ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 06/02~06/08

2013-06-11 09:26:35 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 06/02~06/08

日々の聖句2013 06月02日(日)
彼(イスラエルを治める者)は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶ。(ミカ5:3)
すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリ2:11)
私の黙想:
古来、イエス(=メシア)誕生の地がベツレヘムであるとされる根拠となる預言。と同時に、イエス(=メシア)とダビデ王家とをつなぐ根拠でもある。考えてみると、キリスト教神学の発端中の発端、イエスの誕生に関わる「歴史的根拠」の弱さに驚かされる。今日は私の誕生日だ。当然のこと、私は私の誕生日のことを少しも覚えていない。全てが「伝聞」である。勿論、その伝聞の主は両親であるが、事実は両親しか知らない。という意味では、私の存在に関する「歴史的根拠」とは弱いものだ。しかしはっきりしていることは、77年間生きてきて、今、ここに居るという「歴史的事実」である。その事実も何らかの形で書き留めておかねば、不明の闇の中にかき消されてしまう。それも、いいだろう。
「時と場所」とを絶対に覚えておかねばならない「歴史的事実」などほとんどない。昨日、私の古い資料をひっくり返していたら、私が聖職への道を「決断」したのは、1954年8月のことだった。日付はすっかり忘れてしまった。高校2年の夏休み、ひとりで「東京聖会」(インマヌエル)に参加した時であった。すっかり忘れてしまっていたが、あの時、大阪から鈍行の夜行列車に乗って上京し、その車中で内村鑑三の『ロマ書研究』を読んだことは鮮明に覚えている。

日々の聖句2013 06月03日(月)

見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。(申命記10:14)
神は、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。(ヘブル1:2)
私の黙想:
2度目の十戒授与。イスラエルの民に対するモーセの大演説。なぜ、モーセは「私たちの神」と言わず、「あなたの神」 と言うのだろう。指導者モーセから「あなたの神」と言われたときのイスラエルの民の気持ちはどうだったのだろうか。モーセは民衆との間に一線を引いている。モーセは民衆から選ばれて指導者になったのではない。神から選ばれ、神から命じられて民衆を指導する立場に置かれている。選ばれるということはそういうことである。モーセの指導者としての権威の所在は民衆ではなく、選んだ神による。指導者は常に自分は誰に選ばれて指導者になったのかということを忘れてはならない。

日々の聖句2013 06月04日(火)

あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから。(イザヤ52:12)
パウロとバルナバは、到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。(使徒14:27)
私の黙想:
バビロン捕囚から解放されエルサレムに帰還する喜び。出エジプトの時の情景と比較している。あの時はエジプトの戦車隊から逃れるように脱エジプトをしたが、バビロンからの帰還は追われることがない。神が帰還集団の全行程を前からも後ろからも守って下さっている。
この聖句に続いて 謎の「主の僕の歌」が続く。この12節と13節以下(53章を含む)との関係が重要だ。主の僕、イスラエルはバビロンの捕囚中、バビロンの圧政に対して無抵抗(忍耐)であったから神はバビロンからの完全解放(栄光)という奇跡を行われたのか。

日々の聖句2013 06月05日(水)

罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを、あなたは贖ってくださいます。(詩65:4)
キリストは、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。(コロサイ2:14)
私の黙想:
ここは神殿に入るときに感じる「汚れ」、この汚れを取り除かないと神の前に立てないという意識。日本では伊勢神宮を参拝する際に、清流とされる五十鈴川の「御手洗い場」で、口と手とを清める習わしになっている。それが「禊ぎ(みそぎ)」である。それは伊勢神宮だけではなく、全ての神社でも行われている。そういう姿を見て、キリスト者である私でも「いいなぁ」と思う。
私たちが自分自身の「汚れ」を感じる場、そして禊ぎをすることによって、清められる場、それが神殿である。教会において、神殿が持っている「この機能」を果たしているだろうか。考えさせられる。

日々の聖句2013 06月06日(木)

なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。(イザヤ55:2)
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった。(ルカ24:30-31)
私の黙想:
「生きる」ということについての率直な疑問。いや、疑問という形での勧告。この聖句は身体的満足感、充実感が語られている。この聖句を具体的、現実的に表現し、政治の場での課題として権力者に義務づけているのが、日本国憲法第25条である。「全ての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とされている。素晴らしい憲法だ。問題はこの憲法を政権担当者がどれほど真剣に考えているのか、官僚たちが公僕としてこのためにどれだけ気配りをしているのかということである。
さて、それは「生きる」ということの最低保障であるが、その上で、聖書は次のことを語っている。この句に続いて「あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」と述べられている。これは疑問でもないし勧告でもなく、讃美である。豊かな精神生活、霊の充実である。

日々の聖句2013 06月07日(金)

天において、地において、海とすべての深淵において、主は何事をも御旨のままに行われる。(詩135:6)
主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。(1コリント10:22)
私の黙想:人が「当然のこと」「当たり前のこと」をわざわざ言うのには、何らかの含みがある。なぜ、それが当然なのか。だから、私たちはどうしなければならないのか。
ここではイスラエルの民の歴史が簡単に論じられ、神との特別な関係が述べられた上で、「イスラエルは神の宝」(4節)だということが当然のこととされ、だから「偶像を造り、それに寄り頼む者は、皆、偶像と同じようになる」、つまり偶像などに惑わされてはならないといましめられる。

日々の聖句2013 06月08日(土)

行くべき道を教えてください、あなたに、わたしの魂は憧れているのです。(詩143:8)
イエスは、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。(ルカ5:27-28)
私の黙想:
どう考えても、今日の聖句の前半と後半とはしっくりしない。全然別な方向を見ているようである。口語訳では「我が歩むべき道を教えてください。わが魂はあなたを仰ぎ見ます」。これなら納得する。フランシスコ会訳ならもっと明瞭だ。「わたしの歩むべき道を示して下さい。わたしはあなたに魂を委ねます」。祈祷書訳では前半と後半とを入れ替えて「心を込めてあなたを仰ぐ者の上に、行くべき道を示してください」、これなら素直な日本語になっている。自分の人生の方向を「憧れ」によって決定する訳にはいかないでしょう。全身全霊を委ねる相手を間違ってはいけない。

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