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三木清『輿論の本質とその実力』

2015-11-15 14:22:39 | 三木清関係
輿論の本質とその実力 (日本読売新聞、1937年6月1日)
今日人々は一方興論というものが何か無力なものでないかと考えるようになっている。しかし人々は他方興論というものが全く無力であるとは考へていないので、むしろ今日このように興論を無力にしているものに対してもっと興諭を盛んにしなければならないと考ヘているのである。
いかにして興論は無力であると思はれるようになったのであるか、それを明かにするには興論を形成していく要因を考ヘてみなければならない。
興論の基礎は話される批評である。興論の内容をなすのは公の問題、特に政治上の問題であるが、大衆がこれについて自由に話し、公に批評することによって興論は作られる。従って興論が発達するためには、大衆の政治に対する関心と理解とが増大することが必要であるのみでなく、大衆が自己の意見を自由に発表し得ることがまた時に必要である。
もちろん興論は個々ばらばらの意見でなく、大衆の統一きれた意見である。そして意見が統一されるためには大衆が組織されることが必要である。政党とか、議会とか、組合とか、その他種々の結杜は、このような意見の統一を可能ならしめる。従って大衆の組織の自由が制限されているところでは、興論は正常に発達することができない。
興論は話される批評を基礎とするにしても、もとよりすべての人はあらゆる場合、あらゆる問題について直接に話し合い得るものではない。それ故に彼等の意見の媒介の機関として新聞雑誌のようなものが必要なのである。新聞雑誌は種々の事件を報道し、批評を興えることによって話される批評に材料を提供する。それは興論を伝達すると共に興論を指導する。然るに検閲の強化は新聞雑誌に対して報道を制限し、また興論の代表者としての機能を喪失せしめるに至るのである。
このようにして今日興論が無力になったように見える原因は明かである。しかしながら興論は決して無力であり得ない。そのことは、興論を抑圧しようとする者自身がこのような興論に代るベき見せかけの興論を、いはば擬似興論を作ることにいかに熱心になっているかということによっても知られる。興論は大衆の統一ある意見であり、この統一が作られるためには指導者が必要であろう。
しかし指導者は自分の勝手の意見によって興諭の統一を作り得るものでなく、彼の意見が真に指導的になるためには、大衆の同意を、従って結局興論の支持を得なければならないのである。
歴史を作るものは究極において大衆である。今日のように交通が発達し、大衆の知的水準が向上した時代において輿論を抑圧することは不可能である。なぜなら輿論の形成発達が自由でないということは大衆から次第に知性を奪い取り、かくして大衆は次第に衝動的になり、大衆が衝動的になるということは極めて危険なことである。興論の発達は大衆の本能と感情とを知性化することである。公にされたものはいかなる隠されたものよりも健全である。

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