村上陽一郎著「やりなおし教養講座」(NTT出版)を読んで(その一)
リベラル・アーツ
村上氏の「やりなおし教養講座」を読んだ。非常に刺激的で、読み応えがあった。読後直後の率直な感想は、昭和11年(1936年)、子年生まれの日本人全員にぜひ読んでもらいたいということである。村上氏とたまたま同じ時間を共有したということを誇りにして、同級生の気分で、この本を読んで欲しい。何しろ、彼はわたしたちと同じ年に生まれた人の中で、日比谷高校から東大へと進み、しかも東大で博士課程を修了し、上智大学で助教授となり、東大に戻って教授、定年退職後は国際基督教大学大学院の教授である。同世代の日本人のトップと言って過言ではない。彼の他のより専門的な著書を読まなくでも、この本を読むだけでも、彼がその名誉に価することは間違いない、と思うであろう。
本書の85頁あたりには、彼が卒業した学部が教養学部であるということに、一種の「劣等感らしきもの」を感じているようであるが、それについても見事に「反論」している。世界の高等教育の有り様というレベルを見れば、日本の大学における「教養(リベラル・アーツ)」の制度的位置づけの方がいびつなのであって、その結果日本のおいては「教養なき知的エリート」の集団が形成されてしまっている。この辺の議論は、大学とはこんなものだと思っている日本人の多くにはあまり興味がないことではあるが、少なくとも、という意味は地方の私立大学文化系の人々も含めて、大学というところに関係している人々にはぜひ読んでいただきたい議論である。
わたしたちが小学校3年(当時は国民学校と呼ばれていた)の時、日本は戦争に負けた。その後、日本はアメリカによる占領政策により、「民主主義」の名のもとに戦前戦中のあらゆる思想・制度は「封建的」というレッテルが貼られ、廃棄された。教育も同様であった。というより、最もそのことが徹底されたのが、教育であった。村上陽一郎氏は「戦後民主主義」のもとで教育されたにもかかわらず、その悪影響を最小限にとどめ、立派に国際的にも通用する教養人に育ったのは、「大正教養主義の雰囲気にどっぷり浸かって育った」(122頁)父親の影響であろう。ちなみに、大正教養主義とは、武士道の精神が支配的な明治文化に、西欧のデモクラシー思想を接ぎ木した「あだ花」のような文化である。昭和と呼ばれる時代に入ると、まもなく軍国主義が勃興し、華やかに咲き誇った大正教養主義は桜が散るように散らされてしまった。昭和11年という年はれいの二二六事件の年で、時代を区分する記念すべき年である。村上氏にとって幸いであったことは、敗戦にもかかわらず、そして多くのインテリが挫折し、自信を喪失したの中で、父親は息子の教育において自信を失わなかったことであろう。(これはわたしの推測)終戦後も、高校3年までの約9年間、父親の庇護の元で育てられている。父親が亡くなられてからは、「家を半分に割って二世帯住めるように改造し、アメリカの軍属や兵隊の家族に貸して」(152頁)生活の糧を得ている。もうそれだけで、わたしたちには夢のような話しである。
昭和11年生まれの人間として、たとえ、自分を省みてそうではなくても、「同級生」の中にこういう教養人がいることを大いに誇りに思っていいし、少なくともわたしたちにはそういう生き方ができた可能性はあったのだと考えられないこともない。ここには単純なファン意識を越えた同類意識がある。
と同時に、それとは矛盾した感情ではあるが、「こりゃかなわんなぁ」という気持ちが沸々と涌き上がってくる。こちらが、北朝鮮で飢餓線上をうろうろしていた頃、終戦1年後に生命からがら帰国してからも、食べるために小学生の子どもまで必死になって働いていた頃、「父親の書斎にあった漱石の全集を片っ端から読み始めていた」(236頁)小学生がいたなんて、信じられない(決して「疑っているわけではない」ただ、文句なく脱帽し尊敬しているだけである)。ついでに、付け加えると、わたしなどは70歳に近づいた今でも名前も聞いたことがない「アンドレ・マヨッキの『外科医の手記』」などを、「かなり面白く繰り返して」読んでいた小学生がいたなんて。こうなるともう、教養の差なんていうものをはるかに越えて、人種が違うと思ってしまう。そこでは「おないどし」というようなロマンティシズムは吹っ飛び、「やっぱり違うなぁ」という疎隔意識が支配する。そうなると、せっかくの村上先生の言いはる「規矩」ちゅうものも、結局わしらの「けじめ」とは違いまんなぁ、ということになる。(2005.4.15)
リベラル・アーツ
村上氏の「やりなおし教養講座」を読んだ。非常に刺激的で、読み応えがあった。読後直後の率直な感想は、昭和11年(1936年)、子年生まれの日本人全員にぜひ読んでもらいたいということである。村上氏とたまたま同じ時間を共有したということを誇りにして、同級生の気分で、この本を読んで欲しい。何しろ、彼はわたしたちと同じ年に生まれた人の中で、日比谷高校から東大へと進み、しかも東大で博士課程を修了し、上智大学で助教授となり、東大に戻って教授、定年退職後は国際基督教大学大学院の教授である。同世代の日本人のトップと言って過言ではない。彼の他のより専門的な著書を読まなくでも、この本を読むだけでも、彼がその名誉に価することは間違いない、と思うであろう。
本書の85頁あたりには、彼が卒業した学部が教養学部であるということに、一種の「劣等感らしきもの」を感じているようであるが、それについても見事に「反論」している。世界の高等教育の有り様というレベルを見れば、日本の大学における「教養(リベラル・アーツ)」の制度的位置づけの方がいびつなのであって、その結果日本のおいては「教養なき知的エリート」の集団が形成されてしまっている。この辺の議論は、大学とはこんなものだと思っている日本人の多くにはあまり興味がないことではあるが、少なくとも、という意味は地方の私立大学文化系の人々も含めて、大学というところに関係している人々にはぜひ読んでいただきたい議論である。
わたしたちが小学校3年(当時は国民学校と呼ばれていた)の時、日本は戦争に負けた。その後、日本はアメリカによる占領政策により、「民主主義」の名のもとに戦前戦中のあらゆる思想・制度は「封建的」というレッテルが貼られ、廃棄された。教育も同様であった。というより、最もそのことが徹底されたのが、教育であった。村上陽一郎氏は「戦後民主主義」のもとで教育されたにもかかわらず、その悪影響を最小限にとどめ、立派に国際的にも通用する教養人に育ったのは、「大正教養主義の雰囲気にどっぷり浸かって育った」(122頁)父親の影響であろう。ちなみに、大正教養主義とは、武士道の精神が支配的な明治文化に、西欧のデモクラシー思想を接ぎ木した「あだ花」のような文化である。昭和と呼ばれる時代に入ると、まもなく軍国主義が勃興し、華やかに咲き誇った大正教養主義は桜が散るように散らされてしまった。昭和11年という年はれいの二二六事件の年で、時代を区分する記念すべき年である。村上氏にとって幸いであったことは、敗戦にもかかわらず、そして多くのインテリが挫折し、自信を喪失したの中で、父親は息子の教育において自信を失わなかったことであろう。(これはわたしの推測)終戦後も、高校3年までの約9年間、父親の庇護の元で育てられている。父親が亡くなられてからは、「家を半分に割って二世帯住めるように改造し、アメリカの軍属や兵隊の家族に貸して」(152頁)生活の糧を得ている。もうそれだけで、わたしたちには夢のような話しである。
昭和11年生まれの人間として、たとえ、自分を省みてそうではなくても、「同級生」の中にこういう教養人がいることを大いに誇りに思っていいし、少なくともわたしたちにはそういう生き方ができた可能性はあったのだと考えられないこともない。ここには単純なファン意識を越えた同類意識がある。
と同時に、それとは矛盾した感情ではあるが、「こりゃかなわんなぁ」という気持ちが沸々と涌き上がってくる。こちらが、北朝鮮で飢餓線上をうろうろしていた頃、終戦1年後に生命からがら帰国してからも、食べるために小学生の子どもまで必死になって働いていた頃、「父親の書斎にあった漱石の全集を片っ端から読み始めていた」(236頁)小学生がいたなんて、信じられない(決して「疑っているわけではない」ただ、文句なく脱帽し尊敬しているだけである)。ついでに、付け加えると、わたしなどは70歳に近づいた今でも名前も聞いたことがない「アンドレ・マヨッキの『外科医の手記』」などを、「かなり面白く繰り返して」読んでいた小学生がいたなんて。こうなるともう、教養の差なんていうものをはるかに越えて、人種が違うと思ってしまう。そこでは「おないどし」というようなロマンティシズムは吹っ飛び、「やっぱり違うなぁ」という疎隔意識が支配する。そうなると、せっかくの村上先生の言いはる「規矩」ちゅうものも、結局わしらの「けじめ」とは違いまんなぁ、ということになる。(2005.4.15)