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三木清『日本の哲学に対するリッカートの意義』

2015-11-25 19:29:51 | 三木清関係
三木清『日本の哲学に対するリッカートの意義』

原題:Rickerts Bedeutung fur die japanische Philosophie, Von Dr.philos. K. MIKI 、
この論文は、ヘリゲルおよびリッカートの紹介によって、フランクフルテル・ツァイトゥング(1923.5.27)に掲載されました。ハイデルベルヒで研究を終えようとしている三木清による、リッカート哲学の評価である。

およそ10年前、一教授が京都において「諭理の理解と数理の理解」という諭文を発表したとき、彼の名はほとんど知られていなかったが、ましてや彼がその諭文において対決している「一者、統一および一」という論文の著者の名は、よりいっそう知られていなかった。前者の研究の含む探い思想と後者の著作の含む明察を認識することは、当時にあっては、ごく少数の人々にしか可能でなかったのである。ところが今日では、西田の諸著は需要が多く、われわれは、西田のごとき輝かしい思想家をもっていることを喜ばしく思う。あのとき以来、われわれはリッカートの諸著作をも同様に熱心に研究し、彼をわれわれの教師として敬っている。あたかも日本において哲学に対する関心が飛躍的に高まり研究が躍進をとげつつあるその時期に、リッカートはわれわれにとって最も重要な指導者の一人となった。

<文屋註:西田幾多郎『論理の理解と数理の理解』(大正元年(1912年)8月、『藝文』第3年第9号、西田幾多郎全集第1巻)>

リッカートの哲学は、日本にあっては、カントに対する関心の増大と関連して知られるにいたった。わが国の哲学がおよそ50年来経験した急速な変化は、典型的な発展過程を示している。知識を知識のために求めるるという思想は、日本の政治生活革新の曙光を経験した人々には、まだはるかに縁遠いものであった。当時のまったく「活動的な」精神にとっては、正しい生活をいとなむための「教則」だけでこと足りたのである。人々はせいぜい、「道徳」の問題に没頭したばかりであった、しかも、そのためにただ灰色の理論に苦心しようなどとは考えなかったのである。ヨーロッパの学問がはじめて日本にはいってきたとき、いちじるしい役割を演じたのはイギリスの哲学であった、それも、自然主義的、進化諭的哲学——たとえば、スペンサーの綜合哲学——であった。ドイツの哲学では、ヘッケルとハルトマンが有名であり、かつ人気を博した。自然主義的、綜合的哲学は、ようやく向上の意欲に燃えて、知識を欲求し生活を楽しもうとする国民の心のうちに、格別に好個の地盤を見いだした。大海を渡ってはいってきた新しい文化は、やがては、古来の土着文化と対決せざるをえなかった、そして大きい旋風をまき起こしてその暗黒の奈落に、なおよろめきながら歩いている若い人々を引き入れねばならなかった。人々は絶望し、いずこヘ行くベきかもわからず彷徨した、そして憂鬱になり高慢になった。このような気分にあって人々は、ショーペンハウエルやニーチェの哲学から親縁な音調を聞き出し、これらの哲学に党した。やや冷静に考える人たちは、考察の原理も行動の原理もともにこれを求めることなく、アメリカのブラグマティズムを迎えた。実生活上の懐疑主義はつねに理輪上のプラグマティズムと相提携するのが普通だからである。このような行く方を知らない熱狂が鎮まってからやっと、日本国民の精神は「男らしく」なった。いまや日本国民の精神は、批判的でありうるまでに成熟をとげた。そこヘドイツに発する批判主義の革新運動は美しい島国に向かってなだれよせてきたのである。一切のものが主観のまわりを 「回転する」のでなければならないという思想は、われわれにとって決して新しいものではない。しかしこの思想の学問的な意義を直に評価することは、われわれはこれをカントからはじめて学んだのである。カントの認識論は、それゆえに、今日でも、日本の若い哲学者たちの最も好むテーマである。新カント派の人々のなかでも、わが国で最もよく知られているのは、「マールブルグ学派」のコーヘン、ナトルプ、カッシーラー、「バーデン学派」の哲学者、ヴィンデルバント、リッカートおよびラスクである。それ以来、今日にいたるまで、カント哲学はもはや緑の島国の地盤を診棄てたことはない、その間に、あるときはベルグソンの直観主義が全国民を魅了したことがあり、また今日では全国民がフッサールの現象学に夢中になっていはするけれども。

リッカートが今日の日本に及ぼしつつある影響を正しく評価するためには、ヴィンデルバントの大きい功績を看過するわけにはいかない。わが国のすぐれた歴史家たち、たとえば、波多野、朝氷、桑木らは、まったくこの天才的なドイツの歴史家の影響下にある。ギリシァ哲学の領域における熱心な研究によってわれわれにプラトンに対する愛と尊敬を喚起することのできた波多野は、その宗教哲学に関する書物において、新カント主義、とくにヴインデルバントの宗教哲学的思想の展開を試みた。近世哲学における「自由の意識の発展史」に関する書物 (『近世におけ 「我」の自覚史』のことか。)において、朝永は「価値哲学」をカント哲学の最も真実な内容と呼び、それだから彼の書物を、ヴィンデルバントおよびリッカートに対する感謝の言葉で結んでいるが、それは当然のことである。カント哲学に対する理解を普及させることを目的とした桑木の著作『カントと現代の哲学』のうちに、ヴィンデルバントの影響を認めない人はないであろう。

ヴィンデルバントは、天才的な歴史家であったけれども、体系家としては、成就者というよりも刺激者であった。疑いもなく哲学への最善の入門の役を果たしてくれる彼の『序曲』は、今日なお広く読まれていはいるが、自己自身の力に体する信頼が増大するにつれて、また「体系ヘの意志」が、ここかしこにおい て躍動しはじめるにつれて、ヴィンデルバントの弟子、リッカートに対する、バーデン学派のこの体系家に対する関心もいっそう強くなってきた。『認識の対象』が翻訳されたのは、そのころのことであった。この 書物の明晰な叙述と方法的な思想の展開に人々は歓喜した。ついで彼の歴史哲学に関する著作が日本語に翻訳された、そして今日、彼のほとんど全著作を翻訳しようという計画が立てられている。リッカートは日本において「流行」となっている。学術的な論文においてばかりでなく、大衆的な雑誌においても、彼の哲学は好んで論じられている。ところでこの流行は、単に一時的な現象にすぎないものなのであろうか、それとも、この流行にはそれ相応の実質的な本質があるのであろうか。

リッカート哲学の核心をなす「超越的当為」の思想は、われわれには、すなわち日本の精神にとっては、一見そう思われるほど縁遠いものではない。義務の履行に関する高い感情、人格の自律性に対する高貴な尊敬の念、それはおそらくドイツ人の場合とは形式をまったく異にしているではあろうが、われわれの心情のうちに深い根を張っているのである。われわれはこの情操を証してくれる感動的な物語をたくさんもっている。この理想主義的な、そして一部は「ローマン的な」情操を学的に把握し、それが理論的な領域に対しても意義を有することを明らかにすることを、われわれははじめてドイツの哲学から学んだのである。古来、方法的に思考を導くということほどわれわれに縁遠いものはなかった。われわれがリッカートの著作において、彼が「単純なもの」から始めて一歩一歩と前進して行くのを目のあたりに見たとき、われわれはまず彼の方法的な明晰さに驚嘆し、同時に彼の哲学からわれわれと親縁な惰操を感得できることを喜んだ。

哲学というものが人類の豊饒な大地に根を張って繁茂すベきものであるとすれば、それはその時代の文化を顧慮し、これを正しく評価しなくてはならない、一言でいえば、哲学は「文化哲学」でなければならない。リッカートの哲学が優越なる意味において文化哲学であることを否定する人はあるまい。彼が「価値」、「意味」および「当為」のような諸概念をかかげ、歴史哲学の新しい道を開拓し、そしてついに価値の体系を樹立するにいたったのを見れば、彼が文化哲学に傾倒していることは見まがいようもなく明白である。われわれ日本人は、まさに今日、学的な立場から文化の体系を打ち建て人間のあらゆる活動に、それが文化の体系内において占めるベき正当な位置と秩序を与え、このようにして歴史的過程の意味と意義をわれわれの明瞭な意識に高めてくれる哲学者を必要としているのである。西洋の文化が潮のように日本に氾濫し、日本本来の文化との戦いに耐えぬかねばならなかったとき、その故国を雄れていわば根を抜かれた西洋文化は、この新しい土壊そのものに休息の場を見いだすことができなかった。もろもろの文化価値のこの混沌のなかヘ、リッカートの哲学によって、新しい光がさしこんだのであった。彼の歴史哲学は熱心に研究され、彼の価値体系はきわめて活発に論議された。

ところでリッカートにおいて真に新しいもの、真の功績と見なすべきものは、彼が歴史の問題を論理的な問題として促え、論理的なものの領域を個別的なものにまで拡大したことである。文化諸科学の論理的側面の研究は日本では特に経済学者たちの間で広まった。リッカート哲学の最も忠実な信奉者であり崇拝者である左右田の『経済哲学の諸問題』および『文化価値と極限概念』は、日本の学問における近代の収穫の一つに算えらるべきもので、左右田がこの傾向を促進させた功績はまったく著しい。

最後に、リッカートの影響が、日本における最近の歴史研究の躍進といかに深く結びついているかを見のがすわけにはいかない。 学問をそれみずからのために研究するという思想に当初よそよそしい態度をとっていた国民は長らくの間歴史の学的研究においてなんら誇示すべきものをももたなかった。われわれの祖先は歴史をば彼らの行為の模範と見るか、あるいは歴史を興味ある、そして教訓に富む読み物と見なすかであった。さらに、佛教的、自然主義的汎神論が歴史的生活に価値を認めることを知らず、久しく支配している天皇絶対主義が、客観的な歴史的研究を妨げてきたという事惰があった。最近50年間の政治的および経済的発展ならびに西洋の影響は、この事情を根本的に変革した。それ以来われわれは、これまで隠されていたわが国民の過去を明るみに出しはじめた、このようにしてわが国の歴史家たちにとっても、リッカートはその努力の指導者となり擁護者となったのである。

今日、もちろんわれわれも自主的な、独創的な哲学者をもっている。すなわち、西田のごとき深い思想家と、その弟子のひとり、田邊のごとき熱心な前途有望な研究者がそれである。しかしこの2人は多くのものをリッカートに負っている。将来の哲学は、リッカートのようなドイツの哲学者たちが開拓してくれた地盤の上に成長することであろう。それゆえに、われわれはすベて彼に感謝すベき義務を負っている。われわれは、これまでわれわれの最も敬愛する教帥であり指砕者であったこの人の60歳の誕生日を、ドイツ国とともどもに祝いたい、そして将来においてもいつまでもそうあってくれるよう、心から期待してやまない。(翻訳:桝田啓三郎)

<添付資料>
羽仁五郎『三木清がドイツ文で書いた論文4篇について』(1949.2.2)

1922年から1923年にかけて、ハイデルベルクにおいて三木清が書いたドイツ文の論文4篇、その3篇のタイプライタ原稿、および、その1篇の載っているフランクフルテル・ツァィツゥング新聞紙は、三木清自身によっては保存されることができなかったが、ぼくの手によって保存されることができたので、今度これらが三木清の全集の中に日本において初めて読者諸君の公有にうつされる。ハイデルベルクにおいて、日夜、真実の兄弟のようにしてともに学んだ三木清とぼくとはその後、日本に帰ってから、三木清もぼくも、学問の自由を守って日本帝国主義のために迫害され、2度逮捕きれ、しばしば家宅捜索をうけたのであるが、これらのいまは黄色く古びたタイブライタの原稿と1枚の新聞紙とが、さまぎまの苦しいたたかいの汗と血と涙とをにじませて、今ぼくの手から諸君の手にわたされるのである。

これらの論文について、ぼくの書きたいことは多いが、何よりも僕は三木清についてあまりに悲しいし、多少のことはすでにいろいろの機会に書いたし、今はこれらの論文の内容を読者諸君がふかく読み評価され発展させられることを期待して、その参考に今ぼくが忙しい中から思い出し得るかぎり、これらの論文がどういう機会に書かれたかを記しておくにとどめよう。

三木清は1922年の初夏にハイデルベルクに来た。初夏の美しいハイデルべルクに、ぼくは大内兵衛、糸井靖之などとともに、三木清を迎えたのである。三木清とぼくとはハイデルベルク大学においてリッケルトを中心として学んだ。この1922年の夏学期および1922~23年の冬学期のハイデルベルク大学の講義目録が、 今ぼくの書庫に見あたらないので正確に報告することができないが、当時ハイデルベルク大学においてリッケルトは、認識論についての講義と、ゲーテについての講義とリツケルトの『自然科学的認識の限界』およびマクス・ウェベルの『学問の方法論』Max Weber,Gesammelte Aufsatze zur Wissennschaftslehre. などを中心とする哲学演習とを行い、グンドルフはドイツ・ロマンティクについて講義し、ホフマンはギリシア哲学について講義し、エミル・レエデラアは経済原論を講義し、ランケまたクルティウスは考古学または古代文化について講義また演習を行い、その他、ぼくはリッタアのドイツにおける政党の歴史の講義などをも聴き、三木清は朝早くからあるホフマンのギリシャ古典演習に出ていた。その中でも三木清はリッケルトの哲学ゼミナルに集中していた。リッケルトは老齢であるのでその哲学演習は自宅で行われていた。ネカア河畔のマクス・ウェベルの家とともに丘の麓にあったリツケルトの自宅における哲学演習にはマンハイムやヘリゲルやグロックナアなども参加していたが、そこで1922~23年冬学期に三木清がこのころ日本人学生としてははじめて、単に演習に出席するだけでなく、演習に参加し、報告を行ったのがここにある「Die Logik der individuellen Kausalitat.」 即ち『個別的因果律と論理』のタイプライタ原稿である。この報告はリッケルトのいわゆる個別因果律の問題において、ドイツ観念論哲学の最近の最高または最後の問題の困難がどこにあるかを、鋭く指摘した点において、また、それをかつてリッケルトまたマクス・ウェベルの下に学んだ左右田喜一郎がこのリッケルトの問題をいかに解決しようとしたかの批判において展開したことにおいて、このゼミナルに深い印象をあたえ、活発な討論をよびおこし、なかんずく、この機会にフクシンスキイが、リッケルトの個別的因果律の問題にマクス・ウェベルのイデアル・イテアル・ティプスの方法によって解決されるものがあるのではないか、と討論し、リッケルト自身が、理知主義でもなく、不合理主義でもなく、 個別因果律の問題を認識諭的に解決しようとしたかれ自身の意図を弁護して、その日の演習は終ったが、その帰途、ネカア河畔をぼくは一人のドイツ人学生と討諭をつづけた。

1923年の夏学期には、今ぼくの手元にあるハイデルベルク大学の講義目録によって正確に知られるように、リッケルトは認識諭および形而上学の入門の講義(月、火、午後5~6時)と、藝術哲学の講義(木、金、午後5~6時)と、直観の概念についての演習(水、午前11時〜午後1時)とを行い、ヘリゲルははじめてハイデルベルク大学のブリブト・ドツェントフ講師となって、諭理学の根本問題についての講義(月、木、午後3~4時)と、論理学上の比較的難解なる問題についての演習(土、午前10~12時)とを行っていたがこの1923年夏学期のリッケルトのゼミナルにおいて三木清が行った報告が、この『真理性と確実性』(Wahrheit und Gewissheit. )のタイプライタ原稿であり、そのヘリゲルの Uebung:Schwierigere logische Probleme (unter Bezugnahme auf Bolzano, Lotze, Windelband, Dicker, Lass) のゼミナルにおいて三木清が行った報告が、この『論理学における客観主義』(Der Objektivismus in der Logik.) のタイプライタ原稿である。この学期には、ぼくもリッケルトのゼミナルにおいては、「個別化の過程と直観』( Der Prozess der Individuallisierung und die Intuition.) の報告を行い、へリゲルのゼミナルにおいては、『ラスクにおける主観概念』(Der Subjeksbegriff bei Lask. )の報告を行った。

このころ、われわれは、大学における講義および演習のほかに、ヘリゲルを中心として、カントのプロレゴメナなどをテキストとする演習、および、グロックナアを中心として、へーゲルのフェノメノロギイ・デス・ガイステスをテキストとする演習をもち、そのために大峡秀栄君がボルンハウゼンという夫人の家の二階にかりていた一室にわれわれは集った。そのときの写真が三木清のところに遺っていたのが、本書にかかげられているものである。これらのほかに、三木清とぼくとはマンハィムの家に毎週行って、2〜3のドイツ人の学生たちとともに、マクス・シェアラやカシイラァなどが行こうとしている方向について討論した。ドイツ観念論の哲学がその形式論理学によって解決しようとしていた最高または最後の問題と、その解決の方法とは、われわれを満足させないものがあり、われわれは、そのころトレルチが『歴史主義とその問題』の大著のなかに内容論理学の見地から唯物史観の問題に接近して行った態度に深い関心をもった。

このころ、三木清がヘリゲルおよびリッケルトの紹介によって、フランクフルテル・ツァイトゥングに、 『日本の哲学におけるリッケルトの意義』を寄稿し、それが1923年5月27日(日曜日)の同紙にのせられたのである。

その年の秋、三木清はハイデルベルグを去って、マールブルクに行った。(1949.2.2)

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