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概説:エラスムス著『痴愚神礼讃』(5)

2014-04-03 09:48:33 | ときのまにまに
概説:エラスムス著『痴愚神礼讃』(5)

Ⅵ「自画自賛」(61節~66節)
(a) 61節 痴愚女神の自画自賛
(b) 62節 痴愚についての一般評価
(c) 63節 自画自賛についての聖書の例証
(d) 64節 パウロによる愚かさ
(e) 65節 イエスにおける愚かさ

Ⅶ 「敬虔な狂気」(66節~67節)
(a) 66節 痴愚とキリスト教
(b) 67節 キリスト者の褒賞

結びの口上(68節) 

Ⅵ「自画自賛」(61節~68節)
(a) 61節 痴愚女神の自画自賛
「さて本題に立ち返りますと」と宣言しながら、この節では少しも痴愚女神の自慢話が聞かれない。ただ、述べられていることは、女神は思慮の足らない、向こう見ずな人間が好きだということ。知恵は人間を臆病にするので、知恵に支配される賢者は「気の毒な人生を送る」が、私の支配下にある愚者は「どっぷりと金銭に浸かって、国政の舵取りをまかされ」、この世で成功者になること間違いなしである。
注:この節で、初めて「わたしの友人エラスムス」という言葉が登場する。
(b) 62節 痴愚についての一般評価
痴愚女神を礼讚することは、要するに痴愚それ自体を評価することである。そこでまず他の人々が痴愚をどう見ているのかを確かめよう。
作者不明「物がない場合には、ある風を装うがよい」
作者不明「場に応じて愚を装うのは知の極み」
エピクロス「時には愚かな振る舞いをするのも楽しいものだ」
エピクロス「智者として煩悶するよりは、頭のおかしな、才乏しき者でありたい」
キケロの言葉「森羅万象は痴愚に満つ」
等々、痴愚は高く評価されている。
(c) 63節 自画自賛についての聖書の例証
聖書が痴愚をどう見ているのか。これがまた非常に面白い。
「愚か者の数はかぎりがない」コヘレト1:15(ヴァルガータ訳)。つまり人間のほとんどは愚者である。
「すベての人間は、その知恵により愚か者となる」 エレミヤ10:14(ヴァルガータ訳)。新共同訳では「人は皆、愚かで知識に達しない」。フランシスコ会訳では「人はみな、愚かで無知」となっている。彼は神のみを智者とし、すベての人間を愚かだとする。
「知恵ある者は、その知恵を誇るな」(エレミヤ9:22)。人間には誇るべき知恵がない。
「なんという空しさ、なんという空しさ、すベては空しい」(コヘレト1:2,12:8)。人間の生は痴愚女神のたわぶれごとにすぎないからである。
「意思の弱い者には無知が喜びとなる」(箴言15:12)。痴愚なくしては人生になんの喜びもない。
「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せぱ痛みも増す」(コヘレト1:18)。
「愚かなものは月のごとく変わるが、智者は太陽のごとく変わらぬままである」(シラ27:11)
「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」(コヘレト1:18)
「賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に」(コヘレト7:4)。
旧約聖書からの引用はもうこれ位で十分でしあろう。後は本文を読んでください。
新約聖書の方もちょっと覗いてみると、偉大な使徒パウロは自らを愚者と呼んでいる。
「愚か者のように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです」(2コリント11:23)。
この言葉の解釈を巡ってエラスムスが長々と議論を展開するが、それは省略する。

(d) 64節 パウロによる愚かさ
痴愚の重要性を例証するためにこんなに多くの証言を集めるということは馬鹿げていると痴愚女神は反省している。それでこの節では、聖書(あるいはそれに類する文書)からの引用の仕方について論じる。
パウロがアテネの町を歩いている時に偶然見かけたという碑文には「アジア、ヨーロッパ、アフリカの神々に、知られざる異国の神々に」と書かれていたという。それをパウロは見て、自分に都合がいいように「不要な言葉」を削除して「知られざる神に」という言葉だけを残して、説教を仕立てたというのである。こういうやり方は必ずしもパウロだけではなく、新約聖書における旧約聖書から引用の仕方がほとんどこれに類している。パウロ以後の神学者たちはパウロに倣って、あちこちから4つ5っのちょっとした言葉を引き剰がしてきて、必要とあらぱそれを自分に都合のいいように歪曲する。それも、前後の脈絡にまったく関係なくとも、ときには矛盾齟齬していようとも、まったくお構いなしにやるのである。あまりにもぬけぬけと厚顔無恥な態度でこれをやるので、法文に忠実に従う法律家たちから羨ましく思われているという。
その例を一つ。
キリストが弟子たちを派遣する際に、茨や石から足を護る履物もはかせず、飢えを満たす食物を入れた頭陀袋も持たせず、なんの道中の準備もしてやらなかったが、それでなにか不自由したものがあるかと問われ、弟子たちが何も不足したものはなかったと答えると、さらにこう言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを捨てなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」(ルカ22:36、ヴァルガータ訳)といわれた。キリストが弟子たちに教え諭そうとしているのは、優しさと、忍耐と、現世蔑視である。キリストは御自分のがわされる者たちをさら無一物にして履物や頭陀袋も持たせず、下着まで脱いで裸身となって、ひたすら伝道の任に向かわせ、身に帯びるのはただ剣のみとなさったのである。その剣とは盗賊や親殺しどもがふるう剣ではなく、精神の剣であって、心の奥底まで貫き通し、あらゆる情念を断ち切って、心にはただ敬虔さのみが残るといった剣なのである。
さてこの一節を、かの高名なる神学者先生がどんな具合に歪曲しているか。彼らによると、剣とは迫害から身を護るためであり、頭院袋とは十分な食料のことであって、キリストがそれまでとは考え方を変えたのである。今までのように御自分の使徒たちがあまりにも惨めな格好で遣わしたと思われないように前言を取り消したのだと言うのであるまるで悔辱され、蔑まれ、責め苦にあう者は幸いであると仰せられたことも、悪しき者に対しても抵抗することを禁じられ、雀や野の百合を見よと語られたこともきれいに忘れてしまわれたみたいである。使徒たちを剣を持たずには発たせたくないから、下着を売ってでも買えと命じ、剣を帯びずにいるぐらいなら裸で行くがよいと言われたのだという解釈である。その上この大先生たちは剣という名のもとに、なんであれ暴力を退ける武器を考え、同様に財布という名のもとに、生きるために必要なものがすベてが含まれていると考えたのである。そういうわけでこの神の御意志の解釈者は、使徒たちを槍や弩弓や投石機や、石弓などで武装させ、十字架にかけられたキリストの教えを伝えるベく送り出そうというのである。また、宿を出る際に空腹であったりしてはいけないというので、彼らに箱だの革袋だのいろんな荷物だのを背負わせるのである。キリストが買えと命じた剣を、その後ですぐに諌めるような口調で、鞘に収めよと命じている事実を、この先生方はどう解釈するのだろうか。異教徒たちの暴力に対して、使徒たちが槍や盾を用いたなどとは、風のうわさにも聞いたことはありませんが、もしこの先生方が解釈しているようにキリストがお考えだったとしたら、それを用いたことであろう。
ここではエラスムス自身は自分の体験を語っている。最近ある神学討論に加わりました。その際ある人が異端者は論議を尽くして改心させるよりも焼き殺したほうがよいと主張するので、それは聖書のどの章句に基づいているかと尋ねると、その労神学者は怒気を含んだ調子で、それは次のパウロの掟にあると答えたのである。「分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい(デヴィータ)」(テトス3:10)。そしてこの老神学者はこの最後の単語「デヴィータ」をしつこく大声で繰り返すので一座の人々は、この男は頭がどうかしたのではないかと思ったほどであったという。つまり、この老神学者は「かかわりを持たないようにしなさい」というパウ口の言葉「デヴィータ」を異端者を「その命から」デヴィータせよ、つまり「取り去れ」「殺せ」と解釈したのである。まるでオウム真理教での「ポア」という言葉と同じである。それを聞いて笑い出した人たちもいたが、このような解釈こそまことに神学的だと思った手合いもいた。
(e) 65節 イエスにおける愚かさ
この節の初めの部分で「無花果頭の神学者であるこの私」という語があるので、ここでははっきりしとエラスムス自身の文章であることを示している。イエスが愚かさについてどう考えていたかということについてエラスムスはルカ福音書におけるエマオの途上での出来事を取り上げて、イエスは2人の弟子たちを「愚か者」(ルカ24:29)と呼んでいると言い、パウ口も神にもいささか痴愚なるところがあると言う。「神の愚かさは、人間よりも賢い」(1コリント1:25)とも言っています。オリゲネはこの句は神の愚かさは人間の思慮に比することはできないという意味であり、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが」(1コリント1:18)と同じことを意味していると解釈している。しかしなぜこんなこと多くの例証を挙げて証明しなければならないのだろうか。それらはすべて無駄な骨折りである。キリスト自身が詩編の中で父なる神に向かって、「神よ、わたしの愚かさは、よくご存じです」(69:6)と言っておられるということで十分ではないか。愚者が神の御心にかなうというのはある意味で当然のことである。それは王が才気に走った人間には警戒心を懐き、愚かな人間を愛するのと似ている。
パウ口はこのことについて「神は世の愚かな者たちを選び」(1コリント1:27)あるいは「神は知恵を持って世を救うことができなかったので、愚かさをもって世を救うことをよしとなされた」(同1:21)、さらに「私は知恵あるものを滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」(同1:19、イザヤ29:14)。もう十分であろう。つまり、神は智者たちには救いの神秘を隠して、小さき者たちつまりは愚者にはこれを開示されたのである。
聖霊にしても、鳩の形で地に降ってきたのであり、鷲や鳶の形でではない。キリストも神の叡智の体現であるにもかかわらず、人間たちの愚かさを救済するために人間の本性をまとわれ、人間の形で姿をあらわされたとき、なにほどかは愚者となられたのである。罪を贖うのに十字架の愚と、愚味で頭の鈍い使徒たちによる以外の方法は望まれなかったのである。使徒たちを知恵に近づかぬように、熱意を込めて痴愚の大切さを説き、彼らに幼子や百合の花や芥子種や小雀のように、愚かで理性を欠き、ただ自然のみに導かれ、人為も煩いもなく生きているものの例に倣えと呼びかけられたのである。
しかし何よりも有力な証拠は、十字架の上でキリストがその敵どものために次のように祈っておられる。「父よ、彼らをお赦しください」と言われ、もっぱら無知を彼らのための言い訳としているのです。「自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と言われたのでした。

Ⅶ 「敬虔な狂気」(66節~67節)
この部分は、既に「エラスムスの信仰論」としてブログに掲載しているので、省略する。
  http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/c0c3fad4c45cba2302074118e375142b

結びの口上(68節) 
最後の結びの口上が実に面白いので、そのまま引用しておきます。
あれまあ、私としたことが、だいぶ前から我を忘れて脱線してしまいましたね。この私があんまりにも無遠慮にものを言い、おしゃベりが過ぎると、皆さまが思われましても、そうしているのが痴愚女神であり、女なのだということをとくとお考えください。それはそうとして、「愚者も時には時宜を得たことを語る」というギリシアの諺を思い出していただきたいものですね。ひょっとして、それは女にはあてはまらないなどと思っていただきたくはありません。どうやらみなさんは結びの辞を期待しておられるようですね。でもこんなにも遠慮無くしゃベり散らかしておきながら、この私が自分の言ったことを覚えているなどと万が一にもお考えなら、そりゃ阿呆の度が過ぎるというものですよね。昔から諺にも「物覚えのいい飲み仲間は憎たらしいもの」と言われておりますが、ここでもう一つ新しいのを加えまておきます。「物覚えのいい聴衆は憎たらしいもの」とね。
されば、ごきげんよう。拍手喝采の程を。御健勝にて、御献酬なさいませ。痴愚女神の秘儀に通じた、その名もいや高きみなみな様。
完(テロス)。

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