ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 6/20

2010-06-28 20:01:49 | ローズンゲン
6月20日(日)
御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって、安らかな地に導いてください。(詩編143:10)
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。(フィリピ3:12)
私の黙想
「御旨を行うすべ」の「すべ」には違和感がある。文語訳も口語訳も「御旨を行うこと」と訳されている。ヘブライ語の聖書では「すべ」などという言葉はない。なぜ、こんな余分な言葉を付けるのだろうか。信仰は「すべ」ではない。
6月21日(月)
あなたは全き平安をもって、志の堅固な者を守られる。彼はあなたに信頼しているからである。(イザヤ26:3、口語訳)
わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付けたのは神です。(2コリント1:21)
私の黙想
今日の聖句がなぜ「口語訳」なのかは、新共同訳を読めばすぐにわかる。原文がややこしいので訳文がややこしくなる。文語訳が最もいい。「汝は平康(やすき)にやすきをもて心志(こころざし)かたき者をまもり給う。」ややこしい文章をややこしいまま訳すのは翻訳ではない。
「平康(やすき)にやすきをもて」。志の固い者は「やすき(平安)を既に持っている。この「平安」にさらに「神の平安」が加えられる。志の固い者には不安はない。ヨハネ16:33を参照せよ。

6月22日(火)
わたしの魂は、あなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます。(詩編119:81)
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。(ヨハネ15:7)
私の黙想
神は語っているときよりも沈黙しているときの方が長いようである。しかし、冗舌の神よりは沈黙の神の方が頼りになる。ツイッターでも冗舌な人は敬遠され、フォローリストからカットされる。

6月23日(水)
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。(イザヤ6:8)
キリストの祈り:わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。(ヨハネ17:18)
私の黙想
先日来、ずっと考え続けているテーマが「派遣」。7月4日の説教。創造されたから存在するだけではなく、「派遣」されたから存在する。キリストに倣うとは、派遣された者として生きる」。遣された者の倫理。「派遣」が原始教団のキイワード。

6月24日(木)
もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。(出エジプト33:15真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。(ヨハネ16:13)
私の黙想
今日の聖句は前後関係を読むと混乱する。ただ、モーセが神に「同行」を迫っている祈りの迫力は伝わってくる。遠い神ではなく身近な神を求めている。このあたりがギリシャの神ではなくヘブルの神。

6月25日(金)
息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。(詩編150:6)
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(フィリピ4:4)
私の黙想
今日の聖句は詩編の最後の言葉。詩編を締めくくる言葉として最高。今日は神戸で親しい友人たちと会う。

6月26日(土)
主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。(詩編95:1)
この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(ロマ16:27)
私の黙想
楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しい。同じように喜ぶから、喜びが現実となる。今日は高校時代の同窓会。おかしなもので、同窓会それ自体は何も楽しいものではない。特に親しい連中と会う訳でもない。会ったからと言って、何か嬉しいことがある訳でもない。なのに、なぜこんなにおおぜい同窓会に出席するのだろう。

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