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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

なにがどうということでもなく、1年前のことをおもう

2012-03-11 21:06:02 | Weblog
あれから1年がたった。
世間の人にもいろいろな思いがあるだろうけど、私もごたぶんにもれず、ちょっとこういう機に書いちゃってみたいことはある。
私はへそまがりというか、周りに言わせるとちょっと普通ぢゃないらしいので、ヘンなことを言ってる可能性はある。
ひとを不快にさせることを書くかもしんないんで、不快になりたくないひとは読まないで。

最初に言っとくけど、あの地震から1年だけど、1年たったから、だからなに?って思う。
(私自身が、3月11日という日付を機に、現にいま雑文を書いてるくせに言うのも何なんだけど。)
1年たって同じ月日になったからって、騒ぐ(←すいませんねえ、こういう単語つかって)意味は、なんかあんの?
なにかが解決すんの? しないよね。
「忘れない」とか言うひといるかもしんないけど、それは忘れちゃうひとの言いぐさ。
被災者は忘れない。死んだひとは、忘れるもなにもない。
もちろん、日本人の多くのひとが(たぶん無意識に)もってる、時間に対する感覚が大きく作用してるんだろうってのは、分かるけどね。
つまり、時間軸は過去から未来へ一直線に進んでるんぢゃなくて、円環構造みたいになっててグルッと一回りすると元の場所に戻るみたいな。だから、同じ月日がめぐってくると、またそのときのその場所に立ち戻った気がするみたいな。
でも基本的に意味ないと思うよ。
なんか区切りを迎えたような気がすることで、自分が(安寧であることが?)確認できてホッとするだけなんでしょ。
(こうやって、周年を大事にすることに理解のない私みたいなやつが、モテないことは言うまでもない。)

もっとも大事なこととして(きょう一番言いたいという意味だあね)、私は「東日本大震災」って言葉が好きぢゃない。
あれは、呼ぶべき言葉を探すなら、東北の地震、である。
(これは、私のオリジナルぢゃなくて、私の好きなライター・堀井憲一郎氏の(著書「いつだって大変な時代」)の影響であることは、隠さず言っときますけど。)
(ちなみに、地震の正式名称(だよな?)は「東北地方太平洋沖地震」。それ、合ってます。)
東日本大震災って言い方は、津波とかにはみまわれなかったけど、私たちもとにかく大変でしたぁって言いたいひと(だいたい東京周辺)が、自分たちも被災者だって主張したいがために作りだしたんだと思う。
あの日、帰宅できなくてタイヘンでした、とか。
ふざけんなよ、その程度で。
停電がタイヘンでした、とか。原発から何か飛んでくんぢゃないかと心配でした、とか。
バカ言ってんぢゃねーよ。おまえら安全だったんだよ。

私がこんなこと今さら言うのは、そのテのことに疑問もたないマスメディアとかがあるからだったりする。
こないだ(たしか1月17日だった。兵庫県南部地震の日であって、「防災とボランティアの日」だそうだから。)も、某ラジオ局が、朝から、「地震に備えましょう。日頃からシミュレーションをしましょう。」とか言ってて、それ言うのはいいんだけど、なに言うかと思えば、「帰宅できなくなったらどうするか。ケータイが長時間つながらなかったらどうするか。」なんてことを真顔で(ラジオだから顔は見てないけどさ)言ってた。
おい、って思った。
わずか1年も経たない前に、同じ国内で、津波から逃げるために、一刻を争って、高い所に避難しよう、って走った人たちがいるのに、言うことかね。
そのときの一分一秒が生死を分けた、そんな経験をしたひとたちがいる国のなかで、公共の電波でよく言えるね、と思った。
地震の被害って、そーゆーもんぢゃねーだろ。命のあるなしは抜きかよ。
(でも、ちなみに、同局の夕方の番組では、“防災袋”に何を入れるかって企画やってて、退屈しないためにマンガ週刊誌も入れるとか言ってた。そーゆーのは、私はキライぢゃない。マジメなふりしてピントはずれなこと言うより、どんな困難があっても、やがて笑えるようになる、そんな姿勢のほうが実はタフでいいと思う。実際いるかどうか知らないけど、マンガもって避難するような人間がいるうちは、日本は滅びないと思うよ。)

あと、どーしても去年の途中ぐらいから気になっちゃってしょーがないのが、絆って言葉をやたら聞くこと。
気持ち悪い。
(天皇陛下の本日のお言葉のなかにもあったようだから、一方的に批判しづらくなっちゃったけど。)
なんなんだろー、それ。
(まあ、基本的に絆って語感に、「切っても切れない」って感じの、ネガティブな印象を私がもってることもあるんだろうけど。)
所詮、地震の被害をとおく免れて生き残ったひとたちの、私たちは死なないで済んだから仲良く生きていきましょう、みたいな自己満足にしか聞こえないんだよね。
ホントの被災者がどう思うかはともかくとしてもだ、死んだひとには、きずなもなにも、ない。
少なくとも、あのころ、身は安全だし、家がつぶれたりもしてねーのに、食料とかガソリンとか買占めにはしった連中に、絆がどうのこーのとか、言ってほしくないねー。
あと、このテの言葉にのっかって、音楽が大事だとか勇気を与えるとか言ってるひとがいたら、地震直後の、身一つで逃げ出して、電気もメディアへのアクセス方法も何もない、暗い寒い避難場所のことを、ちょっとでも想像してみてください。何かできましたか?
(一方で、津波とかに関わる表現(たとえば映画とかね)を自粛して、それでいいやと思ってるひと、ホントにそれでOK? 気を配ったふりして、自己満足してない?(だいたい視聴者の感情に配慮とか何とか言うけど、選択して視聴できるものについては、見る側が避ければいいんであって、自粛とかいうのは、ちょっと思い上がりを感じる、私は。))

みんな自分が好きで、とくに自然災害とかがあったにもかかわらず、それを乗り越えようとしてる姿勢の自分が好きなんだろうけど。
ねえ、ちょっと待ってよお。もっとよく考えてみない?って、私は思う。
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2 コメント

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Unknown ()
2012-03-12 19:06:17
ちょっと書きたくなったよ。

だいたいねぇ、メディアで被災地に対して話してる人達のほとんどは「上から目線」だよね。

勇気を与える…とか、元気を与える…とか。

きれいごとに時々ウンザリするわ。
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自分に向けてなんでしょうな (kanagawa_kun)
2012-03-13 08:02:40
☆さん、コメントありがとうございます。
勇気を与える、とか確かに大それた態度にみえます、そんなことできない私なんかには。
うーん、やっぱそういうのって、自分は無事だった良かったって前提に立って、自分こそが元気になりたいんでしょーな、という気がします。
悲惨な映像みちゃって心荒んぢゃったから、なんかキレイっぽい歌でも聞いて、癒されたいな、とか。
まあ、人間ってそーゆーもんですけど。
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