KADOMIUMTANK ソフビブログ

ヘミングウェイの詩にこんなのがある。
「人生は素晴らしい 戦う価値がある」
後の方は賛成だ byモーガン・フリーマン

棄郷

2010年08月12日 | ジャンク


このとんでもない暑さがまだまだ続くんでしょうか?

…などと書き出そうと思っていたら
台風の影響か急に天気がぐずついて涼し気味になってきましたね(関東圏視点)。
といってもあいかわらず基本、ねばっこい陽気ではあります。

ここんとこ仕事でも使ってるDVDレコーダーのリモコンが急に動かなくなり、
レコのHDはというとデータ満タン。いつもの録画設定通りに動いたらあっという間に
データパンクやないかと思いつつ
仕事場近くの家電チェーンに新規のリモコン発注しようとしてたら、なんとなく直ってたり。

このほかにも仕事場の電話が鳴らず→社のおねいさんがコードのよじれを解いてったら直った、
クーラーから水が漏る→何日か前の日記で前述ですが自力で直した、
パソコンがガラガラ言い出した→クーラーの修理に伴い鳴らなくなった、と
なんだかマシン系の夏のトラブルでヒヤヒヤしながら生活してましたが
暑いときって必ず何かしら壊れたり予期せぬトラブルが起きますよね。
これがまた盆休みに入ってサポセンも営業がとまってる頃におきるから怖い。
やはり人間のみならず機械にもお盆休みが必要なんですね。



自分は打ち棄てられたような光景、モノが元の所有者を離れかけているような
状態にある風景、または提案した人が目指している本来の使用目的からブレたような
状態になっている場所を見るのが好きです。
どんなものかというと、VOWとか超芸術トマソンとかいうものとも
ちょっと違うんですよね。

このお店はオープン当初、右の「地獄ラーメン」というカンバンを掲げて
街道を走る車にものすごい味であることをアジっていたのですが、
店内を遠目で見るといつもお客がいませんでした。
どうもお客がビビって近寄らなかった
みたいです。しばらくしてこの地獄ラーメンのカンバンは撤去されて
普通のラーメンやになったのですが、その後は出入りしているお客を見かけます。
常連も付きそこそこ繁盛しているみたいです。

きっと店主が開店当初、自分のやりたかったこと?
はこの撤去された、にじり寄るようなカンバンにあたかもこもっていたような気がします。
ハードな展開で注目を集めようとしたらお客が引いてしまい
路線変更したテレビ番組、みたいなものでしょうか。

「地獄ラーメン」のカンバンがまた出たら今度は食べにいってみたいと思ってます。




上写真の廃屋のアパートは残念ながら自分が撮ったものではありません。
6年くらい前だったと思いますが
ネットの写真掲示板で「ショッカーのアジト」と説明が書かれて
掲示されていたものです。このままネットの海の果てに
流れて消えていくのには惜しいのでこのブログにサルベージしときます。
崩れっぷりがあたかも地形が隆起したかのようで
これは廃墟として天然の美しさに満ちみちています。



下の鉄くず工場は昔、よく泊めてもらってたヒトの家の近所にあった場所です。
いつ行っても冷蔵庫とか車がぺしゃんこにつぶされたりしてます。

モノの一生がここで終わるというデッドテック&ノーフューチャーな場所としての
空気が横溢してて、ものすごく空疎でさびしい
気持ちに襲われるのがたまらなくきもちイイので
宿のヒトと夕方になるとふらふらと蹉跌が磁石にひきよせられるように
遊びに行ってぼーっとモノが解体されるのを眺めてました。
夜になると廃物を掃討するマシーンのコロシアムがところどころチープな電飾で
ドレスアップされ、あたかも「地獄の黙示録」のドランの橋や
「マッドマックス2」の製油所みたいなディストピア感がたまらんでした。

しかしこの場所があまりにも気に入ってしまい、このままでは
自分たちもジャンクになりそうな気がした瞬間があり
ある時期から近づかなくなりました。

どうやら工場自体もやがて廃棄されてしまったのかもしれません。その後
足を踏み入れていない場所です。われわれのそのときの気分で見えていた場所なのかも。



これも資料写真を撮ったものですが、昭和の頃の東京のゴミ工場です。
変な意味ではなく、この威容はワイルドでしびれます。
日本が高度経済成長期のさなかで熱にうなされたかのように
モノを作っては廃棄する、まさに怪獣そのものだった時代の風景ですね。
逆柱いみり先生の描く異郷を描いた漫画の風景を思わせますが
こういう風景は昭和の日本にはそこいらに実在したのです。
気が付くと便利になったり清潔にはなりそれはいいことなのですが、
日本は全国が平坦化、均一化し、洗練と引き換えに
好き者がぶらぶら見て廻るほどに面白くない、まったく別な異国になりつつある。

すでに異形の風景はそれを知る者のココロの中にしか存在しないのかもしれない。









たまたま通りかかった町でお祭りがあり撮った写真。
得体の知れない業者が適当にテレビに映っているマンガや怪獣番組の
キャラクターを模倣してパチおもちゃを作り、屋台で適当な当てくじの景品にしたり
適当なセールストークに載せて売りさばく場所。
夜店の翌日になると所有者の子供にもすっかりそんなモノを
買ったことも忘れられ、おもちゃ箱にポイッと投げ込まれて
忘却されかねない、そんなパチおもちゃたちの生存のゲーム。
発電機がうなりを上げ、裸電球がちらつく下で繰り広げられる、
パチおもちゃたちのあたかもはかなげな桧舞台。



近郊の街道沿いを仕事が終わってから夕陽が沈む時間にとぼとぼ歩いていると
時々そんな場所に出会う。
普通のヒトならそんなことは思わないのでしょうが
自分は妙に逢魔ヶ刻独特の空気にわくわくしてきます。
やがて街道沿いに見えてくる灯、ホコリをかぶったようなプラモ店、
誰も借りなくなったVHSがワゴンで詰まれた
レンタル流れの中古ビデオソフト店、オーナーがほとんど顔を出さない
所有権が半ば放棄されかけた委託のリサイクルショップ…。

最近のおもちゃ屋はシーズンで最新のTV番組のおもちゃが供給されると同時に
過去のおもちゃはバーゲンでさっさと存在の痕跡を消されるかのように店頭から
撤去されてしまうのでこういう所有権がタイトロープな感じの風景は
なかなか現出しません。

昭和のおもちゃ屋は一般の支持を得られなかった変なおもちゃが
あたかも誰にも身受けされることのない恥辱にまみれているかのように売り場に放逐され
店主にも販売の意思を放棄されているような状態に出くわすことができました。
できました、ってそんなのは付加価値ではないが、その物悲しさの加わった
生存の刹那感もおもちゃのもつ負のミリキであるような気がします。
その負のミリキをもったおもちゃが後年、マニアと称される人々の心を
時に、大いにものぐるほしくさせる。
古モノのおもちゃに得もいえぬミリキを得られる方はまさに
その放棄されかけたおもちゃの息吹に感応できる人なのでしょう。

昭和のおもちゃ屋は、モノの消えかけている刹那を読み取れる場所だった。、
廃棄されかけて最後の息吹を上げているモノとヒトが
一瞬つながり言霊が得られる、そこは不思議な感応力が働く
空間だったのかもしれません。



企業キャラクター?の手の曲がり方がものすごく怖い銀行のカンバン。
台風が迫っていて竜巻も発生しバスの停留所の小屋がめりめり飛んでいったりして
脱出できない状態で、不安な気持ちでとぼとぼ漁村の町を歩いているときに撮りました。

自分にとってはこういった打ち棄てられた光景こそが
いうなれば子供のときにもっていたソフビと同じーー
かつて失った、いうなれば魂のふるさと、
「棄郷」とでも呼ぶべき心の風景なのです。