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ぶんやさんの記録

三木清『政治の貧困』

2015-11-15 09:04:08 | 三木清関係
三木清『政治の貧困』(1939年7月9~12日、『都新聞』)

本来からいえば、 私など、政治について論じなくても好いのだし、また諭じたくもないのである。それは私の素質にも気質にも適したことであるとはいえない。その私どもに政治について論ぜざるを得ない衝動を起させるほど政治の貧困が感じられる。

時評というものも、それがどんな種類のものであろうと、実は、私はあまり書きたくないのである。私には他にもっと適した仕事がある筈だ。時評を書くことは一切やめてしまおう、と幾度考えることか。

しかるに社会の現実に触れると、これで好いのか、これで好いのか、と思わざるを得ず、またしても筆をとらねばならない気になるのである。そしてそのあらゆる場合において政治の貧困ということに突き当たる。

だから私の批評の出発点機はいつも常識なのである。私はかつて専門の評論家になろうと考えたことがない。私は単に一社会人として、一国民として、一インテリゲンチャとして、常識の立場から物を言っているつもりである。このような常識が意義を有するほど今日の日本は政治的に貧困であるのであろうか。

貧困はもちろん政治にのみ関していない。文化にしても決して貧困が感ぜられなくはないであろう。この方面においてもなほ常識の意義があるのである。私は常識に止まることが好いと考えているのでなく、できるなら常識以上のところで物が言いたいと思っている。

しかしどんな問題でも、いろいろ議論をした末、結局イロハに還って来るというのが実際の状態なのではなかろうか。

現代の特徴として政治の優位ということがいわれている。あらゆるものが政治に従属することを要求されている。政治の優位は今日の現実の中から生れた一つの現実である。この現実は好むと好まざるとにかかわらず存在するのであって、問題は、この現実を回避することなく、かえってこれを発展させることである。政治の優位が真の優位であるためには、政治に指導性がなければならない。しかるに政治の貧困というのはその指導性の欠如にほかならない。

こののようにして一方では政治の優位が現実であり、他方では政治の貧困が現実である。この現実の食い違いがすべての政治的焦燥の原因である。

政治の優位があっても政治の貧困が現実でないならば、今日のような焦燥はないであろう。また政治の貧困があっても政治の現実が優位でないならば、今日のような焦燥はないであろう。二つの現実の交錯のうちに今日の政治的焦鎌の特徴的な性格がある。

ともかく政治の優位は現代の現実である。してみれば、政治の貧困を救うことがこの現実に対する唯一の方法であり、そのことによってのみ政治の優位に伴う種々の弊害も初めて除き得るのであって、この弊害の除去は政治の優位を抽象的に否定することによってはかえって不可能であるといはねばならない。

政治の貧困をなくするためには、先づその原因を知ることが必要である。その原因を明かにするためには、今日の政治の現実を批評することが必要である。批評の仕事が縮小されることは、政治の優位を示すことであっても、政治の貧困を救うことにはならない。批評の機能は今日においても縮小されるべきではない。しかるに現在ともすれば新秩序とか創造とかという名において批評の機能が抑止される傾向が見られるのである。新秩序といい創造といっても空無から出てくるのでなく現実の中から出てくるものであるとすれば、現実に対する批評は新秩序の創造のために欠くことのできないものでなければならない。

批評といえば、ただ他から批評されることのように考、好まない者が多い。特に人の上に立っている者においてそうである。しかし批評は根本において自己批評でなければならない。自分で自分を批評してゆくのを怠らないことが何よりも大切である。官僚独善などの独善ということも自己批評が足りないところから生ずるのである。

もちろん自分で自分を批評するというだけでは不十分であって、自分の気付かないこと、自分で考え及ばないことも多い。そこで他の批評がなければならない。けれども自分で自分を批評する意志のない者は他の批評に耳を傾けることがなく、従って自己批評があらゆる有意義な批評の前提である。批評の無力ということがよく言われるのであるが、それは単に批評家の無力にのみ依るのでなく、政治家や官僚に自己批評的なところが足りないことにも依るのである。政治の賛困はそのようにして生じた批評の貧困に基くことが少なくないであろう。

今日の最も重要なことは、国民の意識を昂揚し、国民の力を完全に発揮させることである。最も恐しいのは国民のサボタージュである。それは消極的なものであるだけ恐しいのである。その気分の少しでも起ることがないようにし、反対に国民の力を積極的に働かせるためには、政治が真の指導性をもたねばならず、そのためには政治において輿論を重んずることが大拙である。

興論を尊重することは自由主義である、にもかかわらず自由主義は誤っている、故に輿論などを顧慮
する必要はない。こうういう単純な論理が今日質際に案外広く行われいるのではないであろうか。例えば、——すベての理論は抽象的である、にもかかわらず今日最も重要なのは具体的な政策である、故
に理論などは問題でない。また例へば——あらゆる理想は非現実的である、にもかかわらず今日の問題
は現実である、故にすベての理想は排斥されねばならない。等々。

このような単純な考え方が行いれてゐる限り、政治の貧困は実にどうにもならないことである。そこで常識から、興論と指導性の関係についての、理論と政策の関係についての、理想と現実の関係についてのイロハ的説明から始めねばならなくなってくる。

そしてたいていの者がそのような説明から始める元気をなくして、黙っているのほかないと考えるようになるのである。いつも方法論のイロハから説明せねばならないのでは、うんざりしてしまう。

国民の緊張が足りないということが相変らず言われている。そして国民を緊張させるのには日本が一度空襲でも受けて戦争を身近に感じさせなければ駄日だといったような意見をよく聞くのである。しかしそんなことで国民を緊張させることができると考えるのは、政治をいろいろ間違った方向ヘ導くことになる。そのやうな焦繰が実は最も恐しいのである。

国民を緊張させるには空襲は必要でない、もっと事実を知らせることが必要なのである。

事実をありままに知れば誰も戦争を身近かに感じるようになるに違いない。しかし単に事実を知らせるだけでなく、政策を具体的に知らせなければならない。政策のほんとの在り場が分らないようでは、真の協力は期待されない。

国民を緊張させるには国民に希望を与えることが大切であり、それには内政上の改革を行ってゆくことが最も必要である。束亜の新秩序といっても、~般国民には何か遠いことのように考えられるのはやむを得ないことであるから、それを身近かに感じさせるためには国内改革が行われなければならない。国内改革が着々進んでゆくことが国民に希望を与えて国民を緊張させるに最も肝要なことである。

今日の日本にとって外交が重要な問題であることはいうまでもない。それは支那事変の処理に極めて大きな関係を有している。ただしかしそのために内政の改革を忘れたり怠ったりするようなことがあってはならない。殊に事変の処理が長期建設という性質を有する以上、国民をひっぱってゆくには国内改革の実行が何よりも必要である。東亜の新秩序は先ず日本において具体化されなければならない。しかるに果して内政の改革は着々と進捗しているのであるか。

例えば、あのように久しい問題の官吏制度の改革はどうなっているのか。あるいはまた、あのように急を要する問題の物価対策はどうなっているのか。内政の改革は国民精神総動員の成功にとって前提であるといい得る重要性を有している。

国民精神総動員の運動は瑣末主義に陥っているとの非難が絶えない。もちろん我々は、小さなこと、形式的なことを決して軽んじるものでない。学生の断髪、パーマネントの粛正など、我々は敢て反対するものでない。要求されているのは、問題の根本を忘れないことである。全国民「一日戦死」の気持で生活する筈であった事変記念日に東京近郊の温泉場がかえって繁昌したというのは何故であるか。消費節約があれほど喧しく言われているにもかかわらず、デパートの売上がかえって増加しているのは何故であるか。このような事実は決して国民全般に関することでなく、むしろ主として軍需工業関係者に関することである。

精神動員を最も必要とするのは彼等であるが、しかしそれは単に精神の間題でなく、むしろ根本においては細済的関係の問題である。この根本問題の解決にまで進むのでなければ精神動員は完全であることができない。

国民の一部にはなはだしい景気偏在がある限り、国民精神総動員 の完壁を期することはできな い。それのみか、今後このような状態が発展してゆけば、それが国民思想悪化の原因とさえなる危険が存するのである。

小さなことはどうでも好いと言うのではない。瑣末なことのために重大なことを忘れないようにすること、単に現象のみを追ってその原因を除くことを忘れないようにすることが大切なのである。現象の後ばかり追っているような統制は真の統制でなく、現象の先回りをするところに政治の計画性がある。統制は組織的体系的でなければその真の意義を発揮することができない。しかるに統制を組織的計画的に行うにはその基礎として思想が必要である。種々の現象をその原困から矯正するには理論がなければならない。このようにして政治の貧困は思想の貧困から生ずるのである。

現在問題の統制ということを考えてみても、今日の思想が単なる非合理主義、直観主義、神秘主義であり得ないことは明かである。

必要なのは、組織された思想、体系化された思想である。「思想」は日本独自の日本主義であって、統制の原理は外国の全体主義の模倣に過ぎないというようなことであったはならない。

政治の貧困は、一方では神秘的な高所の思想を振りまわし、他方ではしかし瑣末なことをのみ喧しく言い、いはばその中間に位置する思想が存在しないことから生じている。現実を処理し得る思想の在り場所がはっきり認識されねばならない。現実的な思想は神秘的な高所にあるのでもなく、瑣末な事実のうちにあるのでもなく、いはばその中間にあるのであって、このような思想が今日なほ明瞭でないのである。国民精神総動員に思想がないといわれるのも、このような場所にあるべき思想の欠乏を意味している。「どうにかなるだおう?」といったうな安易なことでは最早やどうすることもできない。この無思想を克服して現実的な思想を確立することが必要である。

最近次第に気付かれるようになってきたと思われるのは理諭蔑視の傾向である。支那事変は理論から始ったといいよりも、むしろ行動が理論に先んじたのである。そこで事変の初期においては事変の意義を闡明するあらゆる理論が歓迎された。しかるに事変が現在の段階まで発展してきたとき、理諭蔑視の傾向が生じつつあるように見えるのはいかなる理由に依るであろうか。

理論蔑視の傾向と共に現われてきたのはある実主義である。 現実主義はそれ自身一つの理論、一つの思想であることができる。しかし今の場合はそうでないように思はれる。

現実を口にするということは、無思想、無確信の表明であり.あるいは事大主義の、あるいは現状維持の別名であることもできる。今の場合現実主義はこのように理解されて好いのであろうか。

机上の空論の排斥さるベきことはいうまでもない。しかし理論がおよそ理論として有する一般性、抽象性の意味を理解しないで、机上の空論の名のもとにあらゆる理論を否定するようなことがあってはならない。理論は広く且つ遠く見渡すところから抽象的と見られる性質を具えている。それは空論性ではなく、このよな見通しとして理論は実践に必要なのである。しかるに単に一局部の現実を基礎にする意見は一見甚だ現実的であるにしても、その現実が立っている広い且つ遠い連関を無視する故に、一個の机上の空論である。極めて現実的に見える議論が実はしばしば机上の空論に過ぎないことに注意しなければならない。

従来支那事変に関して理想が力説されてきたのに、この頃になって理想論が次第に影をひそめつつあるように思われるのはいかなる理由に依るのであろうか。理想は机上の空論に過ぎない場合がある。しかしまた理想は現実を発展的に見ることによって捉えられるものであり、現実を発展的に見る限り理想を含まない現実はないとも言い得るであろう。

政治における理論も理想も今日決して不要になったのでなく、かえってその必要は増してきている。理論の放棄、理想の否定は確信の喪失を現し、敗北主義の一種であることが出来る。現実主義のうちに知らず識らず敗北主義が忍び込むことのないように今日特に警戒を要するのである。

知識人は理論の担当者であり、理想の擁譲者でなければならない。知識人は時局に対する協力を表明して来た。それは全く正しいことであったのである。

しかしこれ迄知識人の時局に対する協力というものは、時の政治家に対する協力、個々の権力者に対する協力に止まることが多く、そのことがかえって知識人同士の協力を阻害していた場合が少なくなかった。
必要なのは知識人同士の協力である。

知識人同士が協同して時局の真に要求する理論を発展させ、理想を昴揚することに努力することが大切である。国策に協力するといっても、彼等同士の間では個人主義が支配し、互に他を排斥するというようなことは社会的地盤を欠いた知識人の無力を示すものにほかならない。政治において理論拠棄、理想否定の傾向が現われて来る場合、このようなインテリゲンテャの利己主義が激しくなる傾向があることに注意しなければならない。

現実が困難になればなるほど理論が重要になってくる。そのとき理論否定の現実主義が生ずることは危除である。現実主義はあらゆる種類の非合理主義になることができる。現実が困難になるに従って政治が非理論的になるとすれば、それは政治の貧困というに止まらない危険性を胚胎してくることになる。政治に思想は要らないといったような思想の危険性について考えてみなければならない。あらゆる思想に比して無思想は一層危険である。

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