三木清『消息一通』1924年1月1日 マールブルク
『思想』編集者に宛てられた書簡、『思想』1924年3月号、昭和17年6月『読書と人生」に収録
なお、この書簡は「日本の名随筆 別巻92 哲学」作品社、1998(平成10)年10月25日第1刷発行にも収録されています。
新年お目出度う存じます。去年はハイデルベルクで迎えた正月を、今年はマールブルクで迎えました。大晦日の夜には悪霊を追払うという意味で、昔ドイツでは戸外に盛んに発砲する習慣があったそうです。今でも昔気質の人はこの夜12時が打つと同時に、高い椅子の上から飛び降りるといいます。新しい年の中へ勢よく飛び込むという意味だそうです。私は歳晩にあって数年前に作ったひとつの歌をまた思い出しました。
つかのまの熱と光を求めんと象牙の塔を焼きし日もあり
*
日本を出て来る前から、ドイツではヘーゲルの復興が行われていることを私は聞いていました。いかにもヘーゲルに関する書物はかなり出ています。なるほど大学のゼミナールでは何処でも好んでヘーゲルを用いています。しかし私たちを本当にヘーゲルの思想世界へ導いてくれる者はまだ見当らないように思います。——私にひとつの新しいドイツ語を作らせて下さい——それらはすべてかの Hegelrei ではないでしょうか。今のドイツでヘーゲルに関する学者としては、知識に於いてはミュンヘンのファルケンハイム、体系的な方面ではフライブルクのエビングハウスが第一流と見做されています。第二線に立つ人々には、クローネル、ノール、ラッソン、ブルンシュテットなどがあります。ヴィンデルバントが『ヘーゲル主義の復興』という論文を書いたとき、彼はその頃新進気鋭のノールやエビングハウスを頭においていたといわれています。それ以来かなりの歳月は流れてゆきましたが、私たちのヘーゲルはカントがその当時もったリープマン、ランゲほどの学者をさえもつ幸福にまだ逢っていないように思います。クローネル、エビングハウス、ハルトマンなどが等しくヘーゲルに就いての著述を企てているというのも面白い現象です。これらの書物が出来ましたら、私も私たちのヘーゲルに関してまとったことを書かせて戴きましょう。
同じように日本を発つ以前、ドイツでは歴史哲学や精神科学の基礎的考察が盛んになりつつあることを私はひとから聞かされていました。しかし私はこの方面に於いてもあまり多くを期待していたかも知れません。シュプランゲル、シュペングレル、ヤスペルスなどのものは面白く読まれますが、方法的思惟に於いても、対象的思惟に於いても、執拗な、根強い思索の統一力が欠けていはしないでしょうか。この間にあって、マックス・ウェーベルの経済学の方法論に関する論文集とマックス・シェーレルの倫理学の本とは、共に多少鮮かな特色をもっていて、何物かを私たちに教えてくれることが出来るようにみえます。永い間待っていたトレルチの歴史哲学の書物が出ました。この書は現今のドイツの歴史哲学的研究の状態に対して第一流の徴候的著述であると思われます。トレルチは彼の博識をもって近代の歴史哲学的思想のあらゆるものを批評しています。けれど歴史哲学がいかなる地盤に立ちいかなる方向に進むべきかということに就いて、彼自身明確な、徹底した洞察を欠いているために、1000頁に近いこれらの批評もすべて宙に迷っています。いわはば彼は近代の歴史哲学的思想家たちのもろもろの Geister(*霊) をひとところに集めて弔いをしているのです。彼がこの盛んな弔いをしてくれたことは、私たちには教訓の深いことでした。精神科学や文化哲学の基礎付けはこれまで試みられて来たのとは全然別の途によって新しく始められなければなりません。科学の学的性質を明証の伴う普遍妥当性として規定し、その根拠を求めてゆくという形式的な方法は、ある種の科学にとってはその本質的な特性を毀すことになり、それが自然に成育してゆく形態を曲げることになりはしないかを私は疑うのです。たとえ明証とか普遍妥当性とかいう概念を保存するにしても、これらの概念は新しい方法によって作り換えられねばならないのではないかと私は思います。昨年の11月29日、フランクフルテル・ツァイトゥングにフリッツ・シュトリヒが、『現代に於ける精神歴史の本質と課題』という論文を寄せていました。シュトリヒは若い歴史学、殊に文学史や芸術史の傾向が Stil(*様式)の歴史を目差していることを述べ、その代表者としてウェルフリンとグンドルフとを挙げました。新しい歴史学は「根本概念のイデーと創造的発展のイデー」とによって古いヒストリスムスを破壊しました。「根本概念」は永遠に人間的な、本質的な実体であって、この実体は歴史的現象の中に無限の姿をとって繰り返し現われるのです。あらゆる時代、すべての民族に於いて、相異なる、創造的なる実現の形式をとりながら、しかも絶えずめぐり来る統一がシュティルと呼ばれるべきものです。「この精神的統一の認識が新しい歴史科学の精神」であるとシュトリヒは言っています。若い歴史科学の問題は「かつてひとたび在ったところのものでなく、つねに在るところのもの」であり、それは本質的に精神的なるもの、本質的に人間的なるもの、従っていつでも存在しているものに就いて物語ることである、と彼は主張します。シュトリヒのいうところが新しいというのではありません。しかしながらこの文学史家によって新しく要求されているものは、現代の多くの歴史哲学者がまた目差しているものであるように見えます。永遠に人間的なるものの生命のメロディーとリュトムスとを感得しようというのが人々の切実な要求であるのでしょう。若い人たちの間にしきりにキェルケゴールが読まれているのも私はこの要求のひとつの現われであるとみたいのです。しかしながら歴史をひとつの生命の現われであるとして考えるに当っても、ここにいう生命は単なる生命ではなくて、ひとつの歴史的生命であるということ、そしてこの「歴史的」ということがあたかも私たちの問題になるのだと思います。従って歴史的生命をひとつの有機的生命のアナロギーによって考察するということは、やはり「本質的に歴史的なるもの」を取逃すことになりはしないでしょうか。歴史科学の課題をひとつの Morphologie (*形態発生)と解することは、その前提に於いて矛盾を犯していると思います。例えば有機体とのアナロギーによって、社会に目的関係の存在することを論断しようというのは、むしろ正当な論理的順序に逆行するものではないでしょうか。目的、機能または構造の関係は、歴史的社会的現実に於いてこそ実際に体験され、いたるところ追跡し得るに反して、有機体の領域に於いてはかえってこれらの関係は、単に仮説的な補助方法に過ぎません。それ故に有機体の概念を歴史的事実の研究の指針とするのでなく、むしろ自然研究が社会的事実のアナロギーを用いるのが当然であるとみられねばなりません。自然哲学的思弁を歴史の解釈の中へ導き入れるほど危険なことはないでしょう。
*
こちらへ来て私が特に感じるのは、学問が大きな根を張って成長しているということです。私は学問を視、学問に触れることが出来ます。それは多数の大学を視、沢山の書物に触れることが出来るという意味ではありません。あたかも私たちがひとの顔に於いて感情を視、ひとの手に於いて欲望に触れることが出来るように、私たちは大学やゼミナールや書物に於いてひとつの学問的意識を視たり、それに触れたりすることが出来るのです。私がいたるところ学問的意識にぶつつかるのは、この学問的意識が生命をもち、自然の力によって成長しているからでしょう。芝居の言葉に「芸が板につく」ということがあったと思います。私がこちらの学者をみていつも思い出すのはこの言葉です。彼等の学問に無理がなく、歪められたところがないのは、彼等がすべてひとつの学問的意識の中に育っているがためでしょう。このような学問的意識が自然に成長して、あらゆる学問的現象の中にはたらくようになるためには、永い間の歴史的背景が必要なことはもとよりいうまでもないことです。この意味に於いて例えばハルナックの書いたプロイセンのアカデミーの歴史をひもとくことも興味のあることでしょう。しかしまた学問的意識の自由な、自然な成長発達を可能ならしめるような制度が出来ているということも肝要なことであると思われます。ドイツの大学で学生に転学の自由が与えられているのはそのひとつです。学生に聴講科目の自由な選択が許されているのもそのひとつです。そのためにこちらの学生では、例えば哲学の学生であって単に哲学だけを勉強している者は極めて稀で、多くは他に副科目として、あるいは数学や自然科学、あるいは神学や歴史などの特殊科学を傍らに研究しています。学生と教授とゼミナールの三つがいつでも親密な関係を保っているというのもそのひとつです。すべてのものが綜合的にはたらかなくてはなりません。例えばひとつのゼミナールの文庫をよくするためには、成長しつつある学者を必要とします。本当の研究に役立ち得る文庫は、真面目な研究者が自分の研究を進めてゆくに随って必要を感じる書物を系統的に調べ集めることによって初めて出来るのです。私は学問的意識の綜合作用が学問の成長してゆく条件であると考えずにはいられません。学問の綜合的精神を発揮するための綜合大学の制度が、単に経済的管理を便宜にするため、中央集権的支配を容易にするため、あるいは学者が彼等の墻壁(*しょうへき)を堅固にするための機関となってしまうのは恐るべきことであります。学問的意識の自由な綜合作用がはたらくときにのみ——私はかの Vielwisserei (*雑学者、物知り)またはディレッタンティスムスをいっているのではありません——特殊の学問も栄えることが出来るのだと思います。アカデミケルが自己の本分を絶えず反省し、自覚してはたらくということは、学問的意識の発達のために単なる制度の問題以上に必要なことであるに相違ありません。フィヒテ、シェリング、シュライエルマッヘルなどの大思想家たちが、鮮かな人生観と世界観との上に立って大学の本分に就いて論じてくれたことは、ドイツの大学にとってどれほど幸福な事実であったでしょう。中にもシェリングの『大学に於ける研究の方法』という講義は私の最も好んで読むもののひとつです。最近ヤスペルスが『大学のイデー』という冊子を世に出したのは面白いことでした。
私は学問的意識の綜合作用といいました。この綜合のはたらきを理解することは、やがてまたその分化のはたらきを理解することであるでしょう。学問的意識は歴史の世界の中に成立しています。従って悟性の技巧的な概念によって、あるいは単に理論上の可能性を数えることによって学問を分類しようというのは不可能なことではないかと私は思っています。すべて学問の位置は論理学によって決定されることではなく、あらゆる学問が発生し成長して来たところの根源を尋ね、各々の学問の諸々の根源のなかにはたらいているひとつの綜合のはたらきを求め、この綜合の構造に各の根源を関係させることによって初めて決定されるのではないでしょうか。すべての分類に必要な「類概念」という言葉の根源は、ギリシア語の「ゲノス」です。ゲノスは「ギグネスタイ」という動詞から来たので、この動詞は「成る」「生ずる」という意味をもっています。すなわち同じ生れ、同じ由来をもつものが、ひとつの同じ類概念に包括される対象の領域を形作るのです。事物の由来は事物の本質に対して単に偶然的な事柄ではなく、むしろそれに対して構成的な意味をもっているというのが、ゲノスという言葉に含まれている「哲学」です。事物の由来が事物の実体的本質を構成するという謎を、私たちのアリストテレスは「ティ・エーン・エイナイ」という不思議な概念によって解こうとしました。発生的方法は現代では心理主義もしくはヒストリスムスの名のもとに非難されています。しかしながら私たちはなお心理主義やヒストリスムスに陥ることなくして、しかもひとつの新しい発生的方法を考え得ないでしょうか。実在を fieri (*ラテン語、生じること) とみる道は論理的方法以外に不可能でしょうか。ナトルプの心理学の方法が心理主義でないならば、歴史的社会的世界に成立する事実をそれの歴史的起源に還元することによって歴史的意識の根源的なる形を構成し、この意識のはたらきを純粋に記述する学問は——もしかかる学問があったとすれば——あながちヒストリスムスとして排斥すべきでもないでしょう。私は言語学者が既にこれに近い方法を、無意識的であるにせよ、不完全であるにせよ、彼等の研究の種々の方面に於いて用いていることに気付くのです。学問論は学問の歴史の研究を前提とします。この意味で、自然科学の方面ではあの尊敬すべきフランスの学者デュエム、精神科学の方面では私たちに懐しいかのディルタイが、その方法は各々異るにせよ、試みた研究を拡げてくれ、進めてくれる人の出ることは本当に願はしいことです。
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尊敬している学者の中でも逢ってみたい人と逢ってみたくない人とがあります。例えばブレンターノやディルタイは、もし許されたことであったら、どうしても逢ってみたかった人です。ところがクーノ・フィッシェルやトレルチの家の門をくぐることは私には幾度も躊躇されたでしょう。今のドイツで将来のある哲学者と言えば、多くの人がハルトマンとハイデッゲルとを挙げます。私は去年の秋マールブルクに来て、この二人に逢い、その講義に出たり、ゼミナールに加わったりしています。ハイデッゲルが新しくマールブルクへ来たのは私には嬉しいことでした。ハルトマンに対する感じを一口でいえば、彼はいわゆる「仕掛の大きい」人です。それがあるときは気取った、あるときは芝居がかった態度になるのは何の無理もないことでしょう。講義はなかなか手際がよく、聴講者も非常に沢山あります。ゼミナールでは彼は自分の弱味をみせることを嫌がり過ぎています。正直にいえば、私はハルトマンに直接学ぶようになってから、彼がそれほど将来のある人であるかどうか多少疑問にするようになりました。少くとも今の私にはハルトマンの偉さが分りません。彼の著わした『認識の形而上学』もなかなか「仕掛の大きい」ものです。いかにも手際よく出来ています。しかしながらこの厳しい、堂々として構えがすべてひとつの機(からくり)の上に出来ているように私には感じられるのです。——もし貴方がこの書物を既に読んでいらっしゃるならば、私のいう機(からくり)が何であるか、直に思い当られることと存じます。——彼は無造作に本体論や形而上学の成立の可能性と必要性とを説きます。認識は Erzeugen (*産み出すこと)ではなく、Erfassen (*把握すること)である。認識が把捉であるならば、把捉さるべきものがすべての認識の前にそれから独立に成立していなければならず、そしてこのものは本体論的、形而上学的なものであるとハルトマンは言います。もしこの前提が正しかったならば、本体論の成立の必然性も極めて手軽に証明の出来ることであるに相違ありません。しかし認識が把捉であるということそのものが私たちには最も疑わしいことなのです。あらゆる立場の此方(こなた)にあろうとする彼の哲学は、彼のいわゆる現象学に於いて現象の分析によって、認識が実際に把捉であることを示さなければなりません。けれどそこで彼が事実行っていることはことごとく認識は把捉であるということを前提とした上での認識概念の分析であって、この前提そのものは、何処にも具体的に示されていないと思います。こういえばハルトマンの哲学は、この現象は我々の natrliche Einstellung (*自然的立場)に於ける認識の場合にはいつでも存在するものである、と恐らく答えるでしょう。なるほど認識が把捉であるということは私たちが自然的立場に於いて考えていることでしょう。しかしながらそれは自然的立場に於ける抽象的な考え方の上でのことであると思われます。丁度それは私たちが認識に於いて最初現われるのは感覚であるというのと同一の平面に於ける考え方です。感覚が認識の最初のものであるとみるのは既に抽象的なことです。私が今眼を開くとき見るのは具体的な机であって、黒の感覚ではありません。同じようにそのとき私が考えるのは、むしろ直接に見ることは「机が現われている」ということであって「私が机を把捉する」ということではありません。そのときまた同時に私は私の前に自己を現わしている存在に対して——言語学上の言葉を借りていえば、——ひとつの interpretatio (*ラテン語、解釈)を行っています。この存在を「机」として見ることが既にひとつの解釈です。それ故に存在と解釈とは唯抽象的に分つことが出来るばかりであります。この簡単な考察によっても、認識が対象の把捉であるという前提は、立場の最小でなくかえって立場の最大を意味すること、特殊の立場に於ける特殊の考え方にもとづく認識概念を本体論の予想とすることが、ひとつの冒険に過ぎないことは明かであります。歴史的に言ってもギリシア哲学にはいわゆる Gegenstand (*対象物)にあたる存在を現わす概念はなく、存在のうち第一のもの、直接なものは何よりも「プラグマ」であったのです。プラグマというのは私たちの扱うもの、私たちのはたらきの相手となるものです。もしそうであるならば、ハルトマンがいわゆる現象学を論じ、いわゆる Aporetik (*ギリシャ語、弁解)を論ずることも、つまりは宙に浮いている人形を操ることになりはしないかを私は恐れるのです。アリストテレスのアポレティクは——若しこの言葉が許されるならば、——もっと深い洞察の上に立っていると信じます。同じ客観主義の人でもラスクなどの方が、同じ実在論的傾向の人でもキュルペなどの方が、もっと深いものをみ、もっと力強い基礎付けをやっていると思われますがいかがでしょう。——貴方のお考えを承つった後に私はもっと詳しい批評をさせて戴くことにしたいと存じます。
それにもかかわらず、何故にハルトマンが今のドイツで歓迎されているか、貴方はこうお尋ねになるでしょう。一夜私は数時間にわたってひとりのハルトマンを信じる学生とハルトマンの哲学を論じ、私がこの哲学に於ける種々の困難を話しましたとき、彼は色々の答弁をした後で「それにもかかわらず、ハルトマンの哲学ほど広い Horizont (*視野)をもっている哲学は現代にないではないか」と言いました。折衷的であるにしても力強い統一を欠いているにしても、少し仰山にものをいうきらいがあるにしても、とにかくハルトマンの哲学が広いホリゾントを目差していることだけは明かです。そしてこのように展望の広い哲学を今の若い学生は求めています。複雑な経験を最近の歴史に於いて体験した来たこれらの青年のかかる要求には何の無理もないと思います。論理主義から一歩踏み出そうという努力や、Sache (*事柄)そのものに帰れという標語は、すべて広い、大きなホリゾントを求めようという要求の現われであるともみられるでしょう。しかしながらこの Sache とは一体何物なのでしょうか。
ハルトマンのことを書いて思わず長くなった私は、ハイデッゲルに就いては簡単な報告だけにとどめておかねばなりません。彼は最初リッケルトの弟子であり、後にはリッケルトを離れてフッサールに就き、今はまたフッサールに対しても批評的となって、むしろディルタイなどの考えを進めてゆかうとしているように見えます。ある日私がリッケルトと話しましたとき、リッケルトが「ハイデッゲルは非常に天分の豊かな男であるから、彼の思想はこれから後もまだまだワンデルン(*wandern、遍歴する)するでしょう」と言ったのを覚えています。今のドイツに於ける唯ひとりのアリストテレス学者として、中世哲学に深い理解のある人として、ハイデッゲルを推す人はかなり多いようです。それは例えばギリシア哲学史家のホフマンからも、言語学者フリードレンデルからも私が直接に聞いたことです。ハイデッゲルはほとんどあらゆる点でハルトマンの反対をなしています。貴公子然たるハルトマンに対してハイデッゲルは全くの田舎者です。無骨で、ぶっきらぼうで、しかもねばり強いことは、講義にも演習にも現われています。しかしそれと共になかなか利口で、気の利いたところのあるのは面白いことです。ハイデッゲルがフッサールのフェノメノロギーから新しく踏み出そうとする出発点、この努力の目差している方向を辿ってみることは私には非常に興味のある仕事でありますが、他の機会を待つことにいたしましょう。
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外国へ来た者の恐らく誰もがぶっつかるのは「言葉」というひとつの不思議な存在です。日本にいるときには外国の書物を読んでも、言葉は思想の符号あるいは伝達器であるというぐらいの気持しか実際私には出て来ませんでした。ところが、こちらへ来て少しでも外国語の「言葉の感じ」が呑み込めるようになると、私はひとつの言葉の中に生きている”Genie“(*独創性、独自性)といったものに気が付くのです。そして私は今更ながら言葉と存在との間の密接な関係を思わずにはいられません。前にいったように、私が眼を開いてひとつの「机」を見るときにも既にひとつの interpretatio が行われているのであって、机という言葉は私の眼の前に現われている存在の意味を現わすはたらきをしているのです。もし言葉がその表現の様々な方法に於いて、種々の方面から、存在の意味を現わして、存在を私ちに見ゆるものとすると考えられ得るならば、例えばアリストテレスが語法から範疇を導いたということにも深い意味があると思います。私たちはこのような思想の本当の意味を理解するために、言葉がただ読まれたばかりでなく、また単に聞かれたばかりでなく、またいたるところ言葉を見、言葉に触れることが出来たギリシア、いわゆる「アッチカの雄弁」のギリシア、文法が生きており、言葉が裸のままで公に現われて存在していた——私たちのギリシア人は言葉のこのような存在の仕方を恐らく「アレテスとしての存在」と呼んだでしょう——ギリシアの生活を思い浮べなければなりません。言葉がひとつの生命をもち、特殊の Genie をもっていることに気付くとき、私が各々の民族の言葉の中にその民族の歴史が見出されると言っても、あながち無謀でもないでしょう。かの天才フンボルトが、言葉は生産されたものでなく生産であり、出来上ったものでなく活動であると言ったのは、疑いもない真理であると思われます。そればかりでなく言葉に対する意識そのものがまた進歩してゆくのです。この意味で例えばヘルメノイティク(*解釈学)の歴史、殊に聖書のヘルメノイティクの歴史を調べてみるのも有益な仕事であるでしょう。すぐれた研究家ウーゼネルは、言語学者に必要なのは言葉の意識であると言いました。言葉の意識というのは文法のかたくななる形式を習得することをいうのではありません。言葉の意識はむしろ歴史的意識のひとつのはたらき、しかもその最も根本的なはたらきの形式であると私は思います。言語学の課題は人間的な、殊に精神的な存在の全体の広さと深みとの上に拡がっている、従って言語学は歴史科学の根柢的な決定的なる方法である、と言ったウーゼネルの言葉には争い難い真理が含まれていると私は思います。言葉の意識が発達してゆく限り言語学上の interpretatio も決して終結することはないでしょう。そして私には言語学者の行っている recensio (*ラテン語、検査)と interpretatio あるいはクリティクとヘルメノイティクとを理解することが、歴史的意識の作用、歴史的認識の方法を理解する上に根本的な意義をももっているように感じられます。けれどこれらのことを明かにするためには何よりも言葉と存在、言葉と認識との関係に関する徹底した洞察を必要とします。これらの問題に就いてまとまったことを書こうと私は思ったのではありません。フンボルトの後シュタインタール、そして近くはパウルを失ったドイツの言語学の理論的研究も、今は何だか寂しく感じられます。
*
マールブルクの冬はなかなかよく冷えます。しかし私は好んで散歩に出ます。ラーン河の向うには兎の喜びそうな、日あたりのいい小高い丘があります。数日前もオットー教授に連れられてこの丘を歩きながら、私は日本の話をしました。白樺の森など人なつかしいものです。またラーン河に沿うてゆくのも面白いことです。今日も私は賀茂川の堤を思い出し、数年前の幼稚な詩を思い起しました。
憧れいでて野に来れば
草短くて 涙すに
よしもなけれど遥かなる
もう思ふゆゑ嘆かるる。
×
あかつき光薄うして
寂しけれども 魂の
さともとむれば川に沿ひ
道行きゆきて還るまじ。
それではいつまでも元気でいて下さい。雪が降ればまたお便りしましょう。
『思想』編集者に宛てられた書簡、『思想』1924年3月号、昭和17年6月『読書と人生」に収録
なお、この書簡は「日本の名随筆 別巻92 哲学」作品社、1998(平成10)年10月25日第1刷発行にも収録されています。
新年お目出度う存じます。去年はハイデルベルクで迎えた正月を、今年はマールブルクで迎えました。大晦日の夜には悪霊を追払うという意味で、昔ドイツでは戸外に盛んに発砲する習慣があったそうです。今でも昔気質の人はこの夜12時が打つと同時に、高い椅子の上から飛び降りるといいます。新しい年の中へ勢よく飛び込むという意味だそうです。私は歳晩にあって数年前に作ったひとつの歌をまた思い出しました。
つかのまの熱と光を求めんと象牙の塔を焼きし日もあり
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日本を出て来る前から、ドイツではヘーゲルの復興が行われていることを私は聞いていました。いかにもヘーゲルに関する書物はかなり出ています。なるほど大学のゼミナールでは何処でも好んでヘーゲルを用いています。しかし私たちを本当にヘーゲルの思想世界へ導いてくれる者はまだ見当らないように思います。——私にひとつの新しいドイツ語を作らせて下さい——それらはすべてかの Hegelrei ではないでしょうか。今のドイツでヘーゲルに関する学者としては、知識に於いてはミュンヘンのファルケンハイム、体系的な方面ではフライブルクのエビングハウスが第一流と見做されています。第二線に立つ人々には、クローネル、ノール、ラッソン、ブルンシュテットなどがあります。ヴィンデルバントが『ヘーゲル主義の復興』という論文を書いたとき、彼はその頃新進気鋭のノールやエビングハウスを頭においていたといわれています。それ以来かなりの歳月は流れてゆきましたが、私たちのヘーゲルはカントがその当時もったリープマン、ランゲほどの学者をさえもつ幸福にまだ逢っていないように思います。クローネル、エビングハウス、ハルトマンなどが等しくヘーゲルに就いての著述を企てているというのも面白い現象です。これらの書物が出来ましたら、私も私たちのヘーゲルに関してまとったことを書かせて戴きましょう。
同じように日本を発つ以前、ドイツでは歴史哲学や精神科学の基礎的考察が盛んになりつつあることを私はひとから聞かされていました。しかし私はこの方面に於いてもあまり多くを期待していたかも知れません。シュプランゲル、シュペングレル、ヤスペルスなどのものは面白く読まれますが、方法的思惟に於いても、対象的思惟に於いても、執拗な、根強い思索の統一力が欠けていはしないでしょうか。この間にあって、マックス・ウェーベルの経済学の方法論に関する論文集とマックス・シェーレルの倫理学の本とは、共に多少鮮かな特色をもっていて、何物かを私たちに教えてくれることが出来るようにみえます。永い間待っていたトレルチの歴史哲学の書物が出ました。この書は現今のドイツの歴史哲学的研究の状態に対して第一流の徴候的著述であると思われます。トレルチは彼の博識をもって近代の歴史哲学的思想のあらゆるものを批評しています。けれど歴史哲学がいかなる地盤に立ちいかなる方向に進むべきかということに就いて、彼自身明確な、徹底した洞察を欠いているために、1000頁に近いこれらの批評もすべて宙に迷っています。いわはば彼は近代の歴史哲学的思想家たちのもろもろの Geister(*霊) をひとところに集めて弔いをしているのです。彼がこの盛んな弔いをしてくれたことは、私たちには教訓の深いことでした。精神科学や文化哲学の基礎付けはこれまで試みられて来たのとは全然別の途によって新しく始められなければなりません。科学の学的性質を明証の伴う普遍妥当性として規定し、その根拠を求めてゆくという形式的な方法は、ある種の科学にとってはその本質的な特性を毀すことになり、それが自然に成育してゆく形態を曲げることになりはしないかを私は疑うのです。たとえ明証とか普遍妥当性とかいう概念を保存するにしても、これらの概念は新しい方法によって作り換えられねばならないのではないかと私は思います。昨年の11月29日、フランクフルテル・ツァイトゥングにフリッツ・シュトリヒが、『現代に於ける精神歴史の本質と課題』という論文を寄せていました。シュトリヒは若い歴史学、殊に文学史や芸術史の傾向が Stil(*様式)の歴史を目差していることを述べ、その代表者としてウェルフリンとグンドルフとを挙げました。新しい歴史学は「根本概念のイデーと創造的発展のイデー」とによって古いヒストリスムスを破壊しました。「根本概念」は永遠に人間的な、本質的な実体であって、この実体は歴史的現象の中に無限の姿をとって繰り返し現われるのです。あらゆる時代、すべての民族に於いて、相異なる、創造的なる実現の形式をとりながら、しかも絶えずめぐり来る統一がシュティルと呼ばれるべきものです。「この精神的統一の認識が新しい歴史科学の精神」であるとシュトリヒは言っています。若い歴史科学の問題は「かつてひとたび在ったところのものでなく、つねに在るところのもの」であり、それは本質的に精神的なるもの、本質的に人間的なるもの、従っていつでも存在しているものに就いて物語ることである、と彼は主張します。シュトリヒのいうところが新しいというのではありません。しかしながらこの文学史家によって新しく要求されているものは、現代の多くの歴史哲学者がまた目差しているものであるように見えます。永遠に人間的なるものの生命のメロディーとリュトムスとを感得しようというのが人々の切実な要求であるのでしょう。若い人たちの間にしきりにキェルケゴールが読まれているのも私はこの要求のひとつの現われであるとみたいのです。しかしながら歴史をひとつの生命の現われであるとして考えるに当っても、ここにいう生命は単なる生命ではなくて、ひとつの歴史的生命であるということ、そしてこの「歴史的」ということがあたかも私たちの問題になるのだと思います。従って歴史的生命をひとつの有機的生命のアナロギーによって考察するということは、やはり「本質的に歴史的なるもの」を取逃すことになりはしないでしょうか。歴史科学の課題をひとつの Morphologie (*形態発生)と解することは、その前提に於いて矛盾を犯していると思います。例えば有機体とのアナロギーによって、社会に目的関係の存在することを論断しようというのは、むしろ正当な論理的順序に逆行するものではないでしょうか。目的、機能または構造の関係は、歴史的社会的現実に於いてこそ実際に体験され、いたるところ追跡し得るに反して、有機体の領域に於いてはかえってこれらの関係は、単に仮説的な補助方法に過ぎません。それ故に有機体の概念を歴史的事実の研究の指針とするのでなく、むしろ自然研究が社会的事実のアナロギーを用いるのが当然であるとみられねばなりません。自然哲学的思弁を歴史の解釈の中へ導き入れるほど危険なことはないでしょう。
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こちらへ来て私が特に感じるのは、学問が大きな根を張って成長しているということです。私は学問を視、学問に触れることが出来ます。それは多数の大学を視、沢山の書物に触れることが出来るという意味ではありません。あたかも私たちがひとの顔に於いて感情を視、ひとの手に於いて欲望に触れることが出来るように、私たちは大学やゼミナールや書物に於いてひとつの学問的意識を視たり、それに触れたりすることが出来るのです。私がいたるところ学問的意識にぶつつかるのは、この学問的意識が生命をもち、自然の力によって成長しているからでしょう。芝居の言葉に「芸が板につく」ということがあったと思います。私がこちらの学者をみていつも思い出すのはこの言葉です。彼等の学問に無理がなく、歪められたところがないのは、彼等がすべてひとつの学問的意識の中に育っているがためでしょう。このような学問的意識が自然に成長して、あらゆる学問的現象の中にはたらくようになるためには、永い間の歴史的背景が必要なことはもとよりいうまでもないことです。この意味に於いて例えばハルナックの書いたプロイセンのアカデミーの歴史をひもとくことも興味のあることでしょう。しかしまた学問的意識の自由な、自然な成長発達を可能ならしめるような制度が出来ているということも肝要なことであると思われます。ドイツの大学で学生に転学の自由が与えられているのはそのひとつです。学生に聴講科目の自由な選択が許されているのもそのひとつです。そのためにこちらの学生では、例えば哲学の学生であって単に哲学だけを勉強している者は極めて稀で、多くは他に副科目として、あるいは数学や自然科学、あるいは神学や歴史などの特殊科学を傍らに研究しています。学生と教授とゼミナールの三つがいつでも親密な関係を保っているというのもそのひとつです。すべてのものが綜合的にはたらかなくてはなりません。例えばひとつのゼミナールの文庫をよくするためには、成長しつつある学者を必要とします。本当の研究に役立ち得る文庫は、真面目な研究者が自分の研究を進めてゆくに随って必要を感じる書物を系統的に調べ集めることによって初めて出来るのです。私は学問的意識の綜合作用が学問の成長してゆく条件であると考えずにはいられません。学問の綜合的精神を発揮するための綜合大学の制度が、単に経済的管理を便宜にするため、中央集権的支配を容易にするため、あるいは学者が彼等の墻壁(*しょうへき)を堅固にするための機関となってしまうのは恐るべきことであります。学問的意識の自由な綜合作用がはたらくときにのみ——私はかの Vielwisserei (*雑学者、物知り)またはディレッタンティスムスをいっているのではありません——特殊の学問も栄えることが出来るのだと思います。アカデミケルが自己の本分を絶えず反省し、自覚してはたらくということは、学問的意識の発達のために単なる制度の問題以上に必要なことであるに相違ありません。フィヒテ、シェリング、シュライエルマッヘルなどの大思想家たちが、鮮かな人生観と世界観との上に立って大学の本分に就いて論じてくれたことは、ドイツの大学にとってどれほど幸福な事実であったでしょう。中にもシェリングの『大学に於ける研究の方法』という講義は私の最も好んで読むもののひとつです。最近ヤスペルスが『大学のイデー』という冊子を世に出したのは面白いことでした。
私は学問的意識の綜合作用といいました。この綜合のはたらきを理解することは、やがてまたその分化のはたらきを理解することであるでしょう。学問的意識は歴史の世界の中に成立しています。従って悟性の技巧的な概念によって、あるいは単に理論上の可能性を数えることによって学問を分類しようというのは不可能なことではないかと私は思っています。すべて学問の位置は論理学によって決定されることではなく、あらゆる学問が発生し成長して来たところの根源を尋ね、各々の学問の諸々の根源のなかにはたらいているひとつの綜合のはたらきを求め、この綜合の構造に各の根源を関係させることによって初めて決定されるのではないでしょうか。すべての分類に必要な「類概念」という言葉の根源は、ギリシア語の「ゲノス」です。ゲノスは「ギグネスタイ」という動詞から来たので、この動詞は「成る」「生ずる」という意味をもっています。すなわち同じ生れ、同じ由来をもつものが、ひとつの同じ類概念に包括される対象の領域を形作るのです。事物の由来は事物の本質に対して単に偶然的な事柄ではなく、むしろそれに対して構成的な意味をもっているというのが、ゲノスという言葉に含まれている「哲学」です。事物の由来が事物の実体的本質を構成するという謎を、私たちのアリストテレスは「ティ・エーン・エイナイ」という不思議な概念によって解こうとしました。発生的方法は現代では心理主義もしくはヒストリスムスの名のもとに非難されています。しかしながら私たちはなお心理主義やヒストリスムスに陥ることなくして、しかもひとつの新しい発生的方法を考え得ないでしょうか。実在を fieri (*ラテン語、生じること) とみる道は論理的方法以外に不可能でしょうか。ナトルプの心理学の方法が心理主義でないならば、歴史的社会的世界に成立する事実をそれの歴史的起源に還元することによって歴史的意識の根源的なる形を構成し、この意識のはたらきを純粋に記述する学問は——もしかかる学問があったとすれば——あながちヒストリスムスとして排斥すべきでもないでしょう。私は言語学者が既にこれに近い方法を、無意識的であるにせよ、不完全であるにせよ、彼等の研究の種々の方面に於いて用いていることに気付くのです。学問論は学問の歴史の研究を前提とします。この意味で、自然科学の方面ではあの尊敬すべきフランスの学者デュエム、精神科学の方面では私たちに懐しいかのディルタイが、その方法は各々異るにせよ、試みた研究を拡げてくれ、進めてくれる人の出ることは本当に願はしいことです。
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尊敬している学者の中でも逢ってみたい人と逢ってみたくない人とがあります。例えばブレンターノやディルタイは、もし許されたことであったら、どうしても逢ってみたかった人です。ところがクーノ・フィッシェルやトレルチの家の門をくぐることは私には幾度も躊躇されたでしょう。今のドイツで将来のある哲学者と言えば、多くの人がハルトマンとハイデッゲルとを挙げます。私は去年の秋マールブルクに来て、この二人に逢い、その講義に出たり、ゼミナールに加わったりしています。ハイデッゲルが新しくマールブルクへ来たのは私には嬉しいことでした。ハルトマンに対する感じを一口でいえば、彼はいわゆる「仕掛の大きい」人です。それがあるときは気取った、あるときは芝居がかった態度になるのは何の無理もないことでしょう。講義はなかなか手際がよく、聴講者も非常に沢山あります。ゼミナールでは彼は自分の弱味をみせることを嫌がり過ぎています。正直にいえば、私はハルトマンに直接学ぶようになってから、彼がそれほど将来のある人であるかどうか多少疑問にするようになりました。少くとも今の私にはハルトマンの偉さが分りません。彼の著わした『認識の形而上学』もなかなか「仕掛の大きい」ものです。いかにも手際よく出来ています。しかしながらこの厳しい、堂々として構えがすべてひとつの機(からくり)の上に出来ているように私には感じられるのです。——もし貴方がこの書物を既に読んでいらっしゃるならば、私のいう機(からくり)が何であるか、直に思い当られることと存じます。——彼は無造作に本体論や形而上学の成立の可能性と必要性とを説きます。認識は Erzeugen (*産み出すこと)ではなく、Erfassen (*把握すること)である。認識が把捉であるならば、把捉さるべきものがすべての認識の前にそれから独立に成立していなければならず、そしてこのものは本体論的、形而上学的なものであるとハルトマンは言います。もしこの前提が正しかったならば、本体論の成立の必然性も極めて手軽に証明の出来ることであるに相違ありません。しかし認識が把捉であるということそのものが私たちには最も疑わしいことなのです。あらゆる立場の此方(こなた)にあろうとする彼の哲学は、彼のいわゆる現象学に於いて現象の分析によって、認識が実際に把捉であることを示さなければなりません。けれどそこで彼が事実行っていることはことごとく認識は把捉であるということを前提とした上での認識概念の分析であって、この前提そのものは、何処にも具体的に示されていないと思います。こういえばハルトマンの哲学は、この現象は我々の natrliche Einstellung (*自然的立場)に於ける認識の場合にはいつでも存在するものである、と恐らく答えるでしょう。なるほど認識が把捉であるということは私たちが自然的立場に於いて考えていることでしょう。しかしながらそれは自然的立場に於ける抽象的な考え方の上でのことであると思われます。丁度それは私たちが認識に於いて最初現われるのは感覚であるというのと同一の平面に於ける考え方です。感覚が認識の最初のものであるとみるのは既に抽象的なことです。私が今眼を開くとき見るのは具体的な机であって、黒の感覚ではありません。同じようにそのとき私が考えるのは、むしろ直接に見ることは「机が現われている」ということであって「私が机を把捉する」ということではありません。そのときまた同時に私は私の前に自己を現わしている存在に対して——言語学上の言葉を借りていえば、——ひとつの interpretatio (*ラテン語、解釈)を行っています。この存在を「机」として見ることが既にひとつの解釈です。それ故に存在と解釈とは唯抽象的に分つことが出来るばかりであります。この簡単な考察によっても、認識が対象の把捉であるという前提は、立場の最小でなくかえって立場の最大を意味すること、特殊の立場に於ける特殊の考え方にもとづく認識概念を本体論の予想とすることが、ひとつの冒険に過ぎないことは明かであります。歴史的に言ってもギリシア哲学にはいわゆる Gegenstand (*対象物)にあたる存在を現わす概念はなく、存在のうち第一のもの、直接なものは何よりも「プラグマ」であったのです。プラグマというのは私たちの扱うもの、私たちのはたらきの相手となるものです。もしそうであるならば、ハルトマンがいわゆる現象学を論じ、いわゆる Aporetik (*ギリシャ語、弁解)を論ずることも、つまりは宙に浮いている人形を操ることになりはしないかを私は恐れるのです。アリストテレスのアポレティクは——若しこの言葉が許されるならば、——もっと深い洞察の上に立っていると信じます。同じ客観主義の人でもラスクなどの方が、同じ実在論的傾向の人でもキュルペなどの方が、もっと深いものをみ、もっと力強い基礎付けをやっていると思われますがいかがでしょう。——貴方のお考えを承つった後に私はもっと詳しい批評をさせて戴くことにしたいと存じます。
それにもかかわらず、何故にハルトマンが今のドイツで歓迎されているか、貴方はこうお尋ねになるでしょう。一夜私は数時間にわたってひとりのハルトマンを信じる学生とハルトマンの哲学を論じ、私がこの哲学に於ける種々の困難を話しましたとき、彼は色々の答弁をした後で「それにもかかわらず、ハルトマンの哲学ほど広い Horizont (*視野)をもっている哲学は現代にないではないか」と言いました。折衷的であるにしても力強い統一を欠いているにしても、少し仰山にものをいうきらいがあるにしても、とにかくハルトマンの哲学が広いホリゾントを目差していることだけは明かです。そしてこのように展望の広い哲学を今の若い学生は求めています。複雑な経験を最近の歴史に於いて体験した来たこれらの青年のかかる要求には何の無理もないと思います。論理主義から一歩踏み出そうという努力や、Sache (*事柄)そのものに帰れという標語は、すべて広い、大きなホリゾントを求めようという要求の現われであるともみられるでしょう。しかしながらこの Sache とは一体何物なのでしょうか。
ハルトマンのことを書いて思わず長くなった私は、ハイデッゲルに就いては簡単な報告だけにとどめておかねばなりません。彼は最初リッケルトの弟子であり、後にはリッケルトを離れてフッサールに就き、今はまたフッサールに対しても批評的となって、むしろディルタイなどの考えを進めてゆかうとしているように見えます。ある日私がリッケルトと話しましたとき、リッケルトが「ハイデッゲルは非常に天分の豊かな男であるから、彼の思想はこれから後もまだまだワンデルン(*wandern、遍歴する)するでしょう」と言ったのを覚えています。今のドイツに於ける唯ひとりのアリストテレス学者として、中世哲学に深い理解のある人として、ハイデッゲルを推す人はかなり多いようです。それは例えばギリシア哲学史家のホフマンからも、言語学者フリードレンデルからも私が直接に聞いたことです。ハイデッゲルはほとんどあらゆる点でハルトマンの反対をなしています。貴公子然たるハルトマンに対してハイデッゲルは全くの田舎者です。無骨で、ぶっきらぼうで、しかもねばり強いことは、講義にも演習にも現われています。しかしそれと共になかなか利口で、気の利いたところのあるのは面白いことです。ハイデッゲルがフッサールのフェノメノロギーから新しく踏み出そうとする出発点、この努力の目差している方向を辿ってみることは私には非常に興味のある仕事でありますが、他の機会を待つことにいたしましょう。
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外国へ来た者の恐らく誰もがぶっつかるのは「言葉」というひとつの不思議な存在です。日本にいるときには外国の書物を読んでも、言葉は思想の符号あるいは伝達器であるというぐらいの気持しか実際私には出て来ませんでした。ところが、こちらへ来て少しでも外国語の「言葉の感じ」が呑み込めるようになると、私はひとつの言葉の中に生きている”Genie“(*独創性、独自性)といったものに気が付くのです。そして私は今更ながら言葉と存在との間の密接な関係を思わずにはいられません。前にいったように、私が眼を開いてひとつの「机」を見るときにも既にひとつの interpretatio が行われているのであって、机という言葉は私の眼の前に現われている存在の意味を現わすはたらきをしているのです。もし言葉がその表現の様々な方法に於いて、種々の方面から、存在の意味を現わして、存在を私ちに見ゆるものとすると考えられ得るならば、例えばアリストテレスが語法から範疇を導いたということにも深い意味があると思います。私たちはこのような思想の本当の意味を理解するために、言葉がただ読まれたばかりでなく、また単に聞かれたばかりでなく、またいたるところ言葉を見、言葉に触れることが出来たギリシア、いわゆる「アッチカの雄弁」のギリシア、文法が生きており、言葉が裸のままで公に現われて存在していた——私たちのギリシア人は言葉のこのような存在の仕方を恐らく「アレテスとしての存在」と呼んだでしょう——ギリシアの生活を思い浮べなければなりません。言葉がひとつの生命をもち、特殊の Genie をもっていることに気付くとき、私が各々の民族の言葉の中にその民族の歴史が見出されると言っても、あながち無謀でもないでしょう。かの天才フンボルトが、言葉は生産されたものでなく生産であり、出来上ったものでなく活動であると言ったのは、疑いもない真理であると思われます。そればかりでなく言葉に対する意識そのものがまた進歩してゆくのです。この意味で例えばヘルメノイティク(*解釈学)の歴史、殊に聖書のヘルメノイティクの歴史を調べてみるのも有益な仕事であるでしょう。すぐれた研究家ウーゼネルは、言語学者に必要なのは言葉の意識であると言いました。言葉の意識というのは文法のかたくななる形式を習得することをいうのではありません。言葉の意識はむしろ歴史的意識のひとつのはたらき、しかもその最も根本的なはたらきの形式であると私は思います。言語学の課題は人間的な、殊に精神的な存在の全体の広さと深みとの上に拡がっている、従って言語学は歴史科学の根柢的な決定的なる方法である、と言ったウーゼネルの言葉には争い難い真理が含まれていると私は思います。言葉の意識が発達してゆく限り言語学上の interpretatio も決して終結することはないでしょう。そして私には言語学者の行っている recensio (*ラテン語、検査)と interpretatio あるいはクリティクとヘルメノイティクとを理解することが、歴史的意識の作用、歴史的認識の方法を理解する上に根本的な意義をももっているように感じられます。けれどこれらのことを明かにするためには何よりも言葉と存在、言葉と認識との関係に関する徹底した洞察を必要とします。これらの問題に就いてまとまったことを書こうと私は思ったのではありません。フンボルトの後シュタインタール、そして近くはパウルを失ったドイツの言語学の理論的研究も、今は何だか寂しく感じられます。
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マールブルクの冬はなかなかよく冷えます。しかし私は好んで散歩に出ます。ラーン河の向うには兎の喜びそうな、日あたりのいい小高い丘があります。数日前もオットー教授に連れられてこの丘を歩きながら、私は日本の話をしました。白樺の森など人なつかしいものです。またラーン河に沿うてゆくのも面白いことです。今日も私は賀茂川の堤を思い出し、数年前の幼稚な詩を思い起しました。
憧れいでて野に来れば
草短くて 涙すに
よしもなけれど遥かなる
もう思ふゆゑ嘆かるる。
×
あかつき光薄うして
寂しけれども 魂の
さともとむれば川に沿ひ
道行きゆきて還るまじ。
それではいつまでも元気でいて下さい。雪が降ればまたお便りしましょう。