ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 12/12

2010-12-19 08:29:18 | ローズンゲン
12月12日(日)
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。(ゼファニヤ3:15)
イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」(マタイ17:7)
私の黙想
ゼファニアは捕囚直前に活動した預言者である。この時、イスラエルは捕囚も、また捕囚からの解放も経験していない。もうその時既に預言者はこの預言をしている。驚きである。

12月13日(月)
わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして。(詩130:6)
わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、このことを待ち望みながら、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。(2ペトロ3:13,14)
私の黙想
見張りが朝を待つ心境とはどんなものだろう。緊張と退屈とが合体したようなものなのか。孤独と恐怖とが混ざったようなものなのか。必ず朝が来るという確信なのか。私なら、MRIの検査が終わるのを待つように、待つ。あの25分は気が狂いそうに長い。

12月14日(火)
御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。(詩51:13)
マリアの言葉:身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださいました。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。(ルカ1:48)
私の黙想
罪を犯したダビデの中になお「あなたの聖なる霊」が宿っている。これを取り上げるのは神ではなく、人間たちだ。だから、ここでは「取り上げないで下さい」と祈るのではなく、「取り上げさせないで下さい」と祈るべきだ。

12月15日(水)
わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。(エレミヤ32:40)
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ロマ8:32)
私の黙想
「永遠の契約」と「子孫を恵み」という2つの言葉の組み合わせは重要。永遠とは子孫との関係。子孫との関係のない「永遠」は抽象的、観念的。

12月16日(木)
わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。(レビ26:12)
あなたがたは、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(1ペトロ2:9)
私の黙想
この言葉はレビ記にあったのか、という思い。新約聖書では2コリント6:16とヘブル書8:10に引用されている。これこそイスラエルと神との契約そのもの。それをキリスト教はそのまま受け継いでいる。

12月17日(金)
あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。(出エジプト34:21)
神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。(ヘブル書4:10)
私の黙想
天地創造の時に、神がそうされたということが人間の倫理となる。これを律法化してはならない。人間はそのように創られている。人間のDNAである。それは倫理ではなく存在の構造。

12月18日(土)
あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。(ヨブ11:7) NT:わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。(1コリント13:9-10)
私の黙想
「神を究める」なんてとんでもない。遠くから見ることさえ出来ない。ところが、「究めているかのように」「究められない」などと平気で言う。神を「究められない」ということは,自己の存在根拠を見失うということで、不安なはずなのに少しも不安に思っていないとはどういうことだろう。それが「信仰?」か。幼子のような。

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