お世話になります
先般、全日空のシステムダウンで終日大混乱、集中しすぎることのリスクを感じました
集中すること、別の方法が無いこと、不気味であります
さて、桜が盛りです
桜にまつわる一つの記事が目につき、桜の集中について考えてみました
今回のお題は「ソメイヨシノ」であります
■メモ:「桜が創った日本」
■記事:多様な桜を守った英国人 「絶滅タイハク、京都へ穂木送る
■書籍:チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人
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■橋長メモ:「桜が創った日本」
参考図書)
桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅 (岩波新書) | |
佐藤 俊樹 | |
岩波書店 |
1、染井吉野(ソメイヨシノ)はクローン
江戸時代末期までは、国土のほぼ全域をひとつの種類の桜が覆うことはなかった
日本は、ヤマザクラやエドヒガン、カンヒザクラ、オオシマザクラなどなど形や色、開花時期のちがう桜が咲き、ほぼ一ヶ月の間、様々な桜を見て楽しむことが普通であった
現在日本の桜の約8割を占めると言われるソメイヨシノは、幕末にエドヒガンとオオシマザクラの交配で生み出され、明治初期に全国に広がっていった新種
ソメイヨシノは、種子から育った樹ではなく、すべて接木や挿木
接木や挿木でふやせば元の樹の形質をそのまま引き継ぐ複製ができる、つまり、クローン(栄養繁殖)
2、ソメイヨシノが大ヒットした訳は、新しさ
幕末から明治、近代化を急いだ日本で、新しく生まれた桜を伝統や由緒をもたない場所に植えて行くのは新鮮
他の桜に比べて成長が格段に速い
接木や挿木で増やすのも比較的簡単なので、短期間に景観を整備するのにはとても便利で経済的だった
3、ソメイヨシノの歴史を浅く探ると
明治末期から、軍国主義の台頭とともに戦争に突入、桜が意図的にナショナリズムと結びつける文脈で語られたことがある
私が思い浮かぶのは、軍歌「同期の桜」の「咲いた花なら散るのが覚悟」
ソメイヨシノ~クローン~全体主義 と簡単にイメージしてしまう
実際のソメイヨシノは、明治~戦前はゆるやかに増加、戦後はより加速して増加している
4、種だから正しい クローンだから正しくない
桜を擬人化してしまう傾向があるが、現実はそう単純なものではない
ソメイヨシノは品種の名前で、いわば特定の樹単位でつけらつけられている、つまりそこにあるソメイヨシノと同じ樹しかソメイヨシノと呼べない
それに対して
ヤマザクラやエドヒガンやオオシマザクラというのは自生種の種名で、似通った樹々の総称
人間でいえば、ソメイヨシノは個人名の名前で、ヤマザクラなどは「モンゴロイド」などの集団の名称
5、経済的にみて
ソメイヨシノは、繁殖させやすく成長も早いので大量生産に向いていた
近代社会においては桜も市場経済の一商品、生産者からすれば、ソメイヨシノはとても経済的な品種であった
6、官僚向き
安くて根つきが良い、これは官庁や企業、宗教法人が計画的に植える上では都合が良い
すぐに枯れたりすれば、担当者の責任問題になってしまう
軍隊も役所も宗教法人も官僚組織、担当者は予算内で確実な成果を要求されるし、国民の目もある
ソメイヨシノはその点で、サラリーマン向きの桜であった
7、嫌われる理由
結果として8割を占めるようになったソメイヨシノは、「見飽きた」「クローンだ」と嫌われる部分も多くなる
だからといってソメイヨシノは人工的で、不自然という、よくある結論に結びつけていいのか
8、地域差
「日本」という一つの自然がある訳では無いのに、ソメイヨシノの開花情報等によって「一つの空間」というイメージを持ってしまう
そもそもソメイヨシノにとって日本が一つの均質な環境であるとは限らない
日本の自然は一つではない、一つかどうかは、どの生物の視点でみるかによって違う
9、自然、人工の反転
ソメイヨシノの風景は極めて人工的なもの、だから不自然だ、と人間は思う
ソメイヨシノの側からみれば、日本の桜の八割を占める事実こそ、成功している証拠
病気が蔓延すれば人間が「桜を救え」といろいろ手を打つ
人間はソメイヨシノにいろいろやってあげるつもりでも、結局はソメイヨシノにいいように使われているだけなのではないか
ソメイヨシノの普及に人間が深く関っているというより、本当はソメイヨシノが人間をうまく使って繁栄してきたのではないか
人間にとってソメイヨシノは環境の一部だが、ソメイヨシノにとっては人間が環境の一部だといえる
人間は、自然と人工を分けたがるが「自然」とされた方からみれば、人工も環境の一部
ソメイヨシノは日本列島の人間社会を含む生態系全体にうまく適応し、空前の大繁殖を勝ち得たとも言える
10、桜らしい桜
それは思想やイデオロギーの産物ではなく、官僚組織との相性の良さ、身近な空間を美しくしたいという願い、あるいは故郷と異郷への想いや死者の追憶が幾重にもからまり、重なりあって出来た
さまざまなほつれをはらみながらも、自然にあるべき姿として感じられやすいソメイヨシノ
「桜らしさ=自然=日本らしさ」の等式もそこに根ざしている
最後に著者はこう締めくくる
「ソメイヨシノは創り創られる桜として、桜の中の一つでありながら、桜らしい桜でありつづけるだろう。
ソメイヨシノはやはり日本近代を生きる桜なのである。」
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■記事:多様な桜を守った英国人 「絶滅」タイハク、京都へ穂木送る
東京新聞2016年3月21日 朝刊
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書籍:チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人
阿部菜穂子 著
岩波書店から 一部立ち読み→(PDFで公開されています)
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ということでした
ソメイヨシノ、多様性の対局のように語られがちで、今回もその様なまとめかたにするつもりで書きはじめました
何かを観察する場合、観察する自分を“居ないことにして”観ることがありますが、それは現実ではないんですね
影響を受け、与え、それも含めて我々の“居場所”があるんだ、と愚考する次第です
ではまた