ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

三木清『教育の権威』

2015-11-15 15:50:15 | 三木清関係
三木清『教育の権威』(1937年11月5日、『教育新聞』)

現在の教育を見て最も痛切に感ぜられる事は教育の権威が失われていることである。今度の文部大臣更迭もその例であって、安井文相が辞めた事情には健康上の理由もあったと言はれるが主として政治的の理由に基くことは殆ど周知のことである。その政治的理由というのは、安井文相が文部行政に於て何か失敗をしたとかあるいは教育上の意見が他の閣僚と一致しなかったという様な文相としての仕事に関係するものではなく、単に閣内の事情に依ると言われている。
勿論、内閣全体として強固になることは必要なことであるが、しかし、もしそうであるならば、何故に安井氏を最初に文相に置いたかということが問題になって来るわけである。これを見てもわかるように文部大臣の地位というものは極めて軽視され、組閣の際の都合というようなものによって左右されていることは明らかで、その人が文部大臣として適当であるかどうか、教育上の見識を有するかどうか、というようなことは殆ど問題にならない。
新文相の銓衡に当たっても見られるところであって、木戸侯はその文政上に関する見識乃至手腕を認められて文部大臣になったというよりは、これはまた、他の政冶的目的に支配されている。こういう事情は既に我々をして文政の権威、教育の権威というものを疑わしめるに充分であって、その文部省内の官吏にして御殿女中と綽名されている位で少なくとも従来に於いては文部省の官吏となることは官吏としてそれほど名誉であろとは考えられなかったのである。ところが、こういう文部省が実は日本の教育に対して絶大な権力を有しているのであるが、学校教師諸君もまた、教育の権威ということについて自覚が足りないように思う。
教育は国家百年の大計などといわれるように、その時どきの政府の都合に支配せられるべきものではなくして、将来の国民を作る立場から考えられるベきものである。
教育者は自分の使命の大きさというものに就いてもっと深く自覚しなければならない。このような使命の大きさを感じないものは教育者でなくして只の職業人に過ぎないのである。しかも他の職業人の場合には自分の責任は自分が尽くさなければ立ち所に罰せられる。例へば銀行員であれば毎日の帳簿をキチンキチンと整理するという様なことをしなかったり、あるいは調査を怠るというようなことがあれば必ず会社に迷惑をかける。あるいは顧客に迷惑を掛けるというような結果がする現れてくる。教育者の仕事はすぐ結果が現れるのではなくして将来に於いて現れるということからして、とかく無責任になりやすいのである。勿論、例えば十学試験の成績をよくするというようなことはすぐ結果が現れるからしてそういふ事には一生懸命になるけれども、本当の将来に於いて結果が現れるような最も重要な事に対しては不熱心である。あるいは何等の見識も持つっていないと言うことが出来はしないかと思う。
教育の権威が確立きれるためには教育者がもっと自主的になるということが必要であって、その為には自分の見識を養ふことが必要である。ところが、そういふ見識を有する教育者は次第になくなっているのである。教育者は常に将来に対して責任があるということを自覚しなけれぱならない。自分の預かっている子弟は将来に於て活動すベき者なのであるからして、その将来に於て有用な材となるベき人間を作ることに何時も目的を向けなければならない。その為には時の権力、あるいは勢力に対して毅然として起ち、自己の見識に従って教育を行う覚悟がなければならないのであって、日本の歴史を見ても真の教育者というものは、すベてかういう人であったのである。吉田松陰とか福沢論吉などの例を思い起してもわかることである。
教育は将来活動すベき人間を作るのであるから教育は社会の将来あるベき姿、国民の将来あるベき姿といふようなものに就いて、はつきりした考へを掴むこと、少くとも掴もうと努力するこが大切である。然るに唯、時の権力者、町村の議員であるとか、更に視学や知事であるとか、文部省の役人であるとかにおもねる態度があって、真の将来の国民を作るという自覚が足りないように思われる。
今日の教育界の多くの人は日本国民の体位が悪くなったとか、青年の志操が堅固でないとかいう様なことに就いては色々非難している。これは政治家なども言っているのであるが、こういう国民を作ったのは一髄、誰の責任であるかということに就いて自分の責任と考えなけれぱならないのに、責任が他にあるように考えている人が多くあるのではないかと思う。
現在行われている国民精神総動員を見ても、それを行っている者は官吏であるが、殊に古手の官僚が何でも先立ってやることは最近の著しい傾向で好ましくない事であるが、この精神運動においてもとにかく教育者の自主的な力が殆ど認められていない、そうして政治家がそういう様に教育者の力を認めていないことに対して教育界自身は殆ど無反省であって、ただ上から言われたことをやりさヘすれば好いと言ったような態度である。これを見ても教育の権威が疑われるのである。
国民総動員になってから仕事は文部省から内務省の方ヘ移ってしまったように見える。教学局のようなものが新設されてまるで休業状態であるというような状態である。上は文部省から下は小学教員に至るまで教育の権威についての自覚を失いまた教育の権威が認められていない状態に対して何らの疑問も不平も、不安も持っていないというのが現在の教育界の有様ではないかと思う。将来の国民を養成する地位にある者がこのようであっては国家の為に困るのである。

最新の画像もっと見る