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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

読みなおし日本文学史

2022-08-16 20:01:12 | 読んだ本

高橋睦郎 1998年 岩波新書
持ってたことも読んだことすらも忘れたまま、しまってあったのをことし三月に再発見した新書のひとつ。
なんで読もうと思ったんだろう、たぶん私の好きな本『短歌パラダイス』(1997年)の歌合せで判者をやっていたのが著者なので、そのへんからの興味ぢゃないかとは思う。
副題に「歌の漂泊」とあって、
>(略)わが国の文学史は、歌、連歌、俳諧を中心に、歌の運命の歴史、さらにはっきりいえば歌の漂泊の歴史、さすらいの歴史と捉えることができる。もちろん、歌に従って歌びとも漂泊した。その漂泊は歌を表に立てての読人知らずとしての、無名者としての漂泊だった。(p.7)
って「はじめに」で宣言してるように、著者はそういう観点から古代からの日本文学史をとらえなおそうとしてる。
読み人知らずってのは、短歌集の撰者が一巻の完成度を高めるために、自分でつくった歌をしかるべきところに配置した奥の手って説は、私は近年になって丸谷才一さんの『新々百人一首』で読んだことだったが、それより前にこの本にも書いてあった。
>(略)勅撰集の歌には、読人しらずという例外を除き、すべてに作者名かそれに当たる官名、通り名がある。しかし、それは表面上、中国の詩文選の体裁に準ったものにすぎず、作者より作品、さらには集ぜんたいの諧調の方がはるかに大切にされている、と私は考えている、その現われのひとつがほかならぬ読人しらずで(略)、集ぜんたいの諧調を整えるために選者が代作し、読人しらずとして入れたものがかなりある、と想像される。(略)要するに歌びとより歌なのだ。
>なぜ、歌びとより歌か。私の考えをいえば、歌がほんらい神聖なものと考えられてきたからだ。おそらくその発生において歌は神から人間への託宣だった。(略)歌びとはあくまでも神の代行者で、神の存在は歌の中にあると考えられたから、歌びとより歌の方が大切にされた。(p.6)
ということだそうで、それは物語なんかも同じで、作者よりも作品が重要、っつーことで何々の作者は誰々なんていう文学史はつまんないからやめようぜってことにつながってくる。
作者なんて重要ぢゃないって説は、ずーっと時代が下がったところで、
>ついでにいえば、西鶴の真作は『好色一代男』のみという説がある。しかし、作者はほんらい無名の代作者であり、作者名は商業上の問題にすぎないという立場に立てば、この説はとりたてての意味を持たなくなる。(p.158)
なんて調子ですごいことさらっと言うことにもつながったりする。
ふつうの国文学史では、勅撰集は「古今和歌集」から始まることになってるけど、著者は、天武天皇がつくれといった「古事記」が変則的ではあるが最初の詩華集といえるし、持統上皇が最初つくれといった「万葉集」だって同じだという説をとる。
勅撰集の意図するところは何か。国語による詩歌つまり、うたによって、王権、具体的にいえば天皇家の国家支配を正当化し、賛美することだ。なぜうたによってそのことが可能か、あるいは可能と考えられたかといえば、わが国において古来うたが神聖なものとされてきたからだ。(p.37)
とか、
>「持統万葉」には額田王や柿本人麻呂が登場するが、彼らの歌を彼ら個人の歌と考えるのは早とちりというものだろう。代作者は自分の名を露わにしている時も、王権のために作っているまた天皇や皇子・皇女の歌とされるものも、事実は大部分が彼らの代作である可能性が高い、と考えるべきだろう。(p.44)
とかって、古代における歌のパワーの認識を説いてくれるところはとても興味深い。
ほかにも「古今和歌集」では和語を自由に細やかさをもってつかえる平仮名の採用について、
>『古今和歌集』仮名序は、外来の漢字をもとにこの国で発明された平仮名を採用することで、歌が新しい時代に入ったことの誇りかな宣言、とも読める。(p.75)
といって、神の歌ばかりぢゃなくて人間の歌が多くなったと説くのもおもしろい。
「新古今和歌集」には、武士出身の西行法師の歌が多く採用されているが、それが歌集の並びのなかで深い意味を持つとして、下命者後鳥羽上皇にすれば、
>それはそのまま文をもって武を押さえようとした上皇への部門の服従の象徴ともとれるだろう。この武門の服従の姿勢が読人しらずに渡されることで、民衆一般に拡がる。(p.99)
みたいな意図があったんぢゃないという深読みを披露してくれるのが刺激的である。
さらには、「源氏物語」でも物語の核になるのは歌であって、登場人物がよむ歌を作るのに作者もいちばん苦労したのではないかとして、
>その中には四季あり、恋あり、離別あり、哀傷あり、羇旅あり、物名の遊びもある。作者は撰者・編集者としてその箇所その箇所にふさわしい歌を置く。『紫式部日記』にいうごとく作者が一条天皇から「日本紀の局」と呼ばれたことを思えば、『源氏物語』は一条天皇=中宮彰子下命・紫式部単独撰の勅撰集「光源和歌集」とでも呼び換えてもいいのではあるまいか。(p.126)
などという大胆な提唱もしている。
第一章 神の歌と人間の詩 詩華集としての『古事記』
第二章 挫折した勅撰集 『万葉集』の成長
第三章 仮名文学始まる 『古今和歌集』の意味
第四章 漂流する宮廷 勅撰集の時代
第五章 みやびおの流れ 『伊勢物語』から『好色一代男』へ
第六章 ますらおの系譜 戦記物・隠者文学・町人物
第七章 神前から人前へ 祝詞・能・歌舞伎
第八章 漂泊の果て 連歌、そして俳諧


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