インディーズソフビムーブメントもいつから始まったというのを定義するのは
個々の目線で異なると思うが、要は作り手として熱くなった時期、買い手として
ムーブメントに注目したときがそのはじまりとしたなら、
ブログの筆者である自分にとっては、インディーズと呼べるオリジナル系の
ソフビが登場して専用の消費者とウォッチャーを創出する
マーケットのようなものを形成してから、
すでに10年が経過するくらいの地点にあると思う。
ここにきて、個人製作としてのクリエイティビィティで見ると
かなり風変わりかつ異端な、作り手が平坦でどこまでも続く日常に
穴を開けるべく弓を引くようなインパクトを持ったソフビが
人知れず誕生している。
ソフビ界もメーカー数のクラスターが分岐して、すでに個々の趣味人の中で
括られた「シーン」が存在して進行しているので、全体に通定した
進行状況の把握やなにが売れ線かなどといった分析はもはや誰でもできないし
無意味だ。
ソフビを手にした個人個人の価値が優先される評価基軸が本来インディーズ
ムーブメントというコアな分野を支えてきているパトスの源泉なのだから。
そして、いつしか
「自分が作りたいソフビ」が
「自分がインディーズソフビ界で承認されたいソフビを作る」という
先達の成功したプロダクツの造形や販売スタイルの定形の鋳型に
自分を押し込めるようなインディーズという言葉に似つかわしくない状況さえも
時に出てきている。
その中にあって、自分にしか出てこない発想、他の誰にも作り得ないデザインや造形で
「自分はこれをやりたい」というオリジナリティを明確に横溢させた
ソフビを生み出すというのは
作り手にとっては手がける強度も高い、モノの周囲に纏う燃焼温度も高い、
真にエキサイティングな状況を生み出す結果になるといえるだろう。
今回のように「ポディマ」のようないかにも異端の強烈なプロダクツが出てきて
好事家の元で人知れず愛好されるアングラな雰囲気と濃密さを共犯的に持続させながら
シーンのテンションを維持している状況こそが、インディーズソフビ界が
本来あるべきカタチである、といえそうだ。
インディーズソフビは本来資本的な目線とは異質な、送り手と受け手の側の
個人同士によるパーソナルな「作りたい」「欲しい」という濃度が
存在してはじめて成立する商品文化であると思うからだ。
そしてこれだけ情報化の時代が進行してモノの情報がネット上に溢れていて
なんでも検索すれば情報が出てくる状況にあっても、多くのヒトが目撃していない
得体の知れないソフビというのがこの世にはいくつかある。
その存在はあたかも妖怪や未確認生物の目撃情報や、都市伝説のようだ。
2012年末に密かに都内で1期カラーが販売された、この「資本社会ポディマ」もその一体。
「資本社会ポディマ」は上の状態が通常の置き位置にあたるようだ。
手にとったヒトの目線で自由にポージングして、あなたの想像する「資本社会」を
ポディマで表現してほしい、と付属のライナーノーツにしたためられている。
そう、ポディマはこのセカイの「資本社会」を作者がイメージした
ソフビなのだ。
作者によると「文明社会を妖怪や怪物に例える作風で、このポディマは
2つの顔が成功者と敗北者とを生み出すことで成立する資本社会のルールがもたらす
ヒエラルキーを創出しないと成立しない経済システムの矛盾と
資本経済が常に強者と弱者を生み出す残酷な様相をカタチにしたソフビ」という。
「ポディマは陰と陽の表情を持っている。
勝者と敗者の関係が表されている。
現代の資本社会の成り立ち。
弱者の痛みを知り、勝者に導くだろう」
(付属のライナーノーツより)。
「変形するポディマ
ポディマは様々な形状にて、何通りもの立ち位置があります。
好みの位置を見つけ出し資本社会の位置づけ同様、紐解いてもらいたい」
(同)。
このライナーノーツの説明から推察するに、ポディマの2つの顔が
資本社会の闘争の歴史の中から躍り出た成功者が資本主義の法則に則り
敗者を生み出すプロセスを1体のソフビの中で表現している、ということのようだ。
怪物は文明社会が、人間のココロの中の闇が生み出す。
ポディマの作者に間接的にだが聞いたところ、
「都市伝説的な目線で現代に妖怪が存在したら、ということでデザインと造形を
模索してきたが、形のとらえどころのない、その姿を見るヒトによって変える
存在としてソフビにしてみたいと考えた」のがコンセプトの最初期にあった。
いわゆる人間型の怪物ではなく、形も自由に変えられて手にした者のイメージに
合わせてかん着を動かしてこのポディマのカタチの中にイメージを見出してほしい」、
というのだ。
聞くところによると昨年末に都内のある店舗で販売したさい、特に事前告知等も
しなかったのだが、最初のこのラット・フィンクのようなカラーのポディマは
クチコミとたまたま来店したお客の範囲で完売したのだという。
特にアート系の目線のヒトがこの不思議なカタマリである
妖怪とも怪物ともつかないソフビに関心を示してくれたという。
作者については自分もポディマをデザインするまでの経緯をさらっとしか
聞いてないが、80年代以降の都市伝説ホラーやゲーム的な目線で描かれた妖怪の
ルックスにインスパイアされた気配がうかがえる。
妖怪への目線が、古寺や墓場ではなく、地面が土でなくコンクリートに覆われ、
夜でも街に灯がともる都市空間に舞台が移った頃の妖怪ーー
「ゲゲゲの鬼太郎」で例えるなら、85年オンエアの
3期頃に慣れ親しんだ視聴者世代のイメージした妖怪なのではないかと思う。
ソフビを作った作者の世代が作ったキャラクターの中に刻みつけられるもので、
妖怪が昭和から平成にリニューアルされ都市空間に跋扈するようになった頃の世代の
生み出した新しい潮流を繋ぐプロダクツではないか、と興味深いものを感じた。
ポディマの足の根元というか腹に当たる顔は笑い顔のろくろ首のような
長い頭部が漆黒の虚空を漂うのを2本の足で支えている。
腹の顔が笑い顔を支えていることでポディマの通常の体勢=体制は保たれる。
その均衡が崩れたとき、ポディマはまた別の容貌を見せることになる。
1体の怪物の中にある満ち足りた表情の怪物の顔、虐げられた怪物の顔が
拮抗して成立するその姿にあなたは何を見出すのだろうか。
ポディマの佇む姿に自分が見出したのは「バランスをいつ崩すかもしれない
資本社会のあやうさ、はかなさ」だ。そして一度、今ある日常が崩れた時に
ヒトビトは自分の崩れた日常に異界の裂け目を、自分にしか見えない妖怪の姿を
見出すことになるのかもしれない。
あたかも存在自体が都市伝説のような謎のソフビ「資本主義ポディマ」。
思うに、我々が日頃日常で刮目しつつ多数のメーカーの活動動向を見守っている
インディーズソフビムーブメントというステージの存在を思い起こしてみるといい。
そこにはイリーガル&アンダーグラウンドマニアックな場所。
隠花植物が生息する淫靡なセカイのような一般社会と隔絶された場所で
ステージが進行する中、送り手と受け手が売買を行っている。
ソフビのセカイはあたかも資本主義のシミュレーション。作ることを欲するものと
手にすることを欲するものの間に発生する欲望が往来することで成立する
カリカチュアライズされた資本社会そのものではないか。
そんな場所でこそポディマは実体化を果たしたと言えるだろう。
アンダーグラウンドな世界観に蠢く人間の欲望の潮流の中に
ポディマは存在し、異形の姿でその姿を見た者、
手にした者にヒトのあはれを鏡のように映し出す。ポディマの浮かれたような上の顔は
実は生きることの悲しみをも背負っており、
苦悶に満ちた表情で佇み自らの全体の均衡を生ける門柱のように支え、
保っている下の顔は生を繋ぐ強い欲望の意思を表している。
ポディマは誰の心にもある成功や収奪からくる慢心や虚栄、欺瞞と
伴う自らの苦しみとを一人の人間の中でギリギリのバランスによって
拮抗し、コントロールすることでヒトたらしめしている姿そのものをソフビに
したのかもしれない。
怪物は人間の存在を映す虚構の鏡。「資本社会ポディマ」という怪物。
ポディマは我々の生の律動を支えている欲望の構造そのものをカタチにした
怪物なのだろう。その姿に不安を覚えるとしたなら
あなたのココロの中にもいるポディマの姿に目にしたということなのだろう。
昨日、そして明日、ヒトビトは何処にいくのか、そして我々は一体何者なのか。
震撼すべきは怪物にではない。人間の持つ自分自身さえも時に捉えようもなくなる
ココロの闇にだ。それは公害怪獣のように、ヒトがこの世に存在する限り
この世からは消えることはない存在だ。作者は妄想の末にこのポディマを
ソフビとして具現化させた。
ポディマは人間の震撼すべき人間のココロという怪物を
カタチにしたソフビなのだ。誰のココロの中にもこのポディマは佇んでいる。
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