





「平和と公正をすべての人に(Peace, Justice and Strong Institutions)」
澤田さんが毎日送っておられた「ケメコ通信」2002年8月15日に頂いたメールからの転送です
翌年8月21日にこのEHAGAKIでも紹介しております
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
2002年8月15日■ケメコ通信 VOL.381 敗戦記念日特集
………………………………………
これは震災のあった年に死んだ親父(澤田好造)のはなしです。
親戚の叔父さんが書いてくれました。
明治43年生まれで小学校だけで
組み紐やに丁稚奉公に上がったおやじです。
ケメコはうすを遺してくれました。
こういう時間をくぐり抜けてぼくが生まれた。
■好造さんのしてくれた話
「海没」
戦争中自分の乗っている船が沈み海に投げ出された状態を海没と言う。
戦争も始めの内は堂々の輸送船団とニュース映画に見られたように
輸送船に護衛艦がついていたものだ。
主に水雷を積んだ駆逐艦がその任に当たった。
水雷とは潜水艦を攻撃するための水中で爆発する爆雷である。
その内に日本の護衛艦は減少しアメリカの潜水艦は増加する。
子供が勤労動員で造りに行った笠戸丸は造船所を
出て行ったら直ぐにやられてしまった。
戦地で弾に当たって死んだ人よりも、
輸送船が沈んで死んだ人の方が多いのではあるまいか。
学校の成績が良いばっかりに
四修で三高文科へ行った一中の同級生は
殆どが輸送船で死んだ。実にもったいない。
好造さんはこの海没に2度合っている。
そして2度とも死ななかった。
軍曹に迄なった器量がそうさせたのか
「かんながら」の御守りが利いたのか。
応召の時、好造さんは原田の叔父を訪ねた。
その時叔父は
困った時は「かんながら」と称えよと教えたという。
輸送船に魚雷が当たると電灯が直ぐに消えて暗くなる。
輸送船に乗ったら、直ぐに出口は何処か
何処に何が有るか等を
しっかり見て、暗闇でも行動の出来る様にしておく。
船に備え付けの浮きが有ったそうだが
これは役に立たなかった。
ゴムを引いた布で出来た大きい枕のような物だったが
文字通り兵隊がこれを枕代わりにした。
兵隊の頭の脂でゴムがやられ
いざという時には浸水して駄目になる。
ドンと来て電灯がパッと消えたら
かねて目を付けておいた周囲の水筒を
出来る限り手ばやく集め一目散に脱出する。
水筒は初めは水の補給、空になると良い浮きになる。
海に浮かんだ時、周囲は水ばっかりだが
いくら喉が乾いてもこれは飲めない。
水筒の水は命をつないでくれる。
甲板に出たら船は大抵もう傾いている。
甲板の高い方に行く。
水面迄もの凄く高いが、思い切ってお先にと飛び込む。
船の沈む時大きい渦が出来るので船から出来るだけ離れる。
自分で泳ぐのはこの時だけである。
泳ぐと体力を消耗する。
ホンチヤンの将校が
金太郎のように刀を背負っているのを見たと言う。
伝家の刀かも知れず、その気持ちは判らぬでもないが
重い刀を持っていたのでは生き通せない。
船が沈むと必ず板切れか材木かが浮いてくる。
それに捕まってじっと浮いている。
夜が明けてまわりを見渡すと
それは酷いもので、見える限り死体。
不思議に皆うつむいている。
そのうちに小便がしたくなり、便所は何処かしらと思う。
ソーダ、海の中で便所は不要だと気着く。
尿意のある内は良いが
やがて小便が何時出たのか判らなくなる。
こうなるとぼつぼつ危ないのだそうな。
1日か2日浮かんでいたら
海軍の喫水の浅い船が救助に来てくれる。
一度海没の経験を経ると、うんと賢くなる。
輸送船に乗る前になると、色々の準備をする。
鰹節に孔を開け、そこに紐を通して肩から掛ける。
鰹節は海水に1~2日漬かっていると
丁度良い程度にふやけて塩加減も適当になる。
煙草とマッチを油紙に厳重に包み服にしのばせる。
海に浮かんだらこれは頭の上に移動さす。
喫煙は気持ちを落ち着かせる。
しかし海の上で煙草の煙を上げている奴を見ることは
周囲の人々にとっては羨望の極みであろう。
その次は小さいナイフを用意する。
海没にあっても助かるのは海水の温度の高い南方の話である。
タイタニツク号のように北極に近い海にはいると
瞬く間に死ぬらしい。
南方の海は温かい半面、太陽は物凄く強い。
しかも顔には塩が着いている。
一日もすると日に焼けて顔がずるずるになる。
ナイフを持っていると
自分の服を切り裂いて細い紐を作る事が出来る。
浮かんでいる適当な木切れをナイフで切り割り、
この紐で編んで簾を作り、頭の上に乗せる。
時間は幾らでもある。
木切れを枕に、頭の上には簾
適当な硬さと丁度ほどよい塩加減の鰹節をしがみ
ちぴりちぴりと水筒の水を飲み
時々燈草を吸って、たゞ助けを待つ。
友軍の水上飛行機が偵察に来たことがある。
着水しなくても良いのにこの飛行機が下りた。
兵隊たちがこの飛行機に群がる。
遂には飛行機が沈みそうになる。
止むを得ずエンジンをかけ、飛行機は報告に帰る。
前後の事情の
判断の出来無くなっていた人たち何人かゞ犠牲になった。
畳一畳程で周囲にロープの看いた浮きが有ったが、
周囲に捕まるべきものを、楽だと思うのであろう
其の上に乗る奴が有る。
浮きはひっくり返って皆が体力を消費して
生き延びることが出来ない。
沢田軍曹の何と合理的で沈着なことよ。
海軍の船が救助に来て、甲枚からロープを垂らしてくれる。
それだけで何もしてくれない。
喫水の浅い船と言っても、疲れた体で
しかも自力で甲板迄上がるのは並大抵のことではない。
好造さんは之を上った。
すると海軍の兵隊が好造さんの顔を二つ三つ殴った。
何をするか、自分は沢田軍曹だ。
失礼しました。
確りしていらっしゃいますね。
一椀のお粥を貰って食べて寝たが
2昼夜ばかりは何も知らなかった。
この様にして好造さんは生還した。
好造さんは海軍の船で、何処かの港へ行く迄の間
海軍の人達から色々の話を聞いたのであろう。
ロープを自力で上がってくる人でないと
船に上げても直ぐに死んで終うそうだ。
上がってきても、一度海の中に突き落とす程だと言う。
甲板にむしろが二三枚敷いてあったが
助け上げた人だとそのむしろ迄、コテコテと逼って行って
ころりとむしろの上に寝たと思ったらもう死んでいると言う。
連獅子の様だが、上がってきても突き落とす。
また上がってきたら殴りつける。
なお反抗するぐらいに元気でないと助からないらしい。
ビルマに死者の街道と言うのが有った。
戦いに敗れ、隊伍をくんで帰るのだが
道脇に坐っている人の隣に坐りたい。
道脇の人は皆死人なのだ。
そこに坐れば直ぐに死ぬ。
坐りたがる人を
皆で列の中央に入れて引きずる様にして歩く。
ピルマの場合は死の願望に近い。
海没の場合はホッとした安心が死につながる。
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震災の年(1995)に88歳で死んだ父親は
ぼくにはあまり戦争の話をしませんでした。
毎年15日の「戦没者慰霊祭」のテレビ中継を見ながら、
肩を震わしながら涙を流していたことが記憶に残っています。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ということでした
澤田さんは、バンド仲間
我々の「大坂城JUG BAND」にてバックバンドをしておりました
また
「ケメコ通信【おやかまっさんどす】」として
ほぼ毎日メルマガをだしておられました
その数なんと6843号
このお話も複数回“敗戦記念日”に読んでおりますが
内容を知っていても、引き込まれてしまいます
国の勝ち負けではなく
その時
個人に何がおこったか、何を考えていたのか
そんなことに思いをはせる8月15日にしたい
と、愚考する次第です
皆様におかれましても心の栄養補給は怠らない様ご自愛下さい
ではまた
澤田好宏さんが7月20日にご逝去されました
昭和22年(1947)11月1日生れ
享年75歳
一時期は「澤田好宏と大坂城ジャグバンド」としてかなりの頻度で
あちこちでご一緒に演奏していました
もう一度ケメジャンのステージを一緒にやりたかったですが
これも自然の中の出来事、心よりご冥福をお祈り致します
澤田さんとは色々思い出がありますが
お会いして数回目か
MCEI大阪というマーケティング勉強会の役員になられた時にされた挨拶で
「泥棒に金庫番させるをさせるとは、、、」と
「かえって安心かな」的なことを仰って
「変なオッサンやなぁ」と思ったのが第一印象です
その後、ご縁がありバックバンドを務めさせて頂き、改めて思ったのが
「変なオッサンやなぁ」
ここ数年お会いしてませんでしたが
最後まで“変なオッサン”を全うされたのではないかと勝手に思っております
SDGsな、ネタ資源保護の為のEHAGAKI復刻版その1であります
分類して整理することは、大切で重要なコトでしょうが、私の場合は、
・情報を一か所に集める
・整理分類に時間労力を使わない
・忘れる力が益々充実しているので“忘れる前提”で“覚えない”
・手書きメモは好きなので書くが、書くのは一か所、分類せず時間順に
(コクヨのSKETCH BOOKで現在115冊目)
という塩梅であります
現在の情報処理は
・多くの材料を集め
・その材料をデータ化して蓄積
・必要に応じてそのデータを自在に取り出し
・提供する
というものが主流でしょうか
それとよく似た方法を100年前に実践していた日本人がいます
知の巨人と言われる南方熊楠がその人です
2018年の2月25日、お休みの日曜日、昼前に上野の国立科学博物館に向かいました
南方熊楠生誕150周年記念企画展「南方熊楠100年早かった智の人」を観る為です
まぁ、その後アメ横で知人と待ち合わせて昼酒でしたが、、、
南方熊楠、私が初めて取り上げたのは2002年3月19日です・・・※
なぜ、すぐに日付まで書けるかというと、まさに現在の情報処理方法(そんな大そうなこともないですが)
このメールなどもエバーノートというアプリに入れてますので、検索すればすぐに見つけられる、という塩梅であります
エバーノートの様な最新のツールをうまく活かせば、まだまだ「智」は集められると愚考する次第です
以下その展示、私のメモです ↓
◆ ◆ ◆ ◆
一切智の人、熊楠の情報処理には、今日の情報処理、WikipediaやGoogleと類似
熊楠の情報処理の特徴
1)とにかくたくさん材料を集め
2)それぞれの材料をデータ化して蓄積し
3)必要に応じてそのデータを自在に取り出す
これはまさに、現在のサイバー空間における知識の蓄積と情報処理によく似ている
今日の情報機器を使って行っているような情報の利用を、熊楠は100年前に行っていたのかもしれない
◆ ◆ ◆ ◆
とのことです
こんな言葉の断片も展示されていました
◆ ◆ ◆ ◆
熊楠語録
しかるに、小生は多年間夢のことを研究す。
銭もなにもいらぬ研究ゆえ面白し。
熊楠26歳 1893(明治26)年12月24日土宜法龍(どぎほうりゅう)宛書簡より
学問と決死すべし。
熊楠28歳 1895(明治28 )年日記の見返しより
晩学如夜灯尚勝無之(晚学は夜の灯の如し、なおこれに勝るもの無からん)
熊楠28歳 1895 (明治28)年日記の見返しより
宇宙万有は無尽なり。(略) 宇宙の幾分を化しておのれの心の楽しみとす。
これを智と称することかと思う。
熊楠36歳 1903 (明治36)年6月30日土宜法龍宛書簡より
物を多く識るばかりで、それを 一々つづけて考えねば何の悟りも用もなし。
熊楠36歳 1903(明治36)年8月8日付土宜法龍宛書簡より
世界にまるで不用の物なし。
熊楠56歳 1923(大正12)年12月11日「十二支考」
「鼠(ねずみ)に関する民俗と信念」より
人の交わりにも季節あり。
熊楠58歳 1925(大正14)年9月21日上松蓊(うえまつしげる)宛書簡より
小生はそのころ、たびたび『ネーチュール』 に投書致し、東洋にもありたることを西人に知らしむ ることに勤めたり。
熊楠58歳 1925(大正14)年1月31日
「そのころ」とは30歳前後のこと。東洋にもちゃんと研究者が居ることをアピール!
そのころは、熊野の天地は日本の本州にありながら、和歌山などとは別天地で、蒙昧といえば蒙昧、しかしその蒙昧なるがその地の科学上、
きわめて尊かりし所以で、小生はそれより今に熊野に止まり、おびただしく生物学上の発見をなし申し候。
熊楠58歳 1925(大正14)年1月31日 「そのころ」とは35歳のこと
小生のもっとも力を致したのは菌類で、これはもしおついであらば当地へ見に下られたく、主として熊野で採りし標品が、幾万と計えた
ことはないが、極彩色の画を添えたものが 三千五百種ばかり、これに画を添えざるものを合せばたしかに一万はあり。
熊楠58歳 1925 (大正14)年1月31日矢吹義夫宛書簡(履歴書)より
己れ九歳の程より菌学に志ざし、内外諸方を歴遊して息まず。今、六拾三に 及んで此地に来り、寒苦を忍び研究す。
これが何の役に立つ事か自らも知らず。
苔の下に 埋もれぬものや 蟹乃甲 熊楠
熊楠62歳 1929 (昭和4)年1月6日に書いた色紙より
人となれば自在ならず、 自在なれば人とならず
熊楠58歳 1925(大正14)年1月31日矢吹義夫宛書簡(履歴書)より
記憶という物ほどあてにならぬは、かいしんなしと今さら大いに戒心致し候。
戒心……用心すること。
熊楠70歳 1937 (昭和12)年8月11日上松蓊宛書簡より
◆ ◆ ◆ ◆
If the river was whiskey, And I was a duck
I'd dive to the bottom, And I'd never come up
というフレーズは複数の歌に共通して使われています
なんともダメ男の現実逃避の歌詞なのですが
それは「叫び」でありそこにも のすごいパワーを感じます
私の読書のフェイバリットである南方熊楠は知人からの
「酒を控えた方がいいですよ」という親切な忠告に対して
以下の様な返事の手紙を書いています
小生に酒をつつしめ云々と有之(これあり)。小生は親や兄弟が言うても酒をつつしまず。
又、たとえ慎むべしと約束した処が、酒をつつしむ男に無之候(これなくそうろう)。
小生、従来名を挙げ事を成したるは、みな酒の被護にて候。
其許は酒を飲まず。故に常に腰弱く・・・・酒がいやなら自分謹んで可なり。
人に勧むるに及ばず。・・・・小生酒を飲んでも其許の損に成らず。
其許は酒を飲まぬが、非常に小生及び当地方の多人数の迷惑を起こし居る也。・・・・体や酒の事は其許等の世話にならず。
ここまで言いきることにパワーとある種の感動を覚えるのは私だけでしょうか
◆ ◆ ◆ ◆
ということでした
実はこのメモの部分
iPhoneで写真撮影、その写真をiPhoneアプリでスキャン
そのアプリはデジタルテキスト(文字)として読み取りできるのでそれをiPhoneからエバーノートへコピペ
パソコンでエバーノートを開いて読み込み間違い等を修正
思い出したい時は、キーワードで検索、ということで年々実力が増している「忘れる力」を新しい道具で薄めている今日この頃であります
◆ ◆ ◆ ◆
と書いたのは2018年5月6日
新しいiPhoneは写真から文字のテキスト化もそんな手間が要らなくなったようです
日進月歩
ではまた
2019/11/17 7:02 江東区-大島
お世話になります
COVID-19は落ち着いたのでしょうか
油断なく、くれぐれもご用心下さい
さて「趣味は?」
と聞かれれば、まぁ相手に応じて答える訳ですが
「写真、カメラです」と答えるコトが多いです
で、何をしてるか、というと
カメラを持って散歩
普段のカバンの中には必ずフィルムカメラを持っている
ってことですが、これは皆様もほぼ同じ
スマホを持っておられるかと思います
散歩とカメラ
スマホで撮ると何時何処に居たか
撮ったかが記録されます
よく知られた
「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉は
戦前の物理学者で随筆家、俳人の寺田寅彦による言葉です
この人の文章、今や無料で読むことが出来ます
インターネットの図書館「青空文庫」
http://www.aozora.gr.jp/
ということで今回のお題は
写真というモノの存在が周知され
カメラを持っている人も増えはじめて来た頃の
寺田寅彦のエッセイです
今回の写真は「11月に東京で撮ったスマホ写真」のみです
2018/11/23 12:57 青山霊園
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
カメラをさげて
寺田寅彦昭和6(1931)年11月(大阪朝日新聞)
このごろ時々写真機をさげて
新東京風景断片の採集に出かける
技術の未熟なために失敗ばかり多くて
獲物ははなはだ少ない
しかし
写真をとろうという気で町を歩いていると
今までは少しも気のつかずにいたいろいろの現象や
事実が急に目に立って見えて来る
つまり
写真機を持って歩くのは
生来持ち合わせている二つの目のほかに
もう一つ別な新しい目を持って歩くということになるのである
この目はまず極端な色盲であって
現実の世界からあらゆる色彩を奪ってしまう
そうして空間を平面に押しひしいでしまう
その上にその平面の中のある
特別な長方形の部分だけを切り抜いて
残る全部の大千世界を惜しげもなく
むざむざと捨ててしまうのである
実に乱暴にぜいたくな目である
それだから
カメラをさげて秋晴れの郊外を歩いている人たちは
おそらく幾平方センチメートルの紙片の中に
全武蔵野の秋を圧縮して持って来るつもりで歩いているのであろう
この特別な目をぶらさげて歩いているだけで
もかなり多くの発見をすることがある
2019/11/20 18:07 品川区-東大井
手近な些末な例をあげると
銀座の裏河岸のある町の片側に
昔ふうの荷車が十台ほどもずらりと並べておいてある
その反対側にはオートバイがこれも五、六台ほど
並んで置かれてあった
その平凡な光景がカメラの目からは
非常におもしろく見えるのであった
昭和通りに二つ並んで建ちかかっている
大ビルディングの鉄骨構造をねらったピントの中へ
板橋あたりから来たかと思う駄馬が顔を出したり
小さな教会堂の門前へ
隣のカフェの開業祝いの花輪飾りが押し立ててあったり
また日本一モダーンなショーウィンドウの前に
めざしの頭が二つ三つころがっていたりするのも
やはりカメラの目を通して得られた小さな発見であった
2020/11/28 8:33 佃
こういう目をもって見て歩いた新東京の市街ほど
不思議な市街はおそらく世界じゅうどこを捜してもないであろう
極端な古いものから極端な新しいものまでが
平気できわめてあたりまえな顔をして隣り合い並び立って
仲よくにぎやかに
1931年らしい東京ジャズを奏しているのである
こういうものに長い間慣らされて来たわれわれは
もはやそれらから不調和とか矛盾とかを感ずる代わりに
かえってその間に
新しい一種の興趣らしいものを感じさせられるのであろう
こういうものの並んでいる間に
散点してまた実に昔のままの日本を代表する
塩煎餅屋や袋物屋や芸者屋の立派に生存しているのも
やはり印画記録の価値が充分にある
2018/11/4 11:42 千代田区-神田駿河台
鳥羽僧正の鳥獣戯画なども
当時のスポーツや
いろいろの享楽生活のカリカチュアと思って見れば
この僧正はやはり
一種のカメラをさげて歩いた一人であったかもしれない
この僧正にアメリカ野球選手との試合を
記録させなかったのは残念である
2019/11/11 17:08 江東区-亀戸
親譲りの目は物覚えが悪いので有名である
朝晩に見ている懐中時計の六時が
どんな字で書いてあるかと人に聞かれると
まごつくくらいであるが
写真の目くらい記憶力のすぐれた目もまた珍しい
1秒の50分の1くらいな短時間にでも
あらゆるものをすっかり認めて
一度に覚え込んでしまうのである
2018/11/16 8:18 墨田区-横網
その上にわれわれの二つの目の網膜には
映じていながら心の目には少しも見えなかったものを
ちゃんとこくめいに見て取って細かに覚えているのである
たとえばショーウィンドウの内の
花を写すつもりでとった写真を見ると
とるつもりの夢にもなかった
あらゆる街頭の人影の反映が写っているのである
2020/11/13 16:17 江東区-富岡
盛り場である人がなんの気なしにとった写真に
スリが椋鳥(むくどり)のふところへ手を入れたのが
ちゃんと写っていたという話を聞いたこともある
カメラをさげて歩いている途中で
知人に会ってちょっと立ち話をするとする
そのとき、相手の人によると
自分のカメラをさげていることなどにはあまり無関心なように見え
また人によると何よりも第一にすぐ写真機に目をつける人もある
同病相哀れむゆえんであろうか
2018/11/23 13:34 港区-青山
いちょうの黄葉は東京の名物である
しかし
いくらとっても写真にはあの美しさは出しようがない
そのいちょうも次第に落葉して
箒をたてたようなこずえにNWの木枯らしが
イオリアンハープをかなでるのも遠くないであろう
そうなれば自身の寒がりのカメラも
しばらく冬眠期に入って
来年の春の若芽のもえ立つころを
待つことになるであろう
(昭和六年十一月、大阪朝日新聞)
2018/11/2 11:18 港区-北青山
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ということでした
大幅にカットしてますのでぜひ全文をお読み下さい
「青空文庫」http://www.aozora.gr.jp/
さてさて、かつての日常は帰ってくるのでしょうか
この間の経験を、どう活かすか
「寝てて転んだ試しなし」
スローに行くべきかと愚考する次第です
皆様におかれましても
心の栄養補給は怠らない様ご自愛下さい
ではまた
2019/11/9 12:11 猿江恩賜公園
2020年2月5日の投稿です。
いきなりですが引用です
◇ ◇ ◇ ◇
現代は、あらかじめ用意された住居が
個人の好みで建てられる時代である。
それは昔とは逆に人間関係を規定し
個人や家族を隔離し、社会のつながりを分断している。
今一度、人間どうしの豊かな関係が見える住まいを
考えなおすときが来ているのではないだろうか。
◇ ◇ ◇ ◇
山極寿一著(朝日新聞出版)
長年、住宅販売を生業としてきたモノとしては大きなテーマであります
今回のお題は「住いの意味」
このEHAGAKIのメール以前、まさしくハガキで出していた時のネタ
そして山極寿一氏の著書からであります
◆実家の記録(LS HAGAKI Vol.33 2000.11.13 から)
◆住まいの意味(ゴリラからの警告「人間社会ここがおかしい」から)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
LS HAGAKI Vol.33 2000年11月13日
面白いものを発見しました
私の実家の新築工事を、祖父が克明に記録していました
それによると
計画及設計:昭和35年9月
工費予算:金参百萬円
施 工:橋長弥一郎
大工棟梁:清藤好濤
旧家取潰:昭和36年2月15日
起 工:昭和36年2月14日
上 棟:昭和36年3月15日
竣 工:昭和36年10月20日
落成式 :昭和36年12月17日
工費:3,366,259円
追加: 974,995円
合計: 4,341,254円
支払先/摘要:金額
枚方木材/木材一式:1,455,722円
石井窯業所(瓦熊)瓦一式(葺手間共):259,748円
津田組/栗石、砂利、砂:39,100円
土方建材店/セメント、ブロック:29,400円
矢田商店/壁土:7,200円
関本建材店/タキロン波板:2,700円
小阪タイル/タイル工事一式:74,786円
清藤大工/賃金:346,000円(↓出務表あり)
清藤大工/釘、金物一式、プラスタイル其他:23,483円
清藤大工/手傳賃金:19,000円
清藤大工/建築許可申請書代:5,000円
奥村建具店/建具一式:629,000円
古川天下堂/ニス、ペイント塗装一式:46,700円
谷川金物店/トタン板、ラス網:2,300円
和田金物店/タキロン波板:3,600円
大宅ブリキ店/銅版、戸置け、トタン張り一式:92,225円
松村左官/左官賃金、材料一式:113,760円
加門製畳所/畳一式:53,350円
山口電気商會/電気工事一式:51,000円
津田工業所/水道工事一式:16,530円
吉川酒店/瓦斯工事及び器具:11,800円
丸公商店/土管、便器其他:6,385円
吉川洋家具店/応接セット其他:77,470円
小計:3,366,259円
玉田、千松/石工賃及び一ツ石代:4,200円
吉田幸次郎/壁下地竹:5,000円
高槻建材店/曲り土管其他:800円
浜田建材店/換気鋼:540円
松原石材店/手水鉢穴堀及び沓石削り:4,200円
扇屋家具店/応接セットカバー:8,500円
近所お礼/酒、砂糖:13,500円
上棟式費(↓写真及び明細あり):112,170円
落成式費:39,170円
造園植繁其他:722,000円
片山塗装店/ペンキ塗装一式:65,000円
小計:974,995円
合計:4,341,254円
※それぞれの支払い先別にすべての明細が記録されていました
かなりの量(全66ページ)がありましたが割愛させて頂きます
まぁ、当時でも請負契約による工事が
多くなっていたらしいですが
この様に施主がそれぞれの業者さんに直接発注する
というのが本来の建築の姿なのでしょうか
とてもこのハガキでは書ききれませんが
木材や瓦を始めとするほぼすべての明細や
大工さんや手伝いの人の出勤簿
御祝いの明細から、おやつに頂いた「おはぎ」の数まで
記入してありました(日本酒1本510円 等)
当時、私は2歳でほとんど覚えておりませんが
午前・午後、それぞれ1回の休憩や昼食時、大工さんに
お茶やお菓子・酒・ビール等を出していました
(その後に見た建築現場や植木屋さんとオーバーラップしていると思いますが)
杉や檜の樹の匂い
のんびりと仕事をしている様な大工さんの
鉋掛の時の真剣な表情
祖父もこの「自分の家を建てる」ということに
「楽しみ・喜び」を感じていたんだなぁ
ということを、このささいな発見で確信できました
家を建てたり買う人にはもっと
プロセスにおいて「楽しみ」が必要ではないか
売る立場の我々には
「買うことの楽しみ」を含めて買っていただく感覚
そしてそれを「美学」としてこだわることが必要ではないか
と、現在の商人・職人として感じている今日この頃です
(2000.11.13)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
住いの意味
ゴリラからの警告「人間社会ここがおかしい」から
人類進化700万年、定住をはじめたのはつい最近
1万2千年前に農耕や牧畜が起こる前は
移動しながら暮らす狩猟採集生活
サルや類人猿には奇妙な住居の歴史がある
最も原始的なサルたちは夜行性で
木の洞に安全な寝場所をつくり、そこで子育をする
原猿類はオスもメスも単独で暮らし
それぞれなわばりをもって対立している
交尾期になるとオスとメスが短期間いっしょになる
その後は再び別れ、出産後もメスは単独で子どもを育てる
子どもを置いて食物を探しにくため
寝場所はくり返しもどれるように、なわばりの中心部につくる
夜から昼の世界に進出しはじめると
サルたちは鳥に対抗するために体を大きくし
群れをつくって食物を探すようになる
原猿類が食べているような昆虫や樹液では
大きな体を維持できない
果実や葉を主食とするようになり
群れで広い範囲を遊動する様になる
そのため
巣を捨て広い範囲を移動しながら
毎晩違った木の上で眠るようになる
サルたちには
木の上で安定した姿勢で眠れるように尻だこが発達
赤ちゃんにも生まれたときから母親にしがみつく能力が備わる
人間に近縁なゴリラやチンパンジーなどの類人猿になると
さらに体が大きくなる
体を支えるべッドを木の上につくる必要が生じる
今でもすべての類人猿が、毎晩樹上に一人用のべッドをつくって眠る
樹上のべッドは、地上性の大型肉食獣から身を守り
安眠を保証してくれた
毎晩つくり変える簡単な造りで数分のうちに完成させてしまうが
とても頑丈でめったに落ちることはない
類人猿は生まれつきべッドづくりの能力をもつ
動物園生まれの個体でも、材料をあたえるとべッドをつくろうとする
しかし
人間はいつのころか、このべッドをつくる習性を失う
古い人類の遺跡からべッドは見つかっていない
熱帯雨林を出て草原に進出した人類
危険な肉食獣を避けるため、洞穴や岩壁など
べッドの材料が得られない場所で寝た
単独のべッドで寝るより
安全を期して家族や仲間と寄り合って寝る道を選ぶ
やがて家族や共同体が単位となる住居へとつながる
べッドは家のなか、親子や夫婦がいっしょのべッドで眠る
耐久性があり、何度も同じベッドで眠る
日本人はベッドを使わず、畳の上に布団を敷いて寝た
類人猿のべッドにあたる人間の構造物は
家であり住居のほうがべッドより古い
最近になって2次的に
べッドがつくられるようになったと考えられる
住居と住居の配置は家族間や集団間の社会関係
すなわち共同体の構造を反映していた
著者が子どものころ
まだ大工さんが家を建て左官屋さんや畳屋さんといった
いろんな職人たちの共同作業であった
棟上げのときには近所に餅を配り
近隣の住人が家のなかまで入ってきてあれこれ見てまわる
ところが
現代は、あらかじめ用意された住居が
個人の好みで建てられる時代
それは昔とは逆に
人間関係を規定し、個人や家族を隔離
社会のつながりを分断
今一度
人間どうしの豊かな関係が見える
そんな住まいを考え直す時ではないか
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ということでした
住い、人類という広い範囲はともかく
日本、日本人にとっては、転換期であることは間違い
と、愚考する次第です
ではまた
本年よろしくお願いします
吾唯知足
ルーカスフィルム(ディズニー)とジブリが
共同制作した短編が「禅」だったり
昨年10月、孫2号君が誕生し、禅に通じる名前であったり
禅に関する本を数冊眺め、この言葉を改めて見直した次第です
吾唯知足(われただたるをしる)
精神的に自給自足
満足する気持ちをもつ
もっともっと、と言い出すとキリがない
「このへんで」と精神的な自給自足を達成すれば
人とは比較しないで済むので心は穏やか
千利休
食事は飢えぬほどにて足ることなり
水を運び、薪を取り、湯を沸かし、茶を点てて
仏に供え、人にも施し、そして我も飲む
花を愛で、香を焚き、皆々祖仏の行いのあと、学ぶなり
「南方録」より
ということで
正月気分に若干ですが水を差す話題であります
白米を食べるから太る、のではなく
白米を食べて、運動しないから太る
参考図書)
「江戸っ子の食養生」
車浮代:著(ワニブックスPLUS新書2022/5/20)
https://amzn.to/3PTNDnG
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
◆江戸
家康がやってきた1590年頃、家は100軒ほど
家臣が集まり、参勤交代で大名やその家臣、それらの屋敷が必要
街づくりの → 一旗あげようと人が集まる
男女比 4:1 →幕末になりやっと1:1
超過密の大都市
江戸時代中期以降の人口は100万人
その頃パリは50万人
ロンドンや北京は70万人
江戸の人口の半分は武士、半分は町人
現在の23区より狭い江戸の居住地の60〜70%は武士の住まい
15%は寺社、残りの15〜25%に」町人たちは暮らしていた
裕福な商人は表長屋
庶民は裏路地
九尺二間(2.7m×3.6m)の裏長屋
約6畳が基本形
◆明暦3年(1657年)
1月18日から20日にかけて「明暦の大火」が江戸を襲う
江戸城本丸をはじめ多くの武家屋敷
400町とも800町とも言われる町屋が消失
死者は、当時の人口30万人のうち11万人に及んだとも言われている
その復興の為、全国から職人が集められた
市街地再開発、隅田川東岸の深川エリアの開発が行われた
インフラ整備、防災対策として両国橋や永代橋が架けられた
防火線として広小路が設置された(上野広小路など)
しかし
江戸城本丸は再建されることは無かった
膨大な資金が投入された復興は、人の習慣に影響を与えた
◆一日三食
それまで一日二食が普通であったが、とにかく体を使う
そこで戦国武将並に、庶民まで一日三食が根付いていく
また
物流がよくなり照明油が出回り
起きている時間が長くなったのも一因
◆そこでの料理の特徴
1.冷蔵庫がない →旬の素材をその日の分だけ買い食べる
→新鮮、栄養豊富、エコ
2.燃料費が高い→料理に時間をかけない→栄養を壊さない
→時短簡単レシピ
3.調理法は切る・焼く・煮る=油を使わない
→ヘルシー
4.4つ足食の禁止→肉を食べたとしても少量
→がん予防、胃腸に優しい
◆米好き
成人男性は1日5合の白米
これは武士や富裕層だけでなく裏長屋住まいの庶民も含めて
1日真面目に働けば、銀シャリが腹一杯食べられれる
それが江戸っ子の自慢であった
居候 三杯目には そっと出し
庶民でも真面目に働けば「お天道様と米の飯はついて回る」という土地柄
しかも
江戸っ子が食べていたのは、玄米や雑穀米ではなく銀シャリ
長屋には定期的に搗き屋(つきや)と呼ばれる商人がやってくる
住人はそれぞれ米を持ち寄り、臼と杵で搗いてもらう
そんな精米法なので銀シャリと言っても糠の成分も残っている
それでも
◆「江戸わずらい」なる奇病が流行
脚気、ビタミンB1不足が原因
玄米や混ぜ飯がほとんどだった地方の人はあまりかからなかった
その後
「糠漬け」がブームとなり江戸わずらいも激減したとか
◆一汁一菜
ご飯と香の物(漬物)に汁物とおかずが一品づつ
これはご飯をいっぱい食べるため
◆暮らしそのものが運動
白米は太る?
白米などの糖質を多く摂る→糖尿病
江戸の成人男性に糖尿病はあまり無かった
体質が違うのか?
たかだか200年で遺伝子は変わらない
違いは運動量
様々な職業が出てきた
よほど身分の高い人以外はほぼ徒歩での生活
日々の暮らしそのものが運動であった
その活動源が白米
白米を食べると太る
ではなく
白米を食べ運動しないから太る
◆ダートマス大学ナサニエル・ドミニー博士の研究チームは
2007年に炭水化物を分解して糖にする酵素である
アミラーゼ遺伝子は民族により違うことを発見
日常的に炭水化物をあまり摂らない民族
アミラーゼ遺伝子数:平均4〜5個
対して
日本人は平均7個
◆厚生労働省の公表資料によると
1950年
国民1人1日あたりの摂取エネルギー2098kcal
うち穀類エネルギー比率77%
炭水化物の1日量418g、白米にしてお茶碗6杯以上
2010年
国民1人1日あたりの摂取エネルギー1849kcal
うち穀類エネルギー比率43%
炭水化物の1日量258g、白米にしてお茶碗4杯弱
摂取エネルギーも炭水化物の摂取量も大幅減
なのに
肥満や糖尿病の大幅増
銀シャリばかりを悪者にするんじゃないよ。
こんなにうまいもん食わねえなんて
人生損ってもんだぜ。(江戸っ子談)
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ということでした
もう一つ大事な要素、食物繊維につあては、また改めて
以前
白米より玄米
江戸の人は白米を食べていたから脚気になった
なら、バランスの良い玄米だ
みたいなコトを書いたりしておりました(下記リンク)
この本を読むと
今の白米と当時の白米は違う
という、少し考えれば解るコトが書かれていました
やはり二択のデジタル思考より
どこまでも曲線のアナログ思考が大切
と、フィルムカメラにフィルムを装填している2023年元旦であります
新年になっても油断出来ないCOVID-19であります
皆様におかれましても
心の栄養補給は怠らない様ご自愛下さい
ではまた
植物は会話をしている
樹木は根~菌類を通じて他の樹木とネットワークをつくり共生している
という本
前回の娘から借りた本に続いて、今回は嫁さんから借りました
これを読んで、これはなかなか面白い、と
次のEHAGAKIのネタはこれだな、とニンマリしまししたが
それが
そんなお話をNHKスペシャルでやっているではありませんか
大きなテーマです、別に気にするコトは無いのですが
天邪鬼的思考回路で考えると面白くない
しかし
本は面白い
読み進めるとこんなセクションが「謎めいた水輸送」
なんなんだ
ということで、今回のお題は「樹木の時間、人間の時間」であります。
参考図書)
「樹木たちの知られざる生活」
森林管理官が聴いた森の声/ハヤカワ・ノンフィクション文庫2018/11/6
◆ペーター・ヴォールレーベン:著、長谷川圭:訳
https://amzn.to/3ThFj1d
「樹木の中の水の流れをどうとらえるか」
▲黒田慶子
神戸大学201602学術動向 水の流れ.pdf
特集 1 農学の新展開に向けて―物理学・数理学の視点を取り入れた分野横断型農学
https://tinyurl.com/2a5vs9a9
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇◆
◆謎めいた水輸送
木々はどうやって、水を根から葉まで届けている?
痛みなどの感覚やコミュニケーションといったテーマに比べて
水分の輸送は比較的簡単に研究できる現象のはず
であるが
あまりに基本的な問いで
これまで、大学の研究においても単純な説明が繰り返されてきた
学生たちに
樹木における水の輸送について質問すると、いつも同し答えが返ってくる
毛管力(毛管現象)と蒸散が働いているからだ、と
◇検索してみました(橋長)
==========
「浸透圧」
水はイオン濃度が薄い方から濃い方へ流れる、人間の細胞も同じ
植物の根も、この浸透圧を利用して水分や養分を吸収
しかし
そのままでは上部へ上がらない
いくつかの要因で、水は植物体の上部へ運ぶと考えられる
「根圧」
根の細胞は吸収された水で圧力が高まる=根圧
これにより根は導管内の水を上に押し上げようとする力が生じる
「毛細力」
毛細管現象のことだが、これだけで数十メートルの水上昇は無理
「凝集力」
水分子はお互いに近くに引き寄せようとする=凝集力
根から吸い上げられた水は導管内の水に引っ張られる
「蒸散」
さらに葉で水が蒸散されて失われるので
それを埋めようとして水が下から引き寄せらる
これらが繰り返されることで
水は根から上部まで到達すると考えられている
==========
このあたりが定説となっているようです
▲毛管力ではそこまで高く押し上げることは出来ない
「毛管の中を水が上がる」という単純な仕組みではないだろう
と昔から推測されてきたが
説得力のある解説にはたどりついていない
◆蒸散と凝集力が働き、水分が上昇する
アメリカ北東部では、雪解けのころにサトウカエデに
聴診器をあててメープルシロップの収穫時期を決めている
しかし
この時期にはまだ枝には葉がないので、蒸散は起こらない
したがって、蒸散が水を汲み上げる力になっている
という考えは正しくない
◆浸透
葉や根であれば細胞があるのでこの説が正しいかもしれないが
幹には細胞はなく長い管が並んでいるだけなのだ
※細胞はなく?
◆それを否定する観察結果
最近の研究で、もう一度よく、文字どおり聞き耳を立ててみた
夜間に木の内部に静かな音があることが観察された
夜間は光合成をしないので水が蒸発することはない
つまり、水分のほとんどは幹のなかにとどまっている
では
音はどこからきているのか?
◆泡?
研究者は、水で満たされた導管の内部で
二酸化炭素の小さな泡が発生しているのではないかと推測している
この仮定が正しければ、水路はたくさんの気泡で分断されていることになる
水がつながっていないなら、蒸散や凝集力、あるいは毛管力も作用しない
▲樹木は、樹液流回復のための仕組みを備えている
気泡により水流が遮断されることは健全木の内部でも常に起こっている
その回復システムが樹液流の長期維持には重要である
▲樹高が100mに達する セコイアメスギのてっぺんの葉は
極度の水不足であると考えられてきたが
実際に葉を採取して調べると、細胞は強度の水ストレス状態ではない
水分を貯めることがわかってきた
幹にも水を滞りなく運ぶための「安全策」があるものと推測できる
▲導管は中空の筒状構造であることから
樹幹内の水流は、基本は物理現象ととらえるべ きである
しかし
樹体内では回復現象が現実に起こっていることから
導管に接する放射柔細胞や軸方向柔細胞などの
生細胞の役割にも注目する必要がある
◆正直なところ
木がどうやって水を吸い上げているのかはわかっていない
▲生細胞
生細胞が、補助ポンプのよう な役目を担っていて
水分を補給したり気泡の影響を緩和する仕組みになっているのかも知れない
生細胞の機能を解明するには、樹木生理および解剖学に加えて
MRIなど非破壊的観察手法や
他分野の技術を用いた、多角的な研究が不可欠である
◆すべての基本は根にある
そのトウヒは9,550歳と診断された
一本一本の幹はもっと若かったが
これら数百年前に生えた芽はそれそれが独立した木ではなく
すべてが集まって一本の樹木であると研究者は結論づけた
地上の姿がどうであろうと、やはりすべての基本は根にある
この根が気候変動に耐え、繰り返し芽を生やし
個体としての命を守りつづけてきた
一万年近くの経験を蓄えてきたからこそ、現在まで生き延びられた
◆樹木の脳
長寿トウヒの例からもわかるように
地中にある根は、樹木のなかでもいちばん長生きする部分
根ほど情報を長期間蓄えるのに適した場一所ははかにない
根が、物質を吸収して輸送したり、光合成でできた産物を
パートナーの菌類に渡したり
まわりの木に警報を送ったりしている
しかし
脳ともなると伝達物質だけでは説明がつかない
脳の神経活動には電気信号も関係する
◆電気信号
研究では行動の変化を引き起こす電気信号も計測された
毒のある物質や硬い石や水に濡れた場所に触れたとき
根は状況を判断して、成長組織( 成長帯) に変化の指示を与える
それを受けた成長帯はめざす方向を変えて
危険な場所に進まないように遠まわりする
◆縄張り意識
植物学者の大半は、これを知性や記憶、
あるいは感情の蓄積とみなすことに消極的だ
彼らは同じ状況におかれた動物との比較を嫌い
植物と動物の境界があいまいになることを恐れているようだ
そもそも植物と動物の違いは
私たち人間がたまたま選んだ基準
栄養を得るために「光合成をする」か「ほかの命を食す」か
といった基準だけで区別されている
それ以外の大きな違いといえば
情報を得てからそれを行動に生かすまでの
時間の長さぐらいだ
◆時間の長さ
時間がかかるからといって生き物として価値が低いということにはならない
植物と動物にたくさんの共通点があることが証明されれば
私たち人間の、植物に対する態度が
より思いやりのあるものになるのではないかと、期待する
◆樹木はまったくもって不思議な存在だ
確かだと思われていたことが否定され、また一つ謎が増えてしまった
でも、だからこそ樹木はすばらしい
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇◆
ということでした
最近見る機会が増えたはタイムラプス動画で、“樹木の動き”を見ると
“動物的”に見えます
昔「ゾウの時間、ネズミの時間」という本に書いてあった
“動物のサイズが違うと機敏さが違い、寿命が違い
総じて時間の流れる速さが違う”
“一生の間に心臓が打つ総数や体重あたりの総エネルギー使用量は
サイズによらず同じである”
という理屈は、樹木にも通じるのか
樹木の「脳や血管・心臓」的なモノの発見が楽しみです
COVID-19はまだまだ油断出来ません
皆様におかれましても
心の栄養補給は怠らない様ご自愛下さい
ではまた
COVID-19は相変わらず
パッとしない話題ばかりですが
そんな中では尚更に「善意の話」が気になります
そして善意の裏を探ってみたりと
修行が足りないコトをしてしまいがちですが
「利他」という言葉を調べると
他人に利益を与えること。
自分を犠牲にして、他人のために尽くすこと。
人々に功徳(くどく)、利益(りやく)を施して救済すること。
と出て来ます
さて、今回のお題は
4月に「料理と利他」EHAGAKI #421で取り上げた
土井善晴さんとの対談相手である中島岳志さんの
「思いがけず利他」であります
読むと落語、立川談志の話が多くを占めておりました
思いがけず長文になってしまいました
(いつもですやん)
参考図書)
「思いがけず利他」
中島岳志:著(ミシマ社2021/10/25)
https://amzn.to/3AGHB43
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇◆
「利他」には独特の「胡散臭さ」がつきまとう
利他的行動に積極的な人に対し
「意識高い系」という言葉が揶揄を込めて使われたり
「偽善者」というレッテルが貼られたりすることもある
しかも
利他行為の「押し付けがましさ」は
時に暴力的な側面を露わにする
誰かから贈与を受けたとき
うれしい
↓
お返しをしなければならない、という負債感
あげる人、もらう人、という上下関係
「支配」「被支配」の関係
利己的な利他?
利他には様々な困難が伴う
偽善、負債、支配、利己性
利他的になることは、簡単ではない
しかし
自己責任論が蔓延し
人間を生産性によって価値づける社会を
打破する契機が「利他」には含まれている
「利他」を考える際、核心に迫っている落語の噺がある
「文七元結 ぶんしちもっとい」
明治中期に三遊亭圓朝が創作した
明治政府の多数派である薩摩・長州出身者に対して
「江戸っ子気質」を提示した噺と言われている
◆ 「文七元結」あらすじ
腕のいい左官職人の長兵衛
しかし、あるときから博打にはまる
妻のお兼と娘のお久は、貧困生活に
家財道具や着物は、大概売ってしまう
それでも長兵衛は博打をやめない
ある日
長兵衛が博打を終え帰る
お兼が「お久が昨晩からいない」と
そこに吉原の「佐野槌」という店の番頭が来て
「お久さんはうちへ来ています」と
長兵衛はお兼の身につけている着物を借り、吉原に
すると
佐野槌の女将が出てきて、長兵衛に説教
せっかく腕のいい職人なのに
博打ばかりして家族を困らせている
時に暴力まで振るう
お久は吉原に身を沈めることで
お金を作ろうとしている
「長兵衛さん、悪いと思わないのかね、どうする気なんだね」
女将は提案する
五十両を貸す
真面目に働き、来年の大晦日までに返しに来ること
それまでお久は自分が預かり、諸々手伝ってもらう
もし、返せなければ、お久は店に出す
「どうする長兵衛さん、性根据えて返事をおし」
長兵衛は女将と約束し、五十両を受け取る
そして、女将に促され、お久に礼を言う
威張っていた父が、自己の不甲斐なさを突きつけられ
娘に頭を下げる
店を出た長兵衛は、帰り道を急ぐ
そして
吾妻橋にさしかかったところで
若者が川に身投げをしようとしている
長兵衛は慌てて若者を抱き抱える
近江屋の奉公人の文七は
売掛金の五十両をすられてしまい
絶望のあまり大川へ身を投げようとしていた
ここで長兵衛は苦しむ
懐には先ほど借りたばかりの五十両がある
これを若者に渡せば、彼の命を救える
しかし、この五十両はお久が作ってくれた
これを手放してしまうと、借金返済は不可能に
長兵衛は悩み抜いた末、五十両を差し出す
そして
大金を持っている事情を話し
娘が客を取ることになっても悪い病気にかからないよう
「金比羅様でもお不動様でもいいから拝んでくれ」と言う
そして五十両を投げつけて、その場を去る
文七は五十両を手に近江屋に戻ると
盜まれたと思っていたお金が届いており
取引先に置き忘れてきたことがわかる
文七は動揺する
そして
吾妻橋での出来事を主人に打ち明ける
主人は五十両を差し出した男に感銘を受け
番頭を使って探し出す
やっとのことで
家を突き止め、文七と共に五十両を届けに行く
「いったん人にやったものは受け取れない」と渋る長兵衛
なんとか五十両を返却した主人は
表に声をかける
すると
そこにはきれいに着飾った娘のお久が立っている
五十両を佐野槌に渡し
着物を買い与え、お久を連れてきていた
「お久が帰ってきた」
と長兵衛が言うと
着物を長兵衛に貸して裸のままのお兼が飛び出し
親子三人、その場で抱き合い涙を流す
その後
文七とお久は結婚し
「文七元結」という小間物屋を開業した
◆五十両と共に起動する「利他」
父を助けようとする娘
長兵衛を助けようとする女将
文七を助けようとする長兵衛
そして近江屋の主人
利他的贈与が連鎖し、五十両が循環し
皆に幸福がもたらされる
重要なことは長兵衛が
根っからの善人や
規範的な人間ではないということ
むしろ
博打に明け暮れ、家族に暴力を振るうような人間
そんな長兵衛が
大切な五十両を、たまたま出会った若者にあげてしまう
しかも
名前も告げずに去る
◆その動機は何なのか
【解釈A】「文七への共感」
近江屋にとって大切な五十両を、自分の不注意で盗まれた
主人に申し訳が立たない
この文七の「主人への忠義」「正直さ」
「まっすぐな生き方」に長兵衛が共感した
【解釈B】「江戸っ子の気質」~なかなか説明がつかないが
「俺も江戸っ子だ」
「見殺しにしては目覚めが悪いから」と
あえて明確な理由を提示しないが「江戸っ子」の
気風を表現する
◆三代目古今亭志ん朝
~【解釈A】と【解釈B】を重層的に語る
長兵衛は五十両を差し出す寸前に、ふと
「ばか正直なんだな、てめえは」
と漏らす
ぶっきらぼうな言い方で、青年の純粋さへの共感が
さりげなく示される
長兵衛が文七の人柄に惹かれ
何とかして、誠実なこの青年を助けたい
という意志を持っていく様子
これが【解釈A】の部分
一方
長兵衛は「黙って帰ると格好がつかない」と言い
五十両の受け取りを拒否する文七に対して
「一度出したものを引っ込めるわけにはいかねぇ、持ってけ」
と突き放す
これは【解釈B】の部分
志ん朝は【解釈A】と【解釈B】を巧みに織り込み
あっという間に長兵衛と文七の人物像を浮かび上がらせる
さすが名人
◆立川談志
~明確な【解釈A】の欠如
「江戸っ子だ、言ってみろ」
「江戸っ子だからな」と語り
「江戸っ子気質」が繰り返し強調
そして
「吾妻橋を通った俺が悪いんだから」と
偶然生や運命を贈与の理由にする
自分に対し
「何か言え、畜生」
「あーっ、あーっ」と逡巡し
さんざん苦悶したあげく、仕方なく
「五十両やろう」
談志は夜の吾妻橋に、霧をかける
すべてが霧の中で展開する
つまり誰も見ていない
長兵衛の行為を誰かが見て「あいつはえらい奴だ」
といったような社会的評判になることはない
談志曰く
世の中、これを美談と称し
長兵衛さんの如く生きなければならない
などと喋る手合いがゴロゴロしてる、大きなお世話だ
と
長兵衛の贈与を「美談」とすることを拒絶する
◆共感の危うさ
「共感に基づく利他」
通常、利他的行為の源泉は、「共感」にあると思われている
「頑張っているから、何とか助けてあげたい」
「とってもいい人なのに、うまくいっていないから援助したい。
そんな気持ちが援助や寄付、ケアを行う動機づけになる
他者への共感、そして贈与
コロナ危機の中でも
窮地に陥おらいった人たちへの贈与は
様々な共感の連鎖があった
とても意味のあること
しかし
共感が利他的行為の条件となったとき
日常的に他者からの援助・ケアが必要な人は
どのような思いに駆られるか
「共感されるような人間でなければ、助けてもらえない」
人間は多様で、複雑
コミュニケーションが得意で
自分の苦境を語ることができる人
逆に
他者に伝えることが苦手な人もいる
笑顔を作ることも苦手
人付き合いも苦手
だから
「共感」を得るための言動を強いられると
そのことがプレッシャーとなり
精神的に苦しくなる人は大勢いる
そもそも
「共感される人間」にならなければならないとしたら
自分の思いや感情、個性を
抑制しなければならない場面か多く出る
「こんなことを言ったらわがままだと思われるかもしれない」
「嫌なことでも笑顔で受け入れなければいけない」
一方で
感情をさらけ出すことにより共感される人もいる
こうなると
感情を露わにしなければならないという
「別の規範」が起動する
そうすると
「自分をさらけ出さないと助けてもらえない」
という新たな恐怖が湧き起こる
「共感」は当事者にとって
命にかかわる「強迫観念」になる
◆「人間の小ささ」を大切にする
さて、談志
長兵衛の利他行為から
文七への「共感」をそぎ落とした談志は
五十両を差し出す動機づけを、どう捉えたか
談志の落語の定義は
「人間の業の肯定を前提とする一人芸である」
要は「業の肯定」
人間のどうしようもなさを肯定することで
救いをもたらすのが落語
人間というものは眠くなれば寝てしまう
飲むなと言っても飲んでしまう
そういう深い欲望(すなわち業)というものを
一切合切認めてしまっているのが落語
例えば忠臣蔵
講談
忠臣蔵の主題は「成せば成る」
講談は討ち人りをした人たちの忠義を描く
人間の格好良さを描くのが講談
落語
討ち入った四十七士はお呼びではない
逃げた残りの人たちが主題となる
そこには善も悪もない
良いとか、悪いもとか言わない
ただ「あいつは逃げました」「彼らは参加しませんでした」
と言ってる
「つまり、人間てなァ逃げるものなのです」
そして
「その方が多いのですョ」
そして
「その人たちにも人生があり、それなりに生きたのですョ」
人間の業を肯定してしまうところに
落語の物凄さがある
家族もあれば生活もある
討ち入りをして、自分が死んだらどうなる
人殺しも切腹も怖い
死にたくない
だから逃げる
逃げて生きていく
生き延びて、やがて名も残さず死んでいく
そんな選択をした人間の人生を
肯定するのが、落語の物凄さ
人間は愚かで間違いやすい
時に誘惑に負け、身を持ち崩すこともある
しかし
人は世の中と折り合いながら、たくましく生きていく
そんな
人間のどうしようもなさを肯定するのが落語
これは
無秩序や無規範の肯定とは異なる
むしろ逆
人間の愚かさを見つめることで
良識や良心の重要性があぶり出されるのが落語
人間は小義にこだわる
落語のなかには
人生のありとあらゆる恥かしさのパターンがある
落語を知っていると、逆境になっても
そのことを思いつめて死を選ぶことにはなるまい
と談志は言う
卑小なる人間の「業」を見つめ
温かく包み込むことで存在そのものを肯定する
「いのち」を抱擁する
人間の不完全性を容認し、大らかなまなざしを向ける
そのことによってこそ、人間は救われる
◆落語と人情噺
人間には
「いいことをやってしまうという業」がある
それが人情噺
談志は次のように言う
「なら、良いこと、立派なことをするのも業ですネ」
と言われれば
そうだろう、ではあるものの
そっちの業は、どっかで胡散臭い
そして
「それは違うなァと、若き俺様はどこかでそう感じ
そのまま今日まで生きてきた
そのギャップに生きている。とも言える」
このギャップは、「文七元結」において頂点に達する
談志は、生涯を通じて
「文七元結」を人情噺とすることに疑問を持つ
それは落語と人情噺の差
「人情噺」とは、一体何を指すのか
◆「業の力」が長兵衛に五十両を出させた
そうでなければ、
「落語は業の肯定」という談志の卓越した定義が破綻する
ここに「人間の業」と「仏の業」が同時に働いている
ここに落語の凄みがある
どうしようもない人間を単に肯定しただけでは
落語を聞いたあとの余韻を説明できない
どうしようもない人間のどうしようもなさを
聞くことで、私たちはなぜ救われるのか
なぜ世界を温かく抱きしめる感覚を抱くのか
ここに深いレベルでの世界への信頼があり
救済がある
「たった一つだけの頼み」
「文七元結」の重要なポイントは、長兵衛が文七に言った
「たった一つだけの頼み」にある
長兵衛は五十両を差し出し
自分が大金を持っている事情を説明したあと
「だったら頼みが一つある」
「金比羅様でもお不動様でもいい。拝んでくれ」
と言う
談志は、そんな噺を落語の範疇に入れることを拒否した
しかし
人情噺の代表作と言われる「文七元結」を、何度も演じ続けた
それは「文七元結」が
単なる「いい話」に留まらない
「何かを表現している」と確信していたから
自分はどうしようもない人間である
そう認識した人間にこそ
合理性を度外視した「一方的な贈与」や「利他心」が宿る
この逆説こそが
談志の追究した「業の肯定」ではないか
つまり
人間の力を超えた「浄土の慈悲」であり
「仏の業」だったのではないか
◆親鸞は、次のように言う
人間は仏に照らされ、自己の愚かさに気づく
この「悪」の認識を持つことで
他者への「懇ろ(ねんごろ)の心」を抱くようになる
親身になって相手に接するようになる
仏の業に導かれた逆説の中に、利他的行為が発生する
親鸞は、そんな人間の摂理を見つめた
自己がどうしようもない人間だ
という認識を持った人間こそが
他者に親身になることができる
世界を愛することができる
落語を抱きしめることができる
いや
その瞬間に、世界に抱きしめられている
そして、落語に抱きしめられている
ここに現れるのが
いのちへの根源的な共感であり
そこにやって来るのが仏の慈悲
他力に押されて行う行為こそが、利他
そこにのちの幸福との因果関係は存在しない
それは因果の外部にある行為であり、理屈のつかない行為
単独で「利他」という観念が成立しているわけではない
大きな世界観の中で、無意識のうちに
不可抗力的に機能しているもの
「利他」が「利他」と認識されない次元の「利他」
長兵衛は、霧の吾妻橋で
そんなところに立っていたのではないか
◆談志の晩年
談志は高座で
「このあと演りましようか」
と言って創作した噺の続きを演じる
「なぁ、おい、お久も文七も幸せでいいなァ」
「でも、前から言おうと思ってたんだけど
あれ、金が見つかったからよかったけど
金が見つからなかったらどうするつもりだったの」
「そうだよな」
「でも、あそこで金をやっちゃったってのが
俺の最後の博打だったんだなァ、うん」
「あれば、ちんたらちんたら使っちゃって、なくなってたんじゃね
「裸になって分かった」
とサゲる
そして、次のように言う
「こう付け加えることによって
落語にリアリティを入れたというか、人情噺という作り話に対して
槍を一本入れたつもりだったんだがネ」
この解釈では、筋道がつきすぎる
最後の 「だがネ」
未完結性と余韻が残される
つまり談志は、まだ納得していない
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇◆
ということでした
長くなってしまいました
この本に書かれているコトと
違う解釈になったかも知れません
答えは風の中、ですかね
皆様におかれましても
心の栄養補給は怠らない様ご自愛下さい
前回に引き続き、SDGsの観点から
「平和と公正をすべての人に(Peace, Justice and Strong Institutions)」
であります
2013年9月9日EHAGAKI #275≪戦争の話≫として紹介した
身近に聞いた戦争体験談のリメイクであります
◆京都は爆撃された
◆母親に戦争の話を聞いてみた
SDGsな、ネタ資源保護の為のリサイクル、眺めて頂ければ幸い
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
◆京都は爆撃された
(京都 ヨシィさんのfacebookより)
◇2013年8月11日
戦後、京都は文化都市で
爆撃は(されなっかた)しなかった。
が通説になっている。
多くの日本人はそう思われているようだ。
だが、大阪や東京の大空襲より前
昭和20年(1945)1月16日深夜に
京都市東山区馬町が爆撃され、死者42名がでた。
倒壊家屋、負傷者も多くでたが秘密保護の「箝口令」で
外部には伏せられていた。
付近にある現京都女子学園の学生寮が被爆した。
三十三間堂,恩賜(現・国立)京都博物館
妙法院が直近にある、住宅地の馬町にである。
清水寺は北東700米
当時、国民学校5年生だった私達は
その年の4月に学童疎開させられた。
爆撃はその他、西陣など数か所あり
死者も出て、慰霊碑がつくられている。
が、馬町の爆撃は忘れられた形であった。
東日本大震災で
石碑の忠告で被害が少なかった地区があると知り
忘れられた「馬町爆撃を語り継ぐ会」が出来た。
馬町空襲を語り継ぐ会↓
http://www.umamachi.jpn.org/
◇馬町空襲を語り継ぐ会、第1回会合より
●近年になって判明してきた資料によると
京都は原爆投下の第一目標で
京都、広島、横浜、小倉の順だったそうです。
●京都が選ばれた理由は
・人口が100万人ぐらいで市街地が広く、三方が山に囲まれた盆
原爆の爆風が最大限効果を発揮できる
・神社、仏閣が多く日本人にとって宗教的な意義を持つ重要都市で
日本人に大きな衝撃を与えられる
・文化人や知識人が多く住み、核分裂による新型爆弾を認識した知
日本政府に早期降伏を働きかけることが予想できる
●アメリカは、人類史上最初の核兵器を使用するに当たって
その威力を正確に測定するため
通常爆弾による空襲を行わず都市形態を温存させておいた
●このような理由により
空襲被害をほとんど受けていない大都市、京都を目標としたのです
◇馬町空襲を語り継ぐ会」第5回会合より
●京の馬町空襲、通説覆す、米軍資料で判明
●市民団体が発見した馬町空襲などの実態を記録した米軍資料
●京都府内初の空襲だった京都市東山区の「馬町空襲」について
市民団体が米軍資料を調査したところ、これまでの京都府の
公式記録を覆す新資料を発見した。
●当初の攻撃目標が名古屋の兵器工場だったことや
250ポンド(約112キロ)高性能爆弾を20発投下したことが
専門家は
「戦時中の混乱の中での調査結果がそのまま史実のように伝わって
実態を伝える新たな資料だ」としている。
京都新聞【 2010年08月03日 】
◇8月15日
68年前の今日、国民学校6年生だった。
祖父が病気で疎開地から、家に戻っていた。
祖父が、正午にレジオで「重大放送」ある。
店先のレジオで聞いて知らせろと命じられた。
正午に陛下の放送だと説明後
「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非情ノ措置ヲ以テ
時局ヲ収拾セムト欲シ茲二忠良ナルナン爾(ナンジ〉臣民二告グ・
の昭和天皇のお声による「終戦の詔書」を聞いた。
レジオの音声は聞き取り難く、お言葉も難しく、何のことか判らな
只何か大変なことだろうと察し、
祖父に告げると近くの「新聞屋のおじさんに聞いてくれ」と
そして日本の敗戦を知った。
祖父は、声を出して泣いた。
【天気は今日のようにジリットする暑い日だった】
その晩は、前日までの暗がりがウソの様に、家々の明かり、
街路灯も点利、町全体がキンキラと輝いて見えた。
◇2013年8月20日
敗戦の時、国民学校6年生であった私は
出征した父との面会に行った時、
この写真※とそっくりな光景を何度か見た。
※「自衛隊運用、制服組に移管
来年度にも、文官部局は廃止」報道に使われた写真
その頃の
「大きくなれば兵隊になって、陛下とお国に命をささげる」べき
との教育を受けていて、格好が良いに姿に憧れに似た感情を持った
敗戦で価値観が大きくかわり、平和と民主々義の新憲法ができた。
国民の祝日にまでして多くの国民は喜び歓迎した。
戦争の無残がなくなり、自らの力が政治に反映する。。。
その世代が少なくなり、最近の姿をみていると
前の戦争前夜のような感じがする。
この写真を見て「ゾーと」した。
軍隊を持たない憲法は完全に無視されている。
我が孫たちが戦争に巻き込まれないように
年寄りでも頑張ろうと思う。
◇2013年9月7日
東京の人たちの「オリンピック開催」が
きまってハシャグ様子をTVでみた。
その東京を電力でささえた「東北」は
今も原発事故で苦しんでいる。
家族、友人を亡くし、今も自宅に戻れずにいる人たちは
まだ悲しみを持ち続けているだろう。
私たちは何を置いても
「東北の復活」を最優先ですべきではなかろうか?。
それが日本人としての正義だと思うのだが・・
もし今、啄木がいたら
どんな詩を書くだろうか?
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
◆母親に戦争の話を聞いてみた
■2013年8月4日/東京単身赴任 kanpaiさんより
※現在、神戸三宮でBar「隠れ谷」営業中
https://kakuredani.wixsite.com
母親は昭和4年(1929年)生まれの84歳。
終戦の年は16歳なので
戦争の記憶を語れる最後の年齢かもしれない。
母親の記憶があいまいなので
名称等は間違っているかもしれない。
西脇の女学校の時に、女学生の学徒動員で
川崎航空機の明石工場の寮に入った。
寮で朝1時間だけ勉強して
「歩調とれ!」との号令でバスに乗って工場門に入る。
そこから気筒(きとう)部行きのバスに乗り込んだ。
気筒部とは飛行機のエンジン部分を組み立てるところで
そこの検査部門に入れられた。
野田高女から来たという女学生さんに検査の仕方を教えてもらう。
組み立てられたエンジンにホースで水を入れる。
ピューと水芸の様に水が噴き出す。
水の出ないエンジンは10台に1台もない。
心の中で「こんなことで飛行機ができるんやろか」
と思いながらも、黙々と不合格として処理する。
仕事中は、長い日本刀を腰から下げた将校さんがいるので
私語もできない。
不合格のエンジンは、土山の東亜金属に送り返す。
ある日、空襲が来そうなので
気筒部は東洋紡績の二見工場へ移ることになり
トラックで移動した。
その紡績工場では、軍需工場として引き渡すための
整理作業が行われていた。
食堂が垣根で隠されており
そっと中を覗いてみると、真っ白な大量の白米が炊かれていた。
おそらく、食堂に置いていた食料を
最後に従業員が食べたのだろう。
その後、明石の川崎航空機に空襲があり
二見の工場も危険なので防空頭巾をかぶって山の中へ逃げ込んだ。
目と耳を両手でふさいで、爆弾の落ちる音と爆発音を聞いていたが
そっと目を開けて明石の方向を見た。
大量の花火を見ている様で、明石の空が真っ赤になっていた。
空襲のあとは、電線に人肉が引っかかっていたりしていたらしい。
野田の女学生さんは逃げられたのか。
その後は西脇の野村の織物工場に移った。
西脇や社(やしろ)のような田舎でも
空襲警報はよくあった。
空襲警報があった時
佐保神社の裏山から崖を転げ落ちて逃げたこともあった。
田んぼの中で機銃掃射を受けて亡くなった人もいた。
ウーという警報が鳴ると、家中の電気を消して
真っ暗な中でご飯を食べた。
今、よく生きていると思う。
今思い出しても
短かかったのか、長かったのか、生きた心地がしなかった。
※川崎航空機明石工場空襲は昭和20年1月19日、
犠牲者263名、全国から来ていた学徒勤労報国隊16名
女子挺身隊8名も犠牲になった。
追伸:調べてみるとエンジンは岐阜工場で
組み立てられていた飛燕のものでした。
当初からエンジンの油漏れが問題の飛行機だった様です。
なんか納得。
コメント)
WH氏
私の父も昭和4年生まれの軍国少年でした
(今なお健在です)。
父は、海軍兵学校に志願し、最後の卒業生として
江田島の寄宿生活を送りました。
祖父は旧制中学の教師で、
教え子を戦場に送り出す役割をしていたそうですが
戦争に勝ち目がないことは分かっていたそうで
息子が海軍を志願した時
「お前が行くことは無かろうに」と泣いたそうです。
しかし、兵学校では、訓練する兵器もなく
海軍も敗戦後の復興を視野に
英語教育に力を入れていたそうです。
昨年、江田島の見学に行きましたが
父の上の学年までは、卒業写真が残っていました。
多分、多くの卒業生が死地へ赴いたのでしょう。
父の代だけは写真がありません。
ある意味、幸せなことだったのではないかと感じました。
いずれにせよ、父自体は
それほど悲惨な経験をしなかったようで、
あと1年、生まれるのが早くても遅くても
運命は大きく違っていただろうと思います。
母は昭和10年生まれで、学童疎開経験者です。
田舎の人にいじめられたりひもじい思いもしたようですが、
幼かったせいか
戦争の悲惨さに直面したという感じではないかも知れません。
8/4 23:11
MH氏
ウチの母も4年生まれです。
学徒動員で仁丹をつくらされ
3月の大阪大空襲で家を灼かれ
末弟(つまり私の叔父)を背負って火の海を逃げ
命からがら祖母の実家に疎開し
やはり辛いめに遭ったそうです。
こんな話を孫の世代に伝えようにも
聞く方はほとんど実感出来ないでしょうね。
8/5 19:51
MB氏
お袋さんも大変な時代を生てきたんだね。
僕の父も尋常小学校を出て、一人で大連の満鉄学校に入って、
その後、ハルピンで終戦を迎えたらしい。
ロシアの進軍から命からがら栄養失調になりながら
必死で引き上げ船に乗って門司についたらしい。
あまり多くを語らないが
その分、大変な目にあったたんだと思う。
8/5 23:42
kanpai氏
いろいろ調べるうちに、空襲で犠牲になった女学生16名の中に
野田高女の1名も含まれるいう記述がありました。
母に検査の仕方を教えてくれた人かは分かりませんが、
悲しい気持ちになります。
8/6 21:04
IT氏
うちのばあさんは昭和3年生まれ
愛知県の知多半島の半田の工場で
飛行機の翼を磨いていたそうです
・・・このとき空襲で同級生を一人亡くしたとか・・・・
戦争はいけません。
8/7 11:01
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ということでした
最近、ウクライナの現地映像をみてゾッとする光景があります
破壊された高層の共同住宅です
今まで見てきた戦争の傷跡は、低層の街並みがほとんどでした
今、我々が目にしている光景は、見慣れた14階建
おもちゃの家の様に壁が無く室内が見える実物
映像なのか現実なのか
その区別も曖昧な我々
おそらくその指導者たちも曖昧なのでは
指導者たるもの、臆病でなければ
と、愚考する次第です
皆様におかれましても
心の栄養補給は怠らない様ご自愛下さい
ではまた
今年もまた、何かと微妙な夏休み期間となりました
さて
古い知人から古いカメラを預かりました
私が古いフィルムカメラを撮り続けてるのを知って
コンタックスを送ってくれました
そこに有効期限が2001年4月が有効期限の冨士フイルムが
添えられていました
昭和のコトは語られることは多いですが、2001年といえば平成
その頃は何を考えていたのか
このEHAGAKIで当時を振り返ってみました
SDGsの観点から
今回は持続可能な音楽ネタのリサイクルであります
軽く眺めて頂ければ幸いです
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ニューヨークの路上で老婦人がミュージシャンに尋ねる
「すみません、カーネギーホールにはどうやったら行けるのでしょ
ミュージシャンは答える
「練習あるのみ!」
2006年5月22日≪逸話≫より
※参考図書:「ジャズ・アネクドーツ」
ブル・クロウ著 村上春樹訳(新潮文庫)
◆2001年4月10日、LS HAGAKI Vol.36より
贔屓にしている人が活躍するのは嬉しいものです
第43回グラミー賞が発表され
【最優秀コンテンポラリー・ジャズ・アルバム】部門で
BELA FLECK&FLECKTONES「Outbound」が選ばれ
私は大学時代にBanjoという楽器をしていました
Bluegrassという音楽ジャンル(アメリカ民謡研究会所属
今もBanjoという楽器が好きなのですが
なかなか一般には馴染みのない楽器です
ジャズの世界ではデキシーランドで4弦Banjoが使われること
私がやっていたのは5弦Banjoでカントリーの中のでもBlu
使われていないものでした
ですからBanjo奏者として成功しても大した収入にもならなか
そんなBanjo界にあってジャンルにとらわれない演奏が出来る
1958年生まれ(私とほぼ同年代)のBela?Fleckとい
77年頃にデビューしBluegrassのバンドで活躍その世界
(でもマイナーですが)
そして89年に自身のバンドを結成コンテンポラリージャズに分類
新し音楽を始めたのです
それがまたふざけたバンドでBanjo、エレキベース、シンセサ
ブルースハープという変則編成で、今までにないバンドサウンドを
その後はメジャーな活躍を始めたのです
彼の楽器には特徴があり、弦高(弦とフィンガーボードの間の高さ
かなり高いのです
ギターを演奏される方ならわかってもらえると思いますが
かなり弾きにくくなります(音量は上がりますが)
(↑1984/11/17 千里セルシーで橋長撮影)
85年のインタビューで次の様に語っています
「高すぎると自分でも思うけど、、、Banjoと闘っているんだ
闘っているというのがいいと思うんだ
流れる様なBanjoよりも、意識的にでも俺は弾いているんだ
という感じがライブではエキサイトしていいんだ
本当に高すぎて困る事もあるけど、それがいいんだ」
と答えています
そのインタビュー記事では
「彼の内向的な性格(たぶん)とスルドイ頭脳が生んだ
ナルホドというやり方」と結んでいます
私も新しい形の新築分譲マンションの販売会社を目指しています
新しいものを創る為に闘うことは不可欠だと言われます
日々の生活の中に「闘う工夫」をしなければならないなぁ
と考えている、今日この頃です
◆≪逸話≫2006年5月22日≪逸話≫より
バディー・リッチが入院した時、受付の看護婦が彼に
「何かアレルギーみたいなものはありますか?」
と尋ねた
バディーは答えた
「カントリー・アンド・ウエスタン!」
◆2002年3月19日、LS HAGAKI Vol.42より
今年(2002)のグラミー賞は、私にとって嬉しいものでした
私の音楽のフェイバリットであるブルーグラスがクローズアップさ
年間最優秀アルバムを受賞した『O Brother, Where Art Thou?』は
アメリカ の古い音楽がいっぱい入っています
その中でも特にカントリー男性ヴォーカル賞を受賞した
ラルフ・スタンレーが1人でアカペラで歌う"O Death"なんかは
日本の民謡(商業的ではないワーク ソング的な)と同じパワーを感じます
ちかごろの日本の歌(子供が聞いているヒップホップ調)は
歌詞の内容が清く美しすぎるものが多い様に思います
韻を踏んでいる関係もあるのでしょうが
「虫も殺したことの無い人が自然保護を訴えている」
様でどうにも落ち着きません
アメリカの古いブルースやトラディショナル(民謡)には
汚くて投げやりな言葉が多用さる時もあり
「清々しさ」とは対極の世界があります
If the river was whiskey, And I was a duck
I'd dive to the bottom, And I'd never come up
というフレーズは複数の歌に共通して使われています
なんともダメ男の現実逃避の歌詞なのですが
それは「叫び」でありそこにものすごいパワーを感じます
私の読書のフェイバリットである南方熊楠は
知人からの「酒を控えた方がいい ですよ」という親切な忠告に対して
以下の様な返事の手紙を書いています
小生に酒をつつしめ云々と有之(これあり)。
小生は親や兄弟が言うても酒を つつしまず。
又、たとえ慎むべしと約束した処が、酒をつつしむ男に無之候 (これなくそうろう)。
小生、従来名を挙げ事を成したるは、みな酒の被護にて候。
其許は酒を飲まず。
故に常に腰弱く・・・・酒がいやなら自分謹んで可 なり。
人に勧むるに及ばず。
・・・・小生酒を飲んでも其許の損に成らず。
其許は酒を飲まぬが、非常に小生及び当地方の多人数の迷惑を起こ
?・・・・体や酒の事は其許等の世話にならず。
ここまで言いきることに
パワーとある種の感動を覚えるのは私だけでしょうか
◆2006年5月22日≪逸話≫より
グローヴァー・ミチェッルは
彼が加入した時のデュークのバンドについて語っている
その時俺はバンドで仕事を始めて一週間ぐらいだった
最初の2日は全員がステージに上がって、目のさめるような演奏を
でもそのあとステージに上がるのは5、6人で
あとの8人か10人は客席を歩き回って
客とおしゃべりしたりバーで酒を飲んでいた
ある夜、ステージで演奏していると1人のウェイターがやってきて
ジミー・ハミルトンに「ステーキができました」と言った
彼はそのままステージから降りて、ステーキを切り出した
そのあとで俺はデュークに言った
「よくこんな状態に我慢できますね?」
彼は俺に言った
「いいかね、良いこと教えてやろう
私はこのバンドが最高である夜のために生きているんだ!
君が気にするような夜のことは、見ないようにしている
あの連中のことを真剣に考えだしたら
頭がいくつあっても足りやしないよ、私はそんな目にはあいたくな
シェリー・マンはあるインタビューで
ジャズ・ミュージシャンの定義を求められこう言った
「我々は同じ演奏を二度出来ない人種だ!」
◆2004年5月12日≪意識or無意識≫より
私はよく社員に
「指示がない時 何をするかが問題だぞ」と言います
「無意識で出来てるコト」
「意識しないと出来ないコト」
それを支えているのは“志”ではないか と
ジャズでのピアノトリオを思い浮かべて下さい(EHAGAKI LIVE !)
スタンダード曲です
まず良く知られたテーマのメロディーをピアノが 奏でます
何回かくりかえされ、よく聴くと徐々にメロディーが変化し
アクセントも変わっています
ドラムとベースは安定したリズムを刻みます
そして印象深いドラムの一撃が加わると、ピアノの一人旅が始まり
ドラムとベースは押さえ気味になり
聴衆と同じ視線でピアノのアドリブを楽しみます
ピアノは与えられたコード進行の中で
オリジナルな音を紡いでいきます
沈んだり、泣いたり、笑ったり、イライラしたりを表現し
気がつけば元のメロディーも顔を出しています
再びドラムの一撃でピアニストは、軽く会釈し歓声と拍手がおこり
歓声がさめるとすでにベースソロが始まっています
あくまでリズムキープしながら
歓声が静まったことを確認すると
主張がはじまります
気がつけばピアノはリズムを刻んでいません
低く野太いベースの音に注目が集まります
「受けるフレーズ」を熟知したベーシストは
表情豊かに別世界への旅に出ます
すでにドラムもわずかにリズムを刻みながら
タオルで汗を拭っています
観客から声があがります
ベースソロはハイライトを迎え聴衆はクライマックスを知ります
しかし予想は裏切られ延々とソロが続きます
「もう終われ」と言うかの様に
ピアノとドラムがアクセントをつけリズムを創ります
満足顔のベーシストもそれに呼吸をあわせるとドラムの出番です
短いソロのあとそれに答える様にピアノが語り再びドラムが叫ぶ
この応酬が繰り返され聴衆の興奮も極限に達します
そのテンションのままピアノがテーマを奏で
聴衆は、何の曲だったかを思い出します
もう一度テーマが繰り返され演奏は幕を閉じます
大半がアドリブでの演奏です
大変な練習量により「意識したコト」を音に表現し
感性により「意識していないコト」をも表現します
他人に感動を与える為には「志」+「トレーニング~行動」なのか
◆2008年1月4日≪NATURAL RHYTHM≫より
“NATURAL RHYTHM”
このタイトルは1955年に録音された2枚のアルバム
フレディー・グリーンの“MR.RHYTHM”とアル・コーンの
一枚のCDとして再発売された時のタイトルです
この2枚のアルバムはほぼ同じメンバーで録音されたもの
このスイング感を支えているのがリズムギターのフレディー・グリ
カウント・ベイシー・オーケストラのスイングするリズムを支え続
フレディー・グリーンを知ったのは、子供の頃
親父がこの“MR.RHYTHM”のLPレコードを持っていて聞
カウント・ベイシー楽団のリズム隊が“オール・アメリカン・リズ
と呼ばれていることを教えてもらい、カッコイイと思いました
オール何々、ザ・何々という言い回しは
その世界ではトップの人に与えられる称号であることは
教えられなくともイメージできるものです
"All-American Rhythm Section"
Freddie Green on rhythm guitar with
Count Basie on piano,Jo Jones on drums, and Walter Page on bass.
バンドにおけるリズム・ギターについて
フレディー・グリーンはこう語っています
I don't try to play those big concert chords.
I play just a couple of notes,sometimes just one,
but it sets the sound of the chord.
When you try to play those big chords,
it can make the whole band drag.-Freddie Green
俺は6弦とも使ったコードは弾かないね
俺は2つか3つの音、時には1音だけで演奏するよ
そこに大切な音があり(バンドに必要な)コードになってるんだ
あんたが全部の弦を弾いたら、バンドは引きずられっちまうだろう
フレディー・グリーン
同じくスイングするギタリストのベッキー・ピザレリは
The minute you start hitting six strings at one time,
the band stops. -Bucky Pizzarelli
あんたが6弦全部を一気に掻き鳴らした途端バンドはストップしち
ベッキー・ピザレリ
どういうことかと言うと
リズム・ギターは、リズムを刻むと同時に和音を出します
和音によって曲の表情を創っていく訳です
ギターは6本の弦があります
つまり同時に6種類の音を出すことが可能なのです
たとえば基本的なGのコードは
Gの音がオクターブ違いで3つ、Bの音は2つ弾くことになります
これは、ソロでのパーフォーマンスでは
ギターという楽器の特性を活かした演奏となります
しかしバンドの中、つまり他の楽器とのアンサンブルを考えた場合
邪魔をする場合がある、ということです
ソロをとっているプレイヤーにとって不必要な和音を省略すること
ソロプレイを際立たせるということのようです
違う楽器との共演、それぞれが目一杯に音を出したら?
考えれば解ることなのですがついついやってしまっている訳であり
会社をオーケストラに例えると、私などはリズムセクションです
最前線で営業している社員はソロ・プレイヤー
彼らの進むべき方向を示しつつ、体を揺さぶる様なウキウキ出来る
それも決して邪魔することのない
厳選された最小の音で
※参考図書:“Rhythm Guitar the Ranger Doug Way”(英語版)
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ということでした
改めて読むと
人間20年ぐらいでは成長しないことがよくわかりました
そして
20年前のフィルムで撮ってみると、スカイツリーが色褪せて写っていました
皆様におかれましても
心の栄養補給は怠らない様ご自愛下さい
ではまた