称の命令は存在しません(幕府が各国と幅広く国交を持たなかったことは事実ですが)
この時代、イギリスとフランスがアジアを主舞台としてもっとも悪辣な侵略を行っていました
スペイン・ポルトガルにとって代わった新興の「ならず者国家」であったのです
そうした背景でイギリス、スペイン、ポルトガル等と国交を絶ち、まだおとなしい方のオランダとのみ国交をもったのでした

1854年(嘉永7)日米和親条約を締結し、俗に言う「鎖国」が終焉したとされています


■司馬史観

司馬遼太郎が描いた幕末は、世間一般の支配的な価値観となっています
時代小説とは、時代考証を土台とし、そこにオリジナルに脚色した登場人物、時には架空の人物を登場させるフィクションであります

ところが、司馬遼太郎が描く小説はあまりにも面白く、フィクション部分とノンフィクションが絶妙に混ざり合うので、それが唯一無二の史実に思えてしまう一般的な私であります
そのキャラクターは独り立ちし、生き方を指南してくれるヒーローとなりました

説得力がありすぎた為に「司馬史観」という形で「歴史家」のように扱われてしまいました
またその緻密な取材も報じられると「やっぱり」と思ってしまうのです

小説ですから、「正しいか正しくないか」ではなく「面白いか面白くないか」かが議論されるべきなのですが、あまりにも面白いがゆえに「歴史観」の部分で賛否両論の議論が盛んになったのでしょうか


■長州藩

日本に長州藩という名の藩が存在したことは一度も無い、とのことです
正しくは萩藩です

長州という呼び名は、薩摩の薩州、広島の芸州と同じで、長門、周防のあたりを律令制区分で呼んだときの名残りです
当時の萩藩の人は、自分達のことを“長州人”と呼び、藩のことを通称“長藩”とは呼んでいましたが、誰も“長州藩”とは言ってなかったようです
勝海舟や高杉晋作の日記などでも“長州藩”の表記はありません
公式文書では“萩藩”、普段は“長藩”としていました

正式名称が変わってしまっている?
ほとんどの日本人が気づかず、“長州藩”が正しいと思っている
わずか150年前の近代史を捻じ曲げる力が“明治維新”を取り巻く現象にあるという証拠だ、とのことです

幕末と現在のつながり

萩藩、佐幕恭順派の領袖、坪井九右衛門、坪井家の養子になったが元の苗字は佐藤、そう佐藤栄作、岸信介の祖先

吉田茂の義父吉田健三は元ジャーデン・マセソン商会横浜支店長で、妻は大久保利通の息子、牧野伸顕の娘雪子、孫は麻生太郎

池田勇人の妻は長州ファイブの一人、山尾庸三の孫娘で、その家系図には日本帝国陸軍大将児玉源太郎、昭和天皇の側近木戸幸一
木戸の祖父は来原良蔵で、十代の伊藤俊輔に松下村塾を勧めた萩藩士、良蔵の妻治子は木戸孝充の妹

池田の家系図をさらにたどると鳩山一郎が登場し、その孫が鳩山由紀夫

明治新政府は、役者を変えつつも、そのまま現代日本の政府へと引き継がれているようです


■通貨

幕府の通貨は小判です

小判一両 = 一分銀4枚

幕末には金属価値と額面価値は関係なくなっていました
一両小判を溶かしても一両分の金がでてこない状態となっていたのです
当時の貨幣はすでに“約束事”、言い換えると金属でできた紙幣のようなモノだった訳です

二分(2分の1両)相当の純金で一両小判を作る 2万両つくれば1万両儲かることになります
文久3年(1863)年、幕府の年貢収入は96万両、貨幣改鋳益金が158万両
幕府の財政構造が、年貢よりも貨幣改鋳に依存するようになっていました

日本国内の金銀の交換レート 金:1g=銀:4.6g
(たまたま幕府がそう決めていた)

それに対して欧米諸国、中国の交換レート 金:1g=銀:15g
つまり日本は、金安銀高であったのです

海外との交換レール(日米修好通商条約)
1ドル(銀含有約24g) = 3分(1分銀=銀含有約8g×3=24g)

海外から4ドルを持ち込みます
4ドル(銀96g)

12分(銀96g)

日本国内レートで小判と交換

3両(金19g+銀14.4g)

上海で溶かし金1gを銀15gに交換

銀約300g(銀19g×15+14.4g)

となります
なんと東シナ海を一往復すると3倍に化けるのです

日本に来ていた外交官や商人がこれに気づかない訳がありません
こうして日本から流出した金は800万両と推計されています

急速な金の流出を止めるため、幕府は銀の価値を下げる対策を行うも、日本の銀高がオイシイ欧米人からすれば却下し、代替案として金の国内価格を上げろ、と提案しました

つまり、金の含有量を3分の1にした新一両小判(万延小判)を鋳造
価値は同じ一両、言い換えれば流通する貨幣の量が、ある日突然3倍になったのです

開港により貿易がはじまり、輸出品が不足し価格が上昇、そのうえお金の量は3倍

この大インフレで経済は混乱、幕府への信用を決定的に損ねることになりました


■銀行

戦争が起きた瞬間、当事国の通貨は暴落します
例えば日本と中国が戦争になった瞬間、円と元は国際決済で信用されなくなりました
中東で戦争が勃発すれば、現地通貨はもちろん米ドルにも影響が出ます

その通貨のしくみは1863年でも同じで、日本でまさにこれが起きました
萩藩が外国船に向けて無差別砲撃を行い、薩摩とイギリスが戦争をしました

これらの戦争行為によって日本の“両”、イギリスのポンドが国際決済で使えなくなってしまったのです

当事国の通貨がつかえないとどうするか?
外国、外資系銀行から国際流通通貨を借りる以外に道はありません

当時の国際通貨はメキシコ・ドル(メキシコ銀貨)
この時期、欧米各国はずっと戦争を繰り返していたから自国の通貨を国際決済に使えませんでした
そこで当時アメリカ合衆国の法定通貨でもあったメキシコ・ドルが採用されていました
メキシコは世界の銀の半分を産出していました

ちなみに日本は石見銀山だけでメキシコとほぼ同等の銀の産出量があったそうです
日本は豊富な鉱物資源国で、銀は当時世界一、金にしても世界トップクラスの埋蔵量でした

文久二年(1862)
8月、生麦事件
12月、高杉晋作、伊藤俊輔、井上聞多、山尾庸三らイギリス公使館を焼き討ち
文久三年(1863)、
3月、セントラルバンク開業
4月、マーカンタイル銀行開業
5月、伊藤俊輔、井上聞多、山尾庸三ら長州ファイブがイギリスへ密航
5月、萩藩が外国船無差別砲撃
6月、アメリカ、フランスがそれぞれ萩藩に報復、高杉晋作が奇兵隊を結成
7月、薩英戦争勃発
10月、コマーシャルバンク開業
文久四年(1864)
6月、伊藤俊輔、井上聞多帰国、イギリス公使オールコックに面会
8月、東洋銀行開業

政情不安な時になぜ支店を出す?

普通はそう思いますが、外資系銀行は次々横浜支店を設立したのです
つまり戦費に国際通貨が必要な時、目の前にその外資系銀行がある、偶然ではなく計算されたものだったのです

長州ファイブ、12月に焼き討ちした国に翌5月に行く?

攘夷ではないのか?と突っ込みたくなります
「改革派は外国勢と戦っても勝ち目がないから、文明を学び、富国強兵後に攘夷を行う」という論は言い訳に見えます

戦争を望んでいたイギリスの“影の支配者である国際金融家”たちが彼らを支援していたのではないか?

イギリス政府は戦争に反対であり、内戦にかかわりたくなかったようです
イギリスをイギリス政府と考えてしまいますが、政府と国際金融家と分けて考えなければ混乱してしまうのです

戦争がしたい志士たち
戦争が起きてほしい国際金融家たち

横浜に出店した外資系銀行は幕府に融資、と同時にグラバー商会等を通じて薩摩や長州にも融資していたのです

伊藤俊輔、井上聞多はイギリスでイングランド銀行を見学しています
その後、伊藤博文(藤輔)は、世界の大勢であった銀本位制ではなく、イギリスのみが採用し、国際金融家たちが推進する金本位制を採用するよう主張、実際に金本位制となりました
世界各国の中央銀行を牛耳っている国際金融家の意向に従った訳であります


■ ■ ■ ■ ■

ということでした

争いのほとんど無かった江戸時代
明治になってからは戦争にあけくれました
戦後も、直接ではないにしろ戦争とは密接に係っています

中東で独裁的政府が倒れてから大きな混乱
日本の場合は、明治維新からの混乱が今も続いている、と言えるのでしょうか


ではまた

エドノミクス~歴史と時代劇で今を知る
飯田 泰之,春日 太一
扶桑社

 

明治維新という名の洗脳 150年の呪縛はどう始まったのか?
苫米地 英人
ビジネス社

 

明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト
原田 伊織
毎日ワンズ

EHAGAKI #321 ≪LET IT BE≫

2016年03月07日 | EHAGAKI

電子図書の本を買いました(2回目)

「タモリと戦後ニッポン」

この本、寄せ集めた情報を列記した様なモノなんですが、この手の本には元情報の検索等、電子図書が使い勝手がいいことを今更ながら気付きました

□ □ □ □ □
"赤塚不二夫は、自分も含めて満洲で生まれ育った人間には自由業が多いと書いていた(『ボクの満州』)。
おそらくそれには、もともと家族が理想や自由を追い求めて満洲に渡っており、比較的自由な家庭や社会のなかで育ったというのもあるのだろう。タモリもまた、
実際に現地体験があるわけではないとはいえ、生まれ育った家庭環境には満洲育ちの人たちと近しい部分がありそうだ。"
□ □ □ □ □

上記の一節も 「タモリと戦後ニッポン」iPadからのコピー&ペーストです


今回のお題は、赤塚不二夫&タモリであります


参考図書)

タモリと戦後ニッポン (講談社現代新書)
近藤 正高
講談社
赤塚不二夫対談集 これでいいのだ。 (MF文庫ダ・ヴィンチ)
赤塚不二夫、タモリ、北野武、松本人志、立川談志、荒木経惟、ダニエル・カール、柳美里
メディアファクトリー


■満州
■帰国
■没法子
■タモリ
■居候
■対談
■弔辞


■ ■ ■ ■ ■

■満州

満州といえば、戦争等のイメージが多く詳しくは知りません
東海道新幹線に土地を提供した祖父から、戦前に弾丸列車で満州まで線路を結ぶ計画があった、満州の鉄道技術は優れていた等の話は聞いたことがありました

日本国内の重苦しい空気とは明らかに違う世界があったようです
日本国内より世界の情報が集まり、映画や音楽の文化も栄え、それを求めて満州に渡った人も多かったようです


山田洋二監督談
ベットに入るまで靴を脱いだことはない ずっと革靴
レンガ造りの洋館に住んでいた
コックさんが中国人、家庭教師がフランス人、馬番がドイツ人、山田監督の子守が日本の田舎からきた女性
土曜日の夜になると両親は舞踏会へ、教科書の中の日本の風景は異国であった


■帰国

赤塚不二夫

“満洲で生まれ育ち、終戦後、奉天から母と妹弟と命からがら祖国に引き揚げてきた体験を持つ。
憲兵だった父はシベリアに抑留されたという。世代というのもあるのだろうが、赤塚のアシスタント出身者には、高井研一郎・古谷三敏・横山孝雄・北見けんいちと幼少期を中国大陸ですごした者が目立つ。
後年、もし親とはぐれていたら残留孤児になっていたと皆が口々に語っている(中国引揚げ漫画家の会編『ボクの満州』)。”


“オレは満州から引きあげてきて、奈良の大和郡山に3年間住んでいたんだけど、ヨソ者を徹底的に排除する風潮があったんだ。
オレも差別されたよ。配給の列に並んでて、オレの順番になると「満州、ダメ」とか言って本当にくれないんだから。
いい大人が子供に対してだよ。今でも忘れられないよ。”

“オレの故郷はあのデッカイ満州だ。”


■没法子


“満洲で生まれ育った経験は赤塚の精神形成にどんな影響をおよぼしたのか。赤塚は自分にかぎらず、戦前・戦中に中国ですごした日本人は、「没法子」、日本語でいえば「しかたがない」といった感覚を身につけたと語っている。”

“日本の中ではみんながギスギスして生きていくっていうのがある。
ところが、満州育ちっていうのは、なんか適当で、アバウトで、「どうでもいいや」「なるようになるさ」って生きちゃった、みたいなのがある。要するにせこせこした生き方より、おもしろくて、のんびりした連中が好きなんだ。”

“「没法子」、赤塚マンガの名ゼリフで言い換えるなら「これでいいのだ」とでもなるだろうか。というか、どうしてもそう言い換えたくなる。
このおおらかさが、後年上京したタモリを自宅に居候させることにもつながったのではないか。”

“自分が最低だと思っていればいいのよ。一番劣ると思っていればいいの。そしたらね、みんなの言っていることがちゃんと頭に入ってくる。
自分が偉いと思っていると、他人は何も言ってくれない。そしたらダメなんだよ。てめぇが一番バカになればいいの。

バカっていうのは自分がハダカになることだ。世の中の常識を無視して、純粋な自分だけのものの見方や生き方を押し通すことなんだよ。
バカだからこそ語れる真実っていっぱいあるんだ。”

“頭のいいヤツは、わかりやすく話す、頭の悪いヤツほど、難しく話すんだよ。”


■タモリ

タモリは満州をしらない
「危ない」と感じ、森田一家は、満州から早めに帰っていた
1945年8月22日、敗戦から一週間後に生まれた

タモリ:森田一義

戦前、関東軍と対峙していた総理大臣 田中義一から名をとり一義と名付けられた
一方、満州生まれの指揮者の小澤征爾は、満州事変の首謀者となった板垣征四郎と石原莞爾から一字ずつ貰って「征爾」と命名された


福岡・高宮で暮らす
小学校の頃、両親が離婚 祖父母に育てられた、孫であるタモリにマージャン、ゴルフを教えた

高宮中学、筑紫が丘高校、早稲田大学
早稲田で哲学科に入るもモダンジャズ研究会に入る

同じ次期キャンパスには吉永小百合、森田必勝(後に阿佐ヶ谷駐屯地で三島由紀夫とともに割腹自決)、久米宏、田中真紀子がいた

学生運動が渦巻いていた

かくし芸をやるととにかく面白かった
新宿のジャズ喫茶に顔を出していた

ろくに大学に行っていないコトが祖父にばれ、福岡に強制送還される


1972年、山下洋輔トリオが福岡にやってきた
ホテルの部屋で山下洋輔が長唄を歌い、中村誠一が籐の椅子を鼓としてたたき出す、それが延々と続く、僅かに開いた扉から、ゴミ箱を頭から被った男がやってきた
お前は誰だ、デタラメな日本語で話しだす
中国語、ドイツ、イタリアの言葉を猛スピードで語る、延々と芸をみせる

朝になるとその男は「でわ」と帰っていった
東京に戻ってからもタモリの話でもちきり、「九州の天才」を呼ぶ為に皆でカンパし呼ぶことにした

「ジャックの豆の木」にタモリ目当ての常連が集まってきた
その中に赤塚不二夫、筒井康隆が居た

筒井康隆が、即興ネタの注文をだした
「中国人のターザン」

赤塚は笑わなかった

「酸素不足の大河内伝次郎」
全員 大爆笑

そこから大盛り上がり

それを見つめる男、赤塚不二夫
「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」
(カーサ目白:家賃17万円今なら50万円にか)


■居候

1975年 人口の49.4%が30歳以下という時代

ベンツから洋服など、「使っていいよ」ということで自由に使っていた
「金ある?」と電話がくれば「ないですよ」 で、すぐにお金を貰っていた
赤塚不二夫に呼ばれた場所へ行き、そこで芸をするのが業務となっていた

ある日、赤塚不二夫が自分の服をとりに帰った
ドアをあけると知らない女性が「キャー」、タモリの奥さんであった
知らぬ間に福岡から呼びよせていた

タモリ
「先生、困りますよ、私にも暮しというものがあります」
赤塚不二夫
「す、すいません」と帰っていった


“そんな家主にタモリが礼を言うことはなかった。
タモリには、「お前が俺を見込んだんだから仕方ない。お前は自分の度量がそれだけあって、それなりに経済的にやっていけるんだから、なかったらやんなきゃいい》という、居候道というか居候哲学みたいなものがあったからだ(『これでいいのだ。』)。
じつは当初、タモリは赤塚がほかにもマンションを持っていて、そこに住んでいるものとばかり思っていた。
だが、実際には赤塚は帰るところがないので、仕事場に寝泊まりしていたのだった。
それを知ったとき、さすがのタモリにもグッとこみあげるものがあったが、ここで引け目を感じては居候道に反すると思って堪えたという。”


■対談

赤塚
これでいいんだよ。これでいいのだ!
彼(タモリ)と俺とはね、ただあるときに出会ったということだけで、それを自分で大事にしておけばいいだけなんだよ。
俺が面倒見たとか、みられたとかってことは一切関係ないんだよ。
だから、そっちじゃそっとで勝手に生きてりゃいいし、こっちはこっちで勝手に死にゃあいいわけだよ。
だけど、死んだ時には来てくれよな。

タモリ
あんたのとこの葬式もメチャクチャだろうからなぁ。、、、、楽しませてもらうよ。
(2000年頃)


■弔辞(全文)

8月2日にあなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。

われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第1世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクター、私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりからわれわれの青春は赤塚不二夫一色でした。

何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。

それから長い付き合いが始まりました。しばらくは毎日新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。他のこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。

赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。麻雀をする時も、相手の振り込みであがると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしかあがりませんでした。あなたが麻雀で勝ったところを見たことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。

あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんの額をぴしゃりと叩いては、「この野郎、逝きやがった」と、また高笑いしながら大きな涙を流していました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。

今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外への、あの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

あなたは今この会場のどこか片隅で、ちょっと高い所から、あぐらをかいて、ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。

私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。

平成20年8月7日、森田一義 

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ということでした

すべてのコトに意味をもたす恐ろしい時代を経験し、意味のないモノを求める
無意味にこそ価値がある

そんなメッセージを感じる次第です


ではまた