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三木清『現代日本における世界史の意義』

2015-11-09 12:46:15 | 三木清関係
三木清『現代日本における世界史の意義』(『改造』1938年6月号、全集第14巻)

世界史的見方の必要を私が述ベるのは今が初めてではない。この事変の当初にも私はそれについて既に論じておいた筈である。その後支那事変の発展に伴って日本に現はれた思想の情況を私は努めて虚心担懐に観察してきたつもりであるが、今に至っても私は私の見方を変更すべき理由を認めない。むしろ私は世界史的見方の必要を益々痛切に感じるのである。

現在日本が大陸において行いつつある行動がどのような事情から生じたかについては種々の批判があり得るであろう。しかし時間は不可逆的であり、歴史は生じなかったようにすることはできない。そしてもし出来事が最後まで傍観していることのできるような程度のものであるならば傍観していることも好いであろうが、もしそれがあらゆる傍観者を否応なしに一緒に引き摺っていくような重大な帰結を有すベき性質のものである場合、過去の批判にのみ過すことは我々には許されない。それがどのようにして起ったにせよ、現に起こっている出来事のうちに我々は「歴史の理性」を探ることに努めなければならない。歴史の理性は当事者のある個人、ある集団、ある階級等の主観的意図から独立に自己を実現する。マケドニァの王アレクサンドロスの遠征は彼の功名心から出たことであったかも知れない。しかしそれは彼の崇拝していたギリシア文化の世界化を結果し、 ここにヘレネドムから ヘレニズムへの、即ちギリシア文化から世界文化ヘの、あるいはギリシアの古典文化から現代文化ヘの展開という世界史的意味を実現したのである。ケロネーアの戦争はこのような時期を画する出来事であった(坂口昂著『概観世界史潮』40頁以下を見よ)。現在起っている出来事のうちに我々は歴史の理性を発見し、これに従って出来事を指導していくようにしなければならない。このような理性的意味は直接には発見することができず、その出来事が無意味に見えるということも可能である。しかしそのような場合には尚更らそれに対して歴史の理性の立場から新たに意味を賦与することに努力する必要がある。テォドール・レッシングの言葉を転用すれば、歴史とは「無意味なものに意味を与えること」である。新たに意味賦興がなされることによって不可逆的な時間も可逆的になされる。支那事変に対して世界史的意味を賦興すること、それが流されつつある血に対する我々の義務であり、またそれが今日我々自身の生きていく道である。

支那事変を契機として従来の日本精神論に新たな転回が必要であることを私は種々の機会に述べてきた。それなのに自体は少しも改善されていないように思われる。日本精神の世界的意味を問うことは自由主義の迷妄に過ぎないかのように排斥される。日本が初めて世界史の舞台に進出した明治時代——世界史的眼光を有した歴史家坂口昂博士の言葉に依れば、ジャパンドムからジャパニズムヘの飛躍の時代——は単なる欧化主義の時代に過ぎなかったかのように言って非難される。私は単に知性の普遍性、学問の国際性というような見地から世界史的見方の必要を説くのではない。このような抽象的な論理の立場においてでなく、むしろ現実の具体的な歴史の立場において私は世界史的見方の必要を主張するのである。日本文化の特殊性を力説するのみでは支那における日本の行動の基礎は与えられないであろう。日本文化の特殊性に対して支那人がこれを専重することを求めるのは正当である、けれども同時に我々は支那文化の特殊性に対してこれを尊重しなければならない。日本固有のものといわれるものを支那人に強要することは無意味であるのみでなく不可能でもある。特殊なものと特殊なものとが結び付くためには一般的なものの媒介が必要である。日本と支那とが結び付くためには東洋というものが考えられるであろう。日本精神の問題は東洋精神の問題を離れて考えられない。支那の研究は日本の研究に欠くことの出来ない条件である。しかるに歴史的に見れば、東洋というものはこれまで、西洋がギリシア文化とキリスト教以来一つの内面的統一を有する世界を形成しているのと同様の意味において一つの内面的統一を有する世界を形成していなかった。これは津田左右吉博士の明瞭に論ぜられているところである (岩波講座『東洋思潮』中 「文化史上に於ける東洋の特殊性」を見よ)。かくして、 まさにそこから支那事変の含む世界史的意味は「東洋」の形成であると見ることができるであろう。日支提携といい日支親善というのは、これまで世界史的な意味においては実現されていなかった東洋の統一がこの事変を契機として実現されていくという意味でなければならない。この場合、東洋の統一ということは東洋における日本の制覇というがような帝国主義的観念と混同されないことが大切である。更に東洋の形成という世界史的意味は、日本の世界史の舞台への登場が西洋の近代文化との接触によって可能になったように、西洋との関係を無視しては考えられない。西洋の統一が東洋で生れて西洋へ入ったキリスト教に媒介されて可能になったように、ここに実現さるベき東洋の統一は西洋で生れて東洋ヘ入ってきた科学的文化に媒介されて可能になる。「東洋」の形成される日は真の意味において「世界」の形成される日である。この真の意味における世界の形成から離れて東洋の形成は考えられず、そしてそこに我々は現在の事変における世界史的意味を認めることができるであろう。

ランケに依れば、「世界史とはあらゆる民族及び時代の出来事を、それらが相互に影響しつつ、前後して(また同時に)現れ、相共に一つの生きた全体を形作る限りにおいて、包括するものである」。ラ ンケはこのような世界史を叙述しょうとした秀でた歴史家であるが、 彼のいう「世界史」が 「ヨーロッパ主義」(オイ ロペイイズムス)に局限されていることは今日の西洋の学者も認めていることである。西洋人のいはゆる世界史がヨーロッパにほかならないことは、あの「世界戦争」後に至って初めて広く認識され初めたことである。このときシュペングラー流の「西洋の没落」の思想が伝播された。この思想は元来、西洋文化が没落して東洋文化が繁築するというような意味を持つものではなく、むしろ従来世界史そのものと見られていたものが単にヨーロッパ主義に過ぎなかったということの悲劇的自覚を現わしている。かくしてシュペングラーは、世界の諸文化は普遍的な統一を形作ることなく、あたかも種々なる地域に分布された植物のように、地球上のそれぞれの地域において芽生え、成長し、開花し、凋落行く者と考えた。彼の文化形態学は世界史の統一の意識の破綻から生じた観照である。それ故に今日、真に行動的な民族は世界史の新しい統一の意識をもって現はれて来なければならない。

ヨーロッパ主義の観念を普及させたトレルチは言っている。「我々にとってはただ ヨーロッパの世界史が存するのみである。世界史の古い思想は、新しい一層謙遜な形を採らねばならない」(『歴史主義とその諸問題』 参照)。 「全体としての人類は何等の精神的統一を有せず、 従ってまた何等の統一的発展を有しない。ひとがこのようなものとして挙げる一切は、決して実在しない主体について形而上学的お伽話を物語るロマンである」。トレルチがヨーロッパ主義の倣慢に対して警告しているのは正当である。我々東洋人はなお更らヨーロッパ主義が世界史そのものと同一視されることを認め得ないであろう。しかしトレルチが世界史の概念はヨーロッパ主義以外においては不可能であると言っていることは認められ得るであろうか。これまで東洋が西洋と同様の意味における統一を有しなかったことは事実である。けれどもそれは永久にそうであるとは考えられない。トレルチが世界史の概念をヨーロツパ主義に限定しようとしたことは、世界史をただ過去においてのみ見て将来に向って見ようとはしなかったことに基いている。東洋の統一もいづれは実現され、真の意味における世界の統一に対する重要な契機となるに相違ない。しかも、もしヨーロッパ主義によって世界史を考えることができないとしたならば、ヨーロッパ主義と抽象的に対立させられた東洋主義によっても世界史を考えることができない筈である。世界の新しい秩序の構想なくしては東洋の新しい秩序の構想も不可能である。世界の統一ということは世界が唯一色になることでないように、東洋が唯一色になることではない。「征服者、植民家、伝道家は全てのものの内にヨーロッパ的思惟を差し込む。それは彼の実践上の力と効果との源泉ではあるが、しかしまた多くの理論上の誤謬や誇張の源泉でもある」とトレルチは書いている。世界史の統一の名のもとに働くヨーロツパ的思惟はこの場合実は帝国主義と結び付いていたのである。今日においてはもはやこのような思惟によっては世界の統一も東洋の統一も考えられない筈である。日本の世界的使命が東洋の統一の実現であるとしても、それは「すベてのもののうちに日本的思惟を差込む」ことであるのではない。このような思想は「多くの理論上の誤謬や誇張の源泉」となるのであって、理論上の誤謬はまた究極において実践上の成功をもたらし得るものではない。

もし東洋の統一が真に世界史的な課題であるとするならば、それは今日極めて重要な課題を含んでいる。即ちそれは資本主義の問題の解決である。資本主義の諸矛盾をいかにして克服するかということは、今日の段階における世界史の最大の課題である。この課題の解決に対する構想なしには東洋の統一ということも真に世界史的な意味を実現することができない。東洋の資本主義的統一というだけならば真に世界史的な意味を有する出来事ではないであろう。

このようにして現代の日本が直面している問題は世界史的な観点からのみその意味を完全に理解し得るものである。日本精神といい東洋精神といっても、世界史の立場から把握されるべきであり単に日本の特殊性や東洋の特殊性を解釈するに止っている限り、日本の行動の原理となるには不十分である。日本の行動にとって要求されているのは世界史の哲学でなければならない。

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