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三木清『世界の危機と日本の立場』

2015-11-15 10:14:00 | 三木清関係
三木清『世界の危機と日本の立場』(1939年10月「日本評論」全集第15巻)

1.
ヨーロッパの動乱の発展性については、にわかに予断し難いであろう。戦争を一定の限度にとどめようとする努力はなお抛棄されていないようである。しかしともかく戦争は、恐らく当事者のすべての希望に反して、すでに開始された。前の世界大戦の悲惨な経験はヨーロッパのあらゆる国民の記憶から未だ消え失せていない筈だ。けれども戦争が始まったとすれば、戦争はそれ自身の論理に従って発展する性質を有することを考えねばならない。それは「物の論理」の必然性に従って進行するのである。いはゆる第2次世界大戦は、もはや預言とはいわれないほど当然な予言として、誰もしじゆう語っていたところである。それは今度の動乱の勃発をまつまでもなく、すでに以前から世界の諸処において種々の形式のもとに戦われていたと見ることもできる。来るべきものは遂に来たようである。速戦即決の希望はこの際充され得るであろうか。総力戦といわれる近代戦の性質は、その可能性を著しく減じていることを考えねばならない。いよいよ長期戦となった場合、現在中立不介入を標榜している国々は、果してどこまでこの状態を継続し得るか、疑問である。もとより人間の意志は歴史の要素であり、計算に入れて考えねばならない。しかし人間の意志も物の論理を無視することはできない。仮に今度の動乱が何等かの外交的手段によってすみやかに治まるものとしても、それはいはゆる世界戦争の中断であって終結を意味するものでなく、世界不安はその際恐らく元のままに残されるであろう。

交戦国のいづれの側が勝つかについて、今日すでに種々の予測が行われている。それはもちろん戦乱の拡大した場合に問題になり得ることである。そのとき忘れてならないのは、近代戦は総力戦であるということである。それは戦争が長引くに従っていよいよ重要性を増してくる認識である。戦争が長期にわたる場合、果していづれの側がその国内体制をますます堅固に維持し得るであろうか、独裁国であるか、民主主義国であるか。終極の勝敗は、単に軍事的力にのみでなく、政治的、経済的、思想力、また特に外交における成功に関係する。そしてこれはいづれの側が世界の輿論の支持乃至同情を獲得するかということにも関係している。しかし何にしても我々の関心は単に、いづれの国が勝ち、いづれの国が負けるか、ということに止まるべきではない。戦争を単なる勝負事のように見ることは我々の道徳的感情が許さない筈であるし、それはまた戦争そのものに対する皮相な見方に過ぎないであろう。我々の最も深い関心は、戦争という人類の悲劇を通じて自己を実現する「歴史の理性」はいかなるものであるかということでなければならない。歴史の理性は単なる物の論理ではない。歴史は単に客観的なものでなく、人間がそこに入っており、人間の意志が働いている。歴史は人間の作るものである。もとより単に主観的な意志から歴史は作られない。歴史の理性は客観的な物の論理と主観的な人間の意志との綜合であり、このものは歴史的に作られてくる形において現われる。歴史的な形は単に物質的な形ではない、それはまた思想の表現である。ヨーロッパの戦争は、少くともそれが拡大し且つ長期にわたる場合、負けた国においてはもちろん勝った国においても、外的並びに内的に大きな変化をひき起すであろう。この変化からいかなる歴史的な形が生れてくるかが問題である。それは歴史的範疇の変化と称し得るものであり、このものが世界史の推移を集約的に表現する。戦争を単なる勝負事と見るのでなく、我々の眼はつねに世界史の動向に注がれねばならない。

全体主義国家はヴェルサイユ条約の改訂によって歴史の新しい形を作ろうとしている。ヒトラー政権はこれを目標とし、このようにしてオーストリアを合邦し、チェコを併合し、今やポーランドと干戈を交えるに至った。だがヴェルサイユ条約の改訂がもし単に国境の改訂、地図の塗り替えを意味するに過ぎないとしたならば、それは歴史の真に新しい形を作ることであり得るであろうか。さうでない証拠は、ナチス政権が近代社会の原理である自由主義に反対して全体主義を主張したということによって示されている。単なる外的体制の変化は歴史の真に新しい形を意味し得ない。それでは全体主義は社会の内的体制の真に新しい形を創造する原理であろうか。チェコの併合以来ナチズムはその一民族一国家の民族主義原理をみづから破棄したのではないか、その全体主義の名のもとに帝国主義の現実政治が隠されているのではないかといった疑問は、すでに人々の提出していることである。また疑問とされるところは、外にはオーストリアをにチェコを合併したにもかかわらず、あるいは幾多のユダヤ人を追放したにもかかわらず、内には何か安定を得ないもののように「複雑怪奇」な外交政策になのんであわただしくダンチヒやポーランドに手を伸はそうとしたドイツの事情を考えるとき、その全体主義は果して社会の内的秩序の真の革新を意味し得るのかどうかということである。国の塗り替えだけでは未だ「新秩序」の創造とはいい得ない、それは今日の世界史的な問題の核心に対する解決を意味しないからである。問題は外的秩序と共に内的秩序に関係している。いわゆる現状維持国の意志にかかわらずヴェルサイユ体制は改訂されねばならないであろうし、また早晩改訂されるであろう。けれどもこの外的秩序の変化は社会の内的秩序の変化を伴い、むしろこれを基礎としなければならない。

もとより「国家の理性」は、この言葉を科学的に形成した最初の人マキアヴェリに見られるように、単に理性的なものではない。それは民族の自己保存と自己発展の生物学的衝動である。我々はいわゆる現状打破国の意慾の自然必然性を理解しなけれはならない。スピノザがいったように、すべての物は出来る限り自己の存在において持続しようと努力するのであって、国家もまたかかるものである。しかしあらゆる生物は環境においてあり、環境に適応することによって生きてゆくように、国家も自己の環境であるところの世界を無視しては生存することができない。そして人間は技術によって自然を支配するように、国家の環境に対する関係も技術的でなけれはならない。「国家の理性」は技術的なものである。このような技術は自己の勢力の維持発展の功利的目的のためにあらゆる権謀術数を用いることと考えられるであろう。マキアヴェリズムの名において通俗に理解される「現実政治」とはこのようなものである。いま独ソ不侵略条約はかかる現実政治であるといはれる。そうであるとしても、それはナチスの現実政治の勝利であるのか、あるいはむしろソヴェトの現実政治の勝利であるのか、それが問題である。英独を戦わせることがソヴェトの世界政策のかねての念願であるということは外交界の常識であった。もしそうであるとすれば、戦争が独波戦争に止まらないで拡大した場合、ヒトラーの現実政治はスターリンの現実政治の懐に飛びこんだことになる。あるいはロシアも遂にヨーロッパの戦争に捲き込まれることを余儀なくされるであろうか。ソヴェトの世界政策の立場から恐らく支那の問題はヨーロッパの問題よりも小さいと考えられていないに相違ない。独ソ不侵略条約の締結によってソヴェトは東方に向って活動する余裕を与えられたと見ることさえできるのだ。ソヴェトの動向こそ日本にとって最も注目すべきものである。それにしても、英独の戦争はソヴェトの希望するところであることを英独共に知っていながら結局戦争を始めるに至ったというのは、いかなる必然性に依ると考えるべきであろうか。いはゆる現実政治を権謀術数とのみ考えるべきではない。ソヴェトの現実政治の根柢にはその一流の世界史的構想に基く世界政策があることを忘れてはならない。この点においてナチスの民族主義はその成立の事情からも知られるようにドイツ一国の発展が主な目的であって、統一的な世界史的構想を欠いているもののように思はれる。そこにこの民族主義の一つの弱点がある。東洋の新秩序として東亜協同体が考えられるちうにヨーロッパ連邦のようなの協同体が成立するに至るまではヨーロッパには平和がないのではなかろうか。

2.
独ソ不侵略条約の締結と共に日本の対欧策は白紙に還元された、そして日本はヨーロッパの戦争には介入せず、支那事変の処理に邁進することになった。独ソ不侵略条約の成立も、ヨーロッパの動乱の勃発も、日本にとって「神風」であると考えられるであろう。だが天は自ら助くる者を助くという。主体の強化こそ環境の好転を真の好転たらしめるものである。まして漠然と環境の好時と考えられているものも、仔細に分析すれば、決してそうとのみは考えられないのである。何にしても国内体制が政治的に、経済的に堅固に確立されねばならない。

今日「自主独往」ということが力説されている。それは従来もいわれなかったことではないのだ。その真の意味を認識し、実践することが必要なのである。対英媚態を攻撃する者も対独媚態を示さなかったであらうか。自主独往ということは自己の環境を無視することであってはならない。世界の存在を忘れた独善的態度はこの際甚だ危険である。ヨーロッパの戦乱の勃発によって東亜の問題がにわかに世界から分離されたかのように思うのは間違っている。ロシアとアメリカの存在を忘れてはならず、アメリカとイギリスとを簡単に分離して考えることも正しくないであろう。ヨーロッパにおける戦争はむしろ支那事変の世界史的連関を明瞭にするものである。環境の好転というものに浮かされて火事場泥棒的な考え方が少しでも出てくるようなことがあってはならず、そのような態度では支那事変は決して解決され得るものでない。東亜新秩序の建設は日本が支那事変に課した世界史的意義であり、それは今日ヨーロッパの戦争と共にいよいよその重要性が明瞭になったのである。この新秩序は単に外的秩序の変更のみでなく、また内的秩序の変更を意味しなけれはならない。ヨーロッパの動乱に心を奪われて日本の本来の使命を忘れるようなことがあってはならない。環境を忘れて孤立的に考えることも、環境に気を取られて自分を忘れることも、共に自主独往とはいわれないのである。

いはゆる「道義外交」が独ソ不侵略条約の成立によつて挫折してから、ドイツのひそみ(顰み)に倣って、日本も「現実政治」に転向せよという意見が現われているようである。それが相変らず外国模倣であっては困ったもので、このような態度が国枠主義者と称せられる者に最も多く見られるのはどうしたことであろう。外交はもとより単なる道義ではない。現実を離れた道義は道義でもないであろう。外交は技術である。技術というのは主体が環境に対処してゆく方法である。国家は孤立したものでなく、国際環境のうちにあるものである以上、「国家の理性」は技術的でなければならない。現実政治というのはこのような技術を意味するものであり、その限りそれは何等排斥されるべきものでなく、「国家の技術」として必要なものである。しかしながら自然を支配する技術が自然についての客観的認識を基礎としなければならないように、国家の技術も自己についての、世界についての科学的認識を基礎としなければならない。現実政治にとって先づ必要なのは科学的認識である。それを単なる権謀術数のように考えることは間違っている。謀略は謀略に倒れる。謀略は謀略を生み、遂に破綻に陥る。マキアヴェリズムは単なる権謀術数を意味するのではない、この特異なフィレンツェ人こそ政治に経験科学的並びに歴史的基礎を与えた人である。現実政治は彼において「時務の論理」を意味している。もとよりそれぞれ主体的な諸国家を処理する技術は客観的な自然を支配する技術と同じであり得ないであろう。客観的な計画の技術に対して主体的な政治の技術は何等か権謀術数的なところがあるのは当然である。しかしこのものも技術として科学的認識を基礎とするのでなけれはならない。もちろん技術は単なる法則の認識ではなく、客観的な知識と主観的な目的との統一であるとすれば、問題はまたこの目的にある。この目的は道義的でなければならない。まことに今日の世界の現実に深く思いを致すとき、これを救い得るものは道義の昂揚のほかないと感ぜられることがしばしばである。現実政治は道義と結び付かなけれはならない。マキアヴェリも「徳」について語っている。彼においてもっとも徳は今日考えられるような道義のみでなく、はたらきのあること、従ってまた力を意味した。その際道徳もまた一つの大切な力であることが忘れられていない。徳と力とをいかなる仕方で結合するかということが彼における「国家の理性」の問題である。国家の理性は特殊的なものである。しかしそれは単に特殊的なものでなく、かえって普遍的なものと特殊的なものとをいかなる仕方で結合するかということが国家の理性の問題である。日本の立場は特殊的なものである、その特殊性を決して忘れてはならない。しかしまた日本の立場は普遍性を有しなければならない。それは世界史的構想を含まなければならない。力と徳、特殊的なものと普遍的なものとの結合こそ哲学的な意味において「構想」といわれ得るものである。技術的なものは具体的なものである。親独でなければ親英、親英でなけれは親独といった抽象的な考え方が克服されねばならない、物を関係において機能的に見てゆくことが大切である。あらゆる関係は東亜新秩序の建設の見地から考えられなければならないのである。日本の外交技術は新しい世界史的構想を基礎とすべきであって、世界史の動向のうちにこの道義が求められねばならない。自主独往といっても、世界を知る必要がなくなったわけでなく、むしろ反対である。とりわけ我々は各国の国内情勢について知らねばならない。一国の対外政治はある意味においてその国の国内情勢の反映である。しかるにこれまで我々はナチス・ドイツ国内情勢について、あるいはまたソヴェト・ロシアの国内情勢について殆ど何も具体的なことを知らされていないのである。いはゆる道義外交は道義的であった故に頓挫したのではなく、現実に対する認識と批判の欠乏のために破綻したのである。

自主独往は思想の上においても必要である。それは真の意味における自主独往でなければならない。従来しばしば見られたところの日本主義を唱えながら実はナチス流の全体主義に依存してえたような状態がこの際なくならなければならないのである。真に自主的な思想を確立するためには全体主義に対しても共産主義や自由主義に対してと同様厳正な批判が必要である。もとより全体主義にも思想的にすぐれたものがあり、それはまた歴史的意義を有している。けれども全体主義はそのまま新東亜建設の原理とはなり得ないであろう。その民族主義には大きな制限のあることについては私は繰り返し論じてきた。ナチスの理論家シュミットは、政治の根本概念は「敵ーー味方」の範疇であると述べているが、このような思想によって果して日本の戦争の意義は理解され、支那事変の解決は期し得られるであろうか。汪兆銘運動が発展してきた今日においては、三民主義に対する以前のような感情的な批判は無意味であるばかりでなく、有害でさえある。東亜協同体の理論と協同主義の原理は今日いよいよ重要になって来たと我々は信じる。日本主義のナチス的全体主義への思想的依存が清算されたとき初めて、我々も喜んで日本主義について語るであろう。マルクス主義が流行すればそれが全体の真理であるかのように考え、全体主義が流行すればそれが全体の真理であるかのように考え、このようにして次から次へ転向してゆく無責任な思想態度には、何等の自主性もなく、いかなる新文化もそこから生れることができない。思想に発展のあるのは当然であるが、それは単なる変化でなく、その内面的連関が理解され得るような発展でなければならない。我々の目標は、自由主義、共産主義、全体主義を超えた新しい思想原理を確立することである。

イデオロギーをイデオロギーとして孤立させ、その対立を公式的抽象的に考えることについても、今日反省を要するであろう。世界は自由主義、全体主義、共産主義の三思想に別れて相戦っているといわれる。しかしそれらの国家群の現実を偏見なしに眺めるとき、そのような思想の対立を超えて現実は何か共通なものに向っているのが見られないであろうか。現実の動きは固定した思想を超えて進んでいるように思われる。思想の固定化は思想の不当な政治化によるドグマ化から生じている。世界戦争は思想と現実とのこのような乖離を取り去るであろう。我々の場合、思想が現実に遅れるようなことがあってはならないのである。

我々はヨーロッパの情勢にいたずらに楽観することもなく悲観することもなく我々の任務に邁進しなけれはならない。ヨーロッパの戦争について何事を考えるにしても、その同じ事をやはり戦争している東洋に当てはめて考えてみることを忘れてはならない。もとより東洋の特珠性は存在する。しかしながらこの場合にも東洋の特殊性のみを考えて世界的共通性を忘れることは危険である。戦争によってヨーロッパ文化は没落し東洋文化は興隆するというようなことは何の予言にもならないであろう。我々の智慧と意志とに多くのものが懸っている。国民の総力を挙げて支那事変の解決に向わなければならない時期である。国民の力とは単にその肉体力のみでなく、またその智力を意味するのであって、前者をのみ用いることを考えて後者を用いることを考えないのは、未だその総力を用いるものといい得ないのである。

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