今日のローズンゲン 1月15日(日):
災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでにこの地を独り占めにしている。(イザヤ5:8)
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(マルコ8:6)
私の黙想:
人間の欲望には限界がない。とことん自分のものにしなければ止まらない。(政治)権力の根本問題はそこにある。土地、金、人間等あらゆるものを独占しようとして戦う。最終的には「禁断の実」にも手を出す。そして最後に全てを失う。なんと愚かなことか。
今日のローズンゲン 1月16日(月):
あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。(申命記11:16)
唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。(1コリント8:6)
私の黙想:
私たちが帰っていく所、最後の拠点はここにしかないという気付き、それが信仰である。このことに気付くまで、人間は迷いに迷う。十字架を前にして逃げた弟子たちは、このことに気付き「主よ、わたしたちは誰のところに行きましょうか」(ヨハネ6:67)と言う。
今日のローズンゲン 1月17日(火):
主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。(歴代誌上29:11)
わたしたちは、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。(エフェ4:15)
私の黙想:
今日はあれかれ17年目の1.17である。それでもなお、「(あなたは)すべてのものの上に頭として高く立っておられる」と言えるのか。いや、だからこそ、私たちはそう言わざるを得ない。あなたは私たちに何を語ろうとしておられるのか。「神は偉大」。
今日のローズンゲン 1月18日(水):
まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。(イザヤ33:22)
その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」(マルコ9:24)
私の黙想:
あらゆる「法」、つまり秩序というものの源泉は神にある。この単純な事実を人間は忘れている。法を人間が作りだしたものだと錯覚している。そこに民主主義の限界がある。平和、平等、自由も「神の元にあって」ホンモノになる。
今日のローズンゲン 1月19日(木):
恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。(詩106:1)
何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)
私の黙想:
こういう信仰的な(押しつけがましい)聖句は苦手だ。考える隙がない。「遊び」のないハンドルのようなものだ。神との関係でも「隙間」があってスムーズになる。神から「どこにいるのか」(創世記2:9)と呼びかけられる関係がいい。追放されるのは嫌だが。人間って身勝手な存在だ。
今日のローズンゲン 1月20日(金):
アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。(創世記13:8)
キリストの言葉:もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。(マタイ6:14)
私の黙想:
アブラハムは「親類どうしだ」と言う。その親類どうしの付き合いが最も難しい。親しくて当然という関係だ。最も近い親類、つまり兄弟関係、カインとアベルの関係、彼らは喧嘩していたのか。イシマエルとイサク、彼らが仲良くしていることに母サラはいらだつ。エサウとヤコブの関係?完全に対等になれない関係。答えのない難問だ。他人が兄弟になるということと兄弟が他人になるということ。
今日のローズンゲン 1月21日(土):
わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。(申命記3:24)
イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。(1ペトロ1:13)
私の黙想:
働きにおいて神は神である。神が不動であれば私たちは神の手の中にあるということさえ知ることが出来ない。神における「動き」は「働き」である。畏れ多いことに神の働きは私に向けられた神の意志的な行動。今日の天候も、人との出会いも、全て神の意志の現れである。
災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでにこの地を独り占めにしている。(イザヤ5:8)
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(マルコ8:6)
私の黙想:
人間の欲望には限界がない。とことん自分のものにしなければ止まらない。(政治)権力の根本問題はそこにある。土地、金、人間等あらゆるものを独占しようとして戦う。最終的には「禁断の実」にも手を出す。そして最後に全てを失う。なんと愚かなことか。
今日のローズンゲン 1月16日(月):
あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。(申命記11:16)
唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。(1コリント8:6)
私の黙想:
私たちが帰っていく所、最後の拠点はここにしかないという気付き、それが信仰である。このことに気付くまで、人間は迷いに迷う。十字架を前にして逃げた弟子たちは、このことに気付き「主よ、わたしたちは誰のところに行きましょうか」(ヨハネ6:67)と言う。
今日のローズンゲン 1月17日(火):
主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。(歴代誌上29:11)
わたしたちは、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。(エフェ4:15)
私の黙想:
今日はあれかれ17年目の1.17である。それでもなお、「(あなたは)すべてのものの上に頭として高く立っておられる」と言えるのか。いや、だからこそ、私たちはそう言わざるを得ない。あなたは私たちに何を語ろうとしておられるのか。「神は偉大」。
今日のローズンゲン 1月18日(水):
まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。(イザヤ33:22)
その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」(マルコ9:24)
私の黙想:
あらゆる「法」、つまり秩序というものの源泉は神にある。この単純な事実を人間は忘れている。法を人間が作りだしたものだと錯覚している。そこに民主主義の限界がある。平和、平等、自由も「神の元にあって」ホンモノになる。
今日のローズンゲン 1月19日(木):
恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。(詩106:1)
何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)
私の黙想:
こういう信仰的な(押しつけがましい)聖句は苦手だ。考える隙がない。「遊び」のないハンドルのようなものだ。神との関係でも「隙間」があってスムーズになる。神から「どこにいるのか」(創世記2:9)と呼びかけられる関係がいい。追放されるのは嫌だが。人間って身勝手な存在だ。
今日のローズンゲン 1月20日(金):
アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。(創世記13:8)
キリストの言葉:もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。(マタイ6:14)
私の黙想:
アブラハムは「親類どうしだ」と言う。その親類どうしの付き合いが最も難しい。親しくて当然という関係だ。最も近い親類、つまり兄弟関係、カインとアベルの関係、彼らは喧嘩していたのか。イシマエルとイサク、彼らが仲良くしていることに母サラはいらだつ。エサウとヤコブの関係?完全に対等になれない関係。答えのない難問だ。他人が兄弟になるということと兄弟が他人になるということ。
今日のローズンゲン 1月21日(土):
わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。(申命記3:24)
イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。(1ペトロ1:13)
私の黙想:
働きにおいて神は神である。神が不動であれば私たちは神の手の中にあるということさえ知ることが出来ない。神における「動き」は「働き」である。畏れ多いことに神の働きは私に向けられた神の意志的な行動。今日の天候も、人との出会いも、全て神の意志の現れである。