ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/5/13~5/19

2018-05-26 09:20:39 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/5/13~5/19

2018 日々の聖句 5月13日(日)
主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。(民数記6:25)

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(2コリント13:13)

私の黙想:
朝の礼拝等の最後に司式者によって「祝福の祈り」がなされる。聖公会の祈祷書ではこの祈りは職制には関係ない。ところが、面白いことにプロテスタント諸教会では「祝祷」が出来るのは、いわゆる「按手礼」を受けた正教師だけでそれ以下の聖職者には許されていません。それで、正教師ではない者の中には礼拝の最後に「わざわざ」聖書を開き、2コリント13:13朗読し、これはいわゆる「祝祷」ではないと説明される。そんなことをするぐらいなら、民数記6:25のアロンの祝祷を朗誦する方がどれ程ありがたいことかよ、愚考する。
実は一人の人間が他の人を「祝福する」ということは、実に大きな出来事なのである。
その意味では英語で別れの挨拶で、「Good-by」と声を掛け合うが、これも厳密には「God bless you」という意味だという。

々の聖句 5月14日(月)
地は主の慈しみに満ちている。(詩33:5)

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ5:44~45)

私の黙想:
「地は主の慈しみに満ちているといわれれば、そうだと思う。しかし、すべての人に平等にその通りかというと、かなり疑問がある。同じ地に住んでいても、良い畑もあれば、苦労の多い畑もある。昔、アブラハム伝来の約束の地に侵入し、時の指導者ヨシュアによって、そこを12部族で分配されたとき、それに逆らうことはできなかったが、結構不満があったようだ。その大きな原因は「原住民」との関係であった。
全体として、それが神の賜物だと宣言されたら、誰もそれに逆らうことは出来ない。まことにその通りだとして感謝するほかない。しかし、個別的なさまざまだ具体的状況を比較すると、それぞれに不満はある。12部族間での不満はかなり深刻でそれが後々の南北分裂の遠因になった。
悪人にも、善人にも同じように太陽が照り、雨が降る。その時点で神の側には一切配慮はないようである。しかし、同じ雨が降るのでも降り方や地形によってその受け止め方には大きな差が出てくる。何故、わざわざこんな狭い地に「集中豪雨」なのだ、とか風の通る道は毎年同じで「台風銀座」と呼ばれたりするところもある。大地は決して平等ではない。少しひずんだ大地を「平らにする」、そしてすべの地域に同じ用水が流れ、風が吹くようにするのは「人間の知恵であり仕事」であろう。
今日の詩では恐ろしいことも詠われている。「主は国々の計らいを砕き諸国の民の企てを挫かれる」(10節)。このことに関しては神は人々の声を一切聞かないと宣言されている。その上で、「見よ、主は御目を注がれる主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に」(18節)と宣言される。
聖書の神は、不偏不党・民主的で正義で平等な神ではない。中東における「紛争・党争・殺し合い」等の人間の争いの原因は神にあるとさえ言いたくなる。超複雑な国際関係を知れば知るほど、神に対する問いが出てくる。
「私たちは一体どうしたら良いのでしょうか」。ごく「ささやかな」答えは、人類は「分け合うこと」を学ばなければない。神は全体として人間が満足できるものを与えてくださっている。それをみんなで分け合うことを学べば、必ずすべての人が満足できるはずだという。
【チョット、きれいごとに済ませすぎましたでしょうか】

2018 日々の聖句 5月15日(火)
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。(詩98)

主に向かって心からほめ歌いなさい。(エフェソ5:19)

私の黙想:
新共同訳聖書において「驚くべき御業」という言葉を検索すると、ヨブ記(3回)と詩編にしか出て来ない。詩編においては主の御業はすべて「驚くべき御業」である。その意味では主が歴史において活動なさるとき、人間は必ず「驚く」。驚かない人間は、それが神の御業であることを知らないか、無視していることになる。だからそれを見て、知って、驚いた人間は驚かない人間に対して分かるように語り告げなければならないし、讃美となる。
詩98では、主の成し遂げられた御業は「新しい歌」を生み出すという。
因みに「新しい歌」という単語も新共同訳では7回用いられている。イザヤ書で1回、その他は詩編である。興味深いことは新約聖書では「新しい歌」という単語は黙示録にしか出て来ない(5:9,14:3)。初代教会では「新しい歌」は創られなかったのだろうか。ここら辺りに、初期の教会の文学的レベルが示されているのかも知れない。

2018 日々の聖句 5月16日(水)
主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます。(詩145:9)

被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。(ロマ8:21)

私の黙想:
今日の聖句はほとんど同じ意味の句が重ねられている。その中で、「恵みを与え」と「憐れんでくださいます」との対比が面白い。大きな意味では「恵み」も「憐れみ」も同じ意味であろうが、強いて違いを黙想すると、前者は最大限に広げられたごく普通の意味であり、創造者と被造物との関係が述べられている。だととすると、「憐れみ」では個別的具体相における創造者と被造者との細い配慮であろう。
もちろんここで述べられている事柄は神と人間との関係である。
「憐れみ」という言葉自体はあまり好きになれない言葉であり、とくに礼拝などで「主よ、憐れみ給え」と唱えるときには抵抗をないしは違和感を禁じ得ない。それではどういうことがピッタリくるか。日本のキリスト教会は未だに模索中なのである。やはり「憐れんで頂くしかないのか?」

2018 日々の聖句 5月17日(木)
主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られませんでした。(詩102:18)

徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人である。(ルカ18:13~14)

私の黙想:
「すべてを喪失した者」という表現が目を惹くし強烈な印象を持っている。ほとんど反射的に、何故、どの様にしてという疑問が生じる。例えばヨブのような人物のことか?ここでいう「すべて」とは何か。文語訳も口語訳では単に「乏しい者」と訳されている。面白いのは祈祷書の訳で「見捨てられた人となっている。病室ではそこまでしか分からない。
そこで最後に、そしてそれが最良の解釈であるが、文脈からの理解である。
この詩を始めからきちんと読めば、そこに記されている。
第1節【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】詩の本文においてはたった一語であるが、「敵」(9節)、全体の雰囲気から考えるこれは個人レベルの不運ではなく民族的な窮乏であろう。「わたしはパンに代えて灰を食べ飲み物には涙を混ぜた」。

2018 日々の聖句 5月18日(金)
(ああ、)この民は(大きな罪を犯し、)金の神を造りました。(今、もしもあなたが)彼らの罪をお赦しください。(るのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。)(出エジプト32:31,32)

手で造ったものなどは神ではない。

私の黙想:
今日の聖句、ローズンゲンでは省略し過ぎで、その背景にある重大な出来事が消されてしまい、ただ単なる偶像を造ることの罪の大きさが迫力がないままに示されている。全文書き出しても大した長さにならないし、偶像との関係については、ただ形式的に「禁止」しただけではほとんど意味がない。
このモーセの言葉の背後にある出来事は、出エジプト記の中でも最も重要な出来事の一つで、偶像礼拝に走る人間の弱さと、それに対する神とモーセとの命を掛けた祈りと駆け引きとが描かれている。この出来事は、イスラエルの民がヤハウェに対して犯した多くの罪の中の一つではない。
ここでは、一つのポイントだけを取り上げる。問題は、「金の神」とは厳密には「金の仔牛の像」であり、出来事そのものはいまだ民族形成以前の烏合の衆で、イスラエルにとって民族の核心となる「十戒」が発行される以前の出来事である。出エジプトしたイスラエルにとって民族形成の根本となる「十戒」(憲法)を受けるために山に登ったモーセが帰還が遅すぎるということで、それを待ちきれずに、民衆はモーセの兄アロンをそそのかし、「金の仔牛像」を作り出し、これが「出エジプトを達成した神」であると、宣言したのである。ヤハウェに対するこれほどの冒涜があるだろうか。
彼らが作り出した「神」が「金の仔牛」であるというのが注目される。この出来事は出エジプトした頃の「民」は、いろいろの民族や部族のいわゆる烏合の衆にすぎず、彼らはいろいろな宗教的背景を持っており、「目に見えない神」ヤハウェにまだ馴染んでいなかったのであろうと思われる。それがここで爆発的にヤハウェに対する不信として顕在化したのであろう。
この時のモーセの姿勢と祈りとが、真の宗教家の姿であろう。これ以上論じることは朝の「黙想」の枠をでてしまうので、ここで止めておく。

2018 日々の聖句 5月19日(土)
主は打ち砕かれた心の人々を癒しその傷を包んでくださる。(詩147:3)

イエスは、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。(ルカ9:11)

私の黙想:
先週の今日、日付を間違えて、かなり興奮した黙想を書いてしまいました。今日はそれを全面的に書き換えます。先週も今週も同様ですが、2日後に退院を控えていました。
昨年11月24日からの入院は、いわば白血病の発見による抗癌剤の投与のための入院で、いわば「計画された病院生活」で、それも5ヶ月に及ぶかなり長期に渡る入院生活で、一応ワンクール(7回の点滴)終わるたびに自宅静養をする計画でした。それも復活日を超えた頃には終了し以後は週に1度の通院輸血という計画でした。その第1回目の通院の日(4月23日)、具合悪く口内炎で口がかなり腫れていましたが、医者はそれを深刻な事態と判断し急遽入院ということになりほとんどなん準備もなく入院しました。したがって4月23日以後の入院はいわば「強制された病院生活」で、病院では100%の病人でした。それも、一応目処が付き、5月13日に退院する予定でしたが、19日に医者に呼ばれ、レントゲン検査の結果、それも肺炎が併発し、急遽1週間延長ということになり、私は完全に「打ち砕かれた心の人」になりました。その時、読んだのが今日の聖句 でした。
そんなこともあって、今日は落ち着いて、この聖句を味合うことができます。要するに、これが白血病という病気なのです。白血病者として生きるということは、身体上のちょっとした傷でも、軽い風邪でも大敵なのです。何しろ自分自身の血液内の白血球以上に少なく、抵抗力がゼロに近いいということです。いい勉強になりました。他人に移すことはありませんが、他人から簡単に移されます。

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