怒りのメゾフォルテ

娘を奪われました。二度と帰ってきません。奪った人たちの対応に怒りが募ります。

10月10日  娘のために泣いてくれる人達 2

2012-10-10 09:42:04 | 私のつぶやき
 「先生達も被害者じゃないですか。

娘はいつも笑顔でした。

涙ではなく笑顔で会ってやって下さい。」
 



2010年6月19日夜、 司法解剖を終えた娘の遺体引き取りを、
マスコミの集中する管轄の細江署から浜松中央署に替えた警察の指示を受け、

そして豊橋の自宅には、地区の方々の綿密に計画されたマスコミ包囲網の中、ようやく娘を、自宅に連れて帰ることができた私達。


2時間半も転覆した暗いボートの中で行方不明にされた娘 に、

20日の夕方
、初めて会いに来た引率の教師達。

事故の状況がわからない母親の私は、

涙一杯で泣く大人達にそう言うしかなかった。(家庭訪問で会った担任の教師の顔しか知らなかった。)


そして2011年4月には、
次々と異動願いを出し、生徒を残し中学を去っていった教師達 



この2012年3月にも、事故当時章南中学のニュースを知り、続々と集まる保護者に対し、
学校から安易に「全員無事」を宣言した教頭が、他の小学校へ異動の挨拶に来た。

「異動後も毎月命日にお参りに来たい。」と、いつもの仰々しい涙を遺族に見せた教頭

その教頭が弔問に来ることは、4月の月命日一回きりであった。



*****
2012年9月の海難審判。

4人の証人(ボート乗船の教師は2人)を前に、
丸一日雄弁に弁論を続けた早川弁護士の最後の結びの弁論で、涙に詰まった長い沈黙 

もう私には、すぐに理解することができなかった。



2010年6月の事故後、我が家に弔問と言って取材に押し掛ける多くのマスコミから、
一歩遅れて弔問に現れた当時の朝日新聞豊橋支局記者の山田記者。

娘の遺影の前で泣き続けるだけで、本業の取材もせず、帰って行った若い彼



この二人のプロの、決して娘への憐みではない、
怒りを伴う純粋な涙
は、砕け散った私の心に、きれいに染み渡っていった。


山田記者のほぼ半面を占めた記事→