三木清『東亜思想の根拠』(『改造』1938年12月号、全集第15巻)
1.
さきに私は 「現代日本に於ける世界史の意義」(本誌6月号、全集第14巻収録)と題する小論において支那事変の世界史的意義を論じ、それがいはば空間的には東洋の統一の問題の解決に、他方いわば時間的には資本主義の問題の解決に存することを述ベた。このような見方は最近次第に一般に語られるようになった東亜協同体の思想のうちに具体的に表現されるに至ったかのように思われる。そこで私はいま再びさきの問題を取上げ、これを発展させることによっていわゆる東亜協同体の思想がいかなる根拠を有すベきかに就いて若干論じてみよう。
東亜協同体の思想——簡単に東亜思想と呼ぶ——を論ずる立場は依然として世界史的な立場でなければならない。もしも東亜思想が世界史の統一的な理念を放棄することによって生れるものであるとすれば、それは結局反動的な意義しか有しないことになるであろう。東亜という語は地域的なものを表している。それは今日現実的には日満支を指している。やがて述べるような意味において私はもちろん地域的な考え方にもある重要性を認める。しかしながら東亜思想が単なる地域主義、即ち地域的分離主義、地域的閉鎖主義、乃至は地域的便宜主義、あるいは更に単なる地理的宿命論、あるいは風土主義、等々のものである、とすれば、それは世界史の統一的な理念を有するものであることができない。東亜とう語が地域的な名称であるだけ、我々はこのような地域主義の考え方に陥らないように特に注意することが必要である。単に地域的に考えられるような思想は真の思想の名に値しないであろう。日本が世界史の発展の統一的な理念を掲げて立つことによってのみ今次の事変は真に世界史的意義を獲得することができるのである。
ところで世界史的見地において東亜思想を論ずる場合、2つの点が問題になってくる。即ち一方においては東亜思想の民族主義乃至国民主義に対する関係の問題であり、他方においてはそれの国際主義乃至世界主義に対する関係が問題である。
支那事変の当初から私は種々の機会にこの事変が偏狭な民族主義の超克の契機となるであろうということを繰返し述ベてきた。そのことは今や東亜協同体の思想の出現によって実証されるに至ったかのように見える。東亜協同体は言うまでもなく民族を超えたある全体を意味している。しかし私は民族主義乃至国民主義が世界史の現段階において有する意義を全く否定しようとする者ではない。そこに誤解があってはかえって真に具体的な世界史的見方が失われることになるであろう。後に論ずることを先取しつつ、誤解のないように予め言っておけば、民族主義乃至国民主義は今日次の3つの点から考えて重要な意義を有している。第1に、それは現在抽象的なものになった近代的世界主義もしくは国際主義の克服にとってその否定的契機となり、そこから新しい意味における世界主義の発展してくることが可能にされるという意味において重要性を有している。第2に、それは東亜協同体というような民族を超えた全体を考えるにしても、その中において各々の民族あるいは国家がそれぞれの個性、独立性、自主性を有するのでなければならないという意味において重要性を有している。第3に、どのような世界的意義を有する事柄も、抽象的に普遍的に実現されるものでなく、かえって常に一定の民族において最初に実現されるという意味において、言い換えれば、どのような世界史的な出来事もつねに一定の民族の行動として開始されるという意味において、民族主義には正しい見方が含まれているのである。
2.
このようにして我々は先ず、支那における民族主義の意味を正しく理解しなければならない。すべて戦争はこれに参加する国々においてその民族主義を喚起する性質を有している。支那における現在の民族主義にもそのような方面があることは確かである。しかし支那における民族主義の台頭は事変以前からのことであり、それは単に抗日というようなことが以上に内的な必然性を有している。即ちそれは支那の近代国家ヘの発展に伴うものであり、その限りこの民族主義は歴史的必然性と進歩的意義とを有している。それは日本自身があの明治維新の頃に尊皇攘夷の名において経験してきたものと類似するところがある。我々は支那における民族主義が支那の近代化にとって有する歴史的必然性と進歩的意義とを十分に認識しなければならない。この認識なしに支那の民族主義的傾向を単純に排撃し、その三民主義にいう民族主義を抽象的に否定するようなことはかえって反動的なことになるであろう。我々は支那の近代化ヘの歴史的に必然的な運動を阻止することができないし、また阻止すベきでもない。寧ろ支那の近代化こそ東洋の統一の前提であり(拙論「日本の現実」中央公論昨年11月号、全集第13巻収録、参照)従ってまた東亜協同体の形成にとっての前提である。日本は支那を征服しようとするものでない以上、支那の近代国家への発展を阻止すベき理由はない筈である。まして日本の国内に向っては民族主義を唱へつつ支那に対してはその民族主義を否定するというような矛盾を犯してはならない。もし日本において民族主義が今日何らか重要な意義を有するとすれば、それは支那においても同様の意義を有すぺき筈である。また逆に支那における民族主義に一定の制限が置かれねばならないとすれば、日本における民族主義にも同様の制限が認められねばならない筈である。このように考えていくのが東亜協同体的な考え方であると言い得るであろう。それのみでなく我々は歴史の現在の段階における支那の民族主義の特殊性を理解しなければならない。それは支那の近代化が日本よりも遅れて行われているという事情に基く特殊性である。いはゆる東亜協同体は単なる民族主義の上に立つことができない。その限り支那の今日の民族主義は批判されるベきものであり、しかもその批判は世界史の現在の段階がもはや単なる民族主義の時代ではないという点から、言い換へれぱば東亜協同体の思想の世界史的意義を闡明することから出立しなければならないであろう。
三民主義は救国主義であると既に孫文が言っているように、支那の民族主義は支郡の国家的独立の要求である。そして支那の独立は日支の共存共栄を意味すべき東亜思想にとってその前提でなければならない。支那の独立を妨げているのは列国の帝国主義である。日本の行動の意義は支那を白人帝国主義から解放することにあると言われるのである。この解放なしには東洋の統一は実現されない。しかしまたもし日本が欧米諸国に代わって支那に帝国主義的支配を行うというのであれば、東亜協同体の真の意義は実現されないであろう。白人帝国主義の駆逐という場合、駆逐さるべきものは帝国主義であって白人ではない。東亜協同体は本質的に白人に対しても門戸の開かれたものでなければならず、ただその帝国主義的侵入を許さないのである。東亜協同体の建設を目標とする日本みづからも同様に帝国主義的であることができない。しかるに帝国主義の問題は資本主義の問題である。かくて東洋の統一という空間的な問題と資本主義の解決という時間的な問題とは必然的に一つに結び付いている。東洋の統一の思想は白人の歴史が即ち世界の歴史であるかのように考える世界史についてのいわゆるヨーロッパ主義、世界を白人的見地からのみ考える思想を打破して真の世界の統一を実現すべき意義を有している。東洋の統一もまた単に日本的見地からのみ考えられてはならない。東洋の統一の実現がかえって真の世界の統一の基礎であるように、支那の統一の実現がまた東洋の統一の基礎であるのであり、この支那の統一を実現するものである限り支那の民族主義には東亜協同体の立場からも意義が認められねばならない。しかしながらこのように民族的に統一された支那がいかなる新しい政治的構成を有すベきかは、東亜協同体という新しい全体の見地から考えらるベきことである。なぜなら単なる民族主義の立場においては東亜協同体の建設は不可能に属するからである。
3.
民族主義が20世紀の思想であるということはできないであろう。世界史的に見れば、民族主義乃至国民主義の時代はあのルネサンスの時代であった。ルネサンスの時代は中世の教会的世界主義が破れて国民主義が現われ、近代的な国民国家の成立に基礎がおかれた時代である。中世を支配したのは地上における神の国の観念、あらゆる民族的、社会的、文化的差異を超えたカトリツク教会的な普遍的文化の観念であった。ルネサンスにおいて見られるのはこのような神の国の観念の没落と統一的カトリック的文化のそれぞれ独立な国民的文化ヘの分裂である。中世の世界語であったラテン語に対して国語の価値が認識され、「国民文学」が現はれたのもこの時代のことである。ダンテは「俗語論」を書き、イタリア語で不朽の傑作を遺した。イタリアにおけるヒューマニズムの出現はイタリア人の国民的意識の覚醒と結び付いていた。
このようにしてルネサンスの国民主義は中世の教会的世界主義を破って現われたものと見られ得るが、それは同時に世界的意義を担っていたのである。世界のルネサンスに先駆したイタリアの国民主義は自己の内に同時に近代的社会の普遍的原理を具えていた。それ故にこそ当時イタリアに国民主義の出現は世界史的なものであった。この国民主義はそれ自体としては特殊的なものであったにせよ、同時に普遍的意義を有したのであって、新しい世界秩序を指示していたのである。このやうにして歴史そのものが教えるように、すベて真に歴史的なものは特殊的にして同時に普遍的なものである。単に特殊的であって普遍性を有しないものは真に歴史的なものということができない。今日いわゆる東亜協同体が世界史的意義を有すベきものであるとすれば、それは東亜という特殊性を具えたものであることは勿論であるが、単に特殊的なものでなくて同時に普遍的なものでなければならない。言い換えれば、それは東亜の地域に限られないで世界の新しい秩序に対して指標となり得るようなものでなければならない。東亜の新秩序は世界の新秩序であり得ることによって東亜の新秩序ともなり得るのである。従って東亜の新秩序は今日の世界的な課題即ち資本主義の問題の新しい解決を提げて現はれるのでなければならない。東亜協同体は東亜に建設されるものとして特殊的であり、ある閉鎖性を有するものであるにしても、それは普遍的原理を含むものとしてどこまでも開放的であって世界の諸国の自由に出入し得るようなものでなければならない。
中世的世界主義に対して国民主義として出立した近代的社会の形態は、そのうちに普遍的原埋を含むことによって次第に世界化され、世界の現実は歴史の発展と共に次第に世界的になった。今日の世界の一切の事情が過去の歴史のいかなる時代に比しても世界的になっていることは明白な事実である。それは世界主義の勝利を意味するということができる。従って今日世界に国民主義とか民族主義とかが現はれたとすれば、それは、逆説的に聞えるにしても、世界の現実がいよいよ世界的になったために現はれた民族主義であり国民主義であるといわねばならない。世界は現在ますます世界的になったのであるが、近代的な世界主義が抽象的なものである限り、その抽象性の故に世界主義に対して否定的な国民主義乃至民族主義の現われてくる理由があった。しかし他方すでに世界の現実がいよいよ世界的になっている以上、世界史の現在の段階において民族主義や国民主義の有する意義は制限されている。即ちそれは近代的な抽象的な世界主義に対する否定の契機になるというに止まるのであって、行き着くベきところは最早や単なる民族主義や国民主義であることができない。今日はある意味では近代的世界主義の分裂の時代であるといわれるであろう。しかしながらこの分裂はもはや単に民族主義乃至国民主義への分裂ではあり得ない。固有な意味における、そして真に進歩的意義を有した国民主義はルネサンスの時代のものであった。このようにして今日東亜共同体というような民族を超えた一全体の構想の有する重要な意義が認められるのである。抽象的な近代的世界主義は世界の諸地域における、例えば東亜協同体のように種々の独自な新しい全体社会ヘ分裂すると考えられるであろう。けれどもこの分裂は単なる分裂であるのでなく、かえって新たな統一のためのものであり、一層具体的な世界主義ヘ道を開くものでなければならない。このようにして東亜協同体は新しい世界秩序に対する普遍的原理を内在せしめているのでなければならず、世界の新秩序の形成にとって動力となるものでなければならない。
近代的な世界主義はいかなる意味において抽象的であったのであろうか。それは各々の民族の有する固有性や特殊性に対する深い認識を有しない点において抽象的であると言われるのがつねである。それは実に近代的原理の上に、言い換えれば自由主義の上に立っているが故に抽象的であるのである。近代的自由主義は個人主義である。即ちそれにとっては個人が先であって社会が後のものである。アトムのように独立な個人が先づ考えられ、社会はしかる後にこのような個人が本質的には個人的立場から取結ぶ関係として出来てくるもののように考えられる。あの社会契約説は近代的社会観の典型的なものである。同じように近代的世界主義にとっては各々の国家がアトミズム的に先づ考えられ、世界はこのような国家の、本質的にはそれぞれの国家の立場における関係として後から出来てくるもののように考えられる。近代的世界主義は固有な意味におけるインターナショナリズム、即ちそこでは世界は単にネーションとネーションのインターリレーシヨンに過ぎず、従って勢力均衡ということが国際主義にとって最も有力な原理であった。近代的自由主義においては諸個人はあらゆる結合にもかかわらず本質的に分離されている。同様に近代的世界主義においては諸民族はあらゆる結合にもかかわらず本質的に分離されているのである。近代的社会はアトミズムの体系であるといわれるように、近代的世界主義もアトミズムの体系にほかならない。
今日自由主義に対して全体主義がいわはれている。全体主義的社会観は、全体を部分よりも先のものであるという原理に従って、先づ社会を全体として考え、その中においてそれに包まれるものとして個人を考えるのである。部分に対する全体の優先が認められる。ところで今日の全体主義は民族主義として現われた。そして既に述べたように近代的な抽象的な世界主義に対する否定の契機としてまづ民族主義の現われる理由が存する以上、且つ民族というものが共同社会(ゲマインシャフト)としての性質を自然的に具えてをり、 従来の社会の諸形態のうち全体主義を極めて直感的に示している関係から考えて、全体主義がまづ民族主義として現われたのは当然であると言えるであろう。しかしながら世界史の今日はもはや単なる民族主義に止まることができないとすれば、全体主義は民族を超えた東亜共同体というような一層大きな全体にまで拡充されねばならない。東亜思想は全体主義の拡充として意義を有するであろう。このような拡充は従来の民族主義的全体主義に含まれていた種々の非合理的要素が除かれることを要求している。東亜協同体は単なる民族主義によっては考えられ得ない故に、従来の全体主義が血と地というような非合理的なものを強調していたのに対して一層合理的なものを基礎としなければならない。民族と民族とを超えて結ぶ原理は一民族の内部においては結合の原理として可能であるような内密のもの、秘義的なものであることができず、公共的なもの、知性的なものでなければならない。また従来の全体主義は論理的にいっても全体が部分を抑圧し、個人の独自性と自主性とが認められないという欠陥を有してをり、そして事実としてもそうであったのであるが、新しい全体主義においてはこのような欠陥がなくならなければならない。東亜協同体という全体の内部においては、日本もその全体性の立場から行動することを要求されていると同時に日本はどこまでも日本としての独自性と自主性とを維持すベきであり、支那に対しても同様にその独自性と自主制とが承認されつつしかもどこまでも全体性の立場に立つことが要求されなければならない。このようにして一般的に要求される論理は、個体はどこまでも全体のうちに包まれつつしかもどこまでも独立であるという新しい論理であり、この論理は従来の全体主義における有機体説の論理に対して正しい弁証法の論理ということができるであろう。東亜協同体の内部においては各々の民族が独自性を有しなければならない以上、従来の抽象的な世界主義が民族の固有性を否定したのに対してこれが自覚を強調して現われた現在の民族主義にも重要な意義があると言わなければならない。しかもまた同じ論理に従って一民族の全体の内部においても個人の独自性と自主性との認められることが要求されるのである。このようにして考えられることは、新しい全体主義は自由主義に単に対立するものでなく、かえって自己のうちに自由主義を弁証法的に止揚するものでなければならないということである。単に自由主義に対立する限り全体主義もそれ自身一個の抽象に過ぎないであろう。更にまた東亜思想はもとより抽象的な世界主義を否定するところから生れ得るものであるが、この特殊的なものは自己のうちに新しい世界秩序に対する普遍的原理を含むことによって同時に新しい世界主義を指示するものでなければならない。この新しい世界主義は全体主義と同様の原理に従って考えられるものである。即ちそれは近代的世界主義におけるアトミズムを克服して世界を実在的な全体と考え、それぞれの民族がどこまでも独自性を有しつつしかもその中に包まれているという全体として世界を把握するものである。東亜思想は近代世界主義を否定しつつ同時に新しい世界主義を内在せしめていなければならないであろう。
4.
私は東亜思想の基礎となるベき新しい全体主義が従来の民族主義的全体主義の非合理性に対して合理的なものであるべきことを述べた。もとよりこの合理性は抽象的なものであってはならない。純粋に合理的であるのはある意味においては近代的社会即ちいわゆるゲゼルシャフトである。近代的ゲゼルシャフトは合理的であった限り開放的、公共的、世界的であった。しかしそれが近代自由主義的合理性であった限りその合理性も抽象的であり、従って制限を有したのである。その合理主義はマックス・ウェーバーのいうように簿記によって象徴されるような近代的合理主義である。東亜思想は合理的なものでなければならないといっても、それは抽象的な合理性をいうのでなく、かえってその合理性は今日の全体主義者が強調するゲマインシャフトの根抵をなすような非合理的なものを止揚したような具体的な合理性でなければならない。その合理性は抽象的に普遍的なものでなく、東洋文化の伝統というものと結び付いたものでなければならないであろう。しかしながら東亜協同体をゲマインシャフトと考えるところから封建的なものヘと反動に陥らないやうに注意することが大切である。ゲマインシャフトはゲマインシャフトとしてゲゼルシャフトが抽象的に開放的であるに対してつねに何らか閉鎖的な全体であるが、 新しい協同体は封建的なゲマインシャフトのように単に閉鎖的な体系であってはならない。それはゲマインシャフト的に閉鎖的であると同時にゲゼルシャフト的に開放的でなければならないと言われるであろう。(これらの点については今月の日本評論における拙論 「知性の改造」、 全集第14巻収録参照)。東洋的な社会はゲマインシャフト的性質を鮮明に有するといえるであろうが、それが封建的なものに依存するところが少なくないということを考えなければならない。この点から言っても、東亜思想が東洋文化の伝統を尊重することは当然であるとはいえ、それは単なる東洋主義に止まることができない。
私はすでに支那の近代化が東亜協同体の前提であると言った。東亜思想は東洋文化の伝統につながらねばならないことは明かであるにしても、このような近代化を除外することができない。一般に近代化をもって単なる西洋化の様に考えることは間違っている。人間は自分のうちに全くないものを身につけることができない。しかも自分のうちにあるものも環境から触発されて初めて発達する。音楽の素質のある者も他から音楽を聴くということがなければ自分のうちに音楽の素質のあることを発見することがないであろう。このようにして我々が有するいわゆる西洋的なものも単に西洋から与えられたのではなく、むしろ元来自分の内にあったいわば西洋的素質が西洋文化に接触することによって発見され発達させられたに過ぎないと考えることが出来る。人間の発達にも文化の発展にも環境が常に必要である。東亜文化の特殊性を主張することから世界文化との接触を排斥するようなことがあってはならない。東亜協同体の文化は単に西洋文化に対する東洋文化というようなものでなく、東洋の特殊性を有すると同時に世界的意義を有するところの、しかも東亜協同体の使命に鑑みて世界的に最も進歩的な文化でなければならない筈である。
いかなる世界史的行動もつねに一定の地域から発足する。けれどもそれが世界史的意義を有するものである限りそれは一定の地域に局限されない意義を有するものでなければならない。この際注意すべきことは世界的ということを単に地域的にのみ考えてはならないということである。世界主義を単に地域的に考えるならば、世界主義は世界征服主義ともならねばならないであろう。世界的ということは文化の内的な一定の性質をいうのであって、それがいかなる範囲の地域において実現されるにせよ、その範囲の広狭に拘らず、一定の文化は世界的であることができる。日本が世界を征服しなくても日本の文化は世界的になることができる。日本が支那を征服しなくても東亜協同体の建設に指導的であり得るということも根本においては日本の文化のこのような性質に依るのでなければならない。単に地域的な考え方をするならば、東亜協同体の建設ということも日本の侵略主義と考えられねばならなくなるであろう。いかなる世界的なものも抽象的に世界的に実現されるのでなく、一定の地域において特殊的なもののうちに初めて実現されるという意味において、抽象的な世界主義に対する地域的な考え方の具体性を認めなければならないと共に、東亜協同体というものを単に地域的に閉鎖的な体系として考えることは許されない。世界の現実が今日のようにいよいよ世界的になった場合においては地域的に完全に閉鎖的な体系としていかなる社会秩序を考えることも不可能にされている。東亜協同体が何等か閉鎖的な意味を有するとするならば、それはその秩序の内的性質によってそうでなければならない。即ちそれは近代的ゲゼルシャフトに対するゲマインシヤフトとしてすベてのゲマィンシャフトに本質的な一定の閉鎖的性質を有すると考えられるのであるが、しかし他方この新しいゲマインシャフトは近代的ゲゼルシャフトの基礎である資本主義が現在有する問題に新しい解決を与えることによって可能であるという意味において、即ち今日の世界史的課題を解決するという意味において本質的に世界的なもの、従って本質的に開放的なものでなければならない筈である。
東亜協同体といってももとよりただ協同的に作られるものではないであろう。その建設に対して日本は現にイニシアチヴを取るべき立場に置かれている。このようにいかなる世界史的な出来事もつねに一定の民族の行動として発足するという意味においては今日我が国において民族主義が強調されることも偶然ではない。しかしそれはあくまで我々の民族の世界史的使命を強調する立場に立たなければならない。そして東亜協同体の建設は日本の東亜征服を意味するのでなくかえって新しい基礎における共存共栄を意味するのでなければならない以上、また日本は自らイニシアチヴをとって作るこの東亜の新秩序のうちに自らも入っていくべきものである以上、日本も日本の文化もこの新秩序に相応する革新を遂げなければならない。日本がそのままであって東亜協同体が建設されるということは論理的にも不可能である。しかしまたそのことはこの共同体において日本がその固有性を発揮することを否定するものではないのである。国内における革新と東亜協同体の建設とは不可分の関係にある。このようにして新文化の創造なしには東亜の新秩序の建設もあり得ないのである。
1.
さきに私は 「現代日本に於ける世界史の意義」(本誌6月号、全集第14巻収録)と題する小論において支那事変の世界史的意義を論じ、それがいはば空間的には東洋の統一の問題の解決に、他方いわば時間的には資本主義の問題の解決に存することを述ベた。このような見方は最近次第に一般に語られるようになった東亜協同体の思想のうちに具体的に表現されるに至ったかのように思われる。そこで私はいま再びさきの問題を取上げ、これを発展させることによっていわゆる東亜協同体の思想がいかなる根拠を有すベきかに就いて若干論じてみよう。
東亜協同体の思想——簡単に東亜思想と呼ぶ——を論ずる立場は依然として世界史的な立場でなければならない。もしも東亜思想が世界史の統一的な理念を放棄することによって生れるものであるとすれば、それは結局反動的な意義しか有しないことになるであろう。東亜という語は地域的なものを表している。それは今日現実的には日満支を指している。やがて述べるような意味において私はもちろん地域的な考え方にもある重要性を認める。しかしながら東亜思想が単なる地域主義、即ち地域的分離主義、地域的閉鎖主義、乃至は地域的便宜主義、あるいは更に単なる地理的宿命論、あるいは風土主義、等々のものである、とすれば、それは世界史の統一的な理念を有するものであることができない。東亜とう語が地域的な名称であるだけ、我々はこのような地域主義の考え方に陥らないように特に注意することが必要である。単に地域的に考えられるような思想は真の思想の名に値しないであろう。日本が世界史の発展の統一的な理念を掲げて立つことによってのみ今次の事変は真に世界史的意義を獲得することができるのである。
ところで世界史的見地において東亜思想を論ずる場合、2つの点が問題になってくる。即ち一方においては東亜思想の民族主義乃至国民主義に対する関係の問題であり、他方においてはそれの国際主義乃至世界主義に対する関係が問題である。
支那事変の当初から私は種々の機会にこの事変が偏狭な民族主義の超克の契機となるであろうということを繰返し述ベてきた。そのことは今や東亜協同体の思想の出現によって実証されるに至ったかのように見える。東亜協同体は言うまでもなく民族を超えたある全体を意味している。しかし私は民族主義乃至国民主義が世界史の現段階において有する意義を全く否定しようとする者ではない。そこに誤解があってはかえって真に具体的な世界史的見方が失われることになるであろう。後に論ずることを先取しつつ、誤解のないように予め言っておけば、民族主義乃至国民主義は今日次の3つの点から考えて重要な意義を有している。第1に、それは現在抽象的なものになった近代的世界主義もしくは国際主義の克服にとってその否定的契機となり、そこから新しい意味における世界主義の発展してくることが可能にされるという意味において重要性を有している。第2に、それは東亜協同体というような民族を超えた全体を考えるにしても、その中において各々の民族あるいは国家がそれぞれの個性、独立性、自主性を有するのでなければならないという意味において重要性を有している。第3に、どのような世界的意義を有する事柄も、抽象的に普遍的に実現されるものでなく、かえって常に一定の民族において最初に実現されるという意味において、言い換えれば、どのような世界史的な出来事もつねに一定の民族の行動として開始されるという意味において、民族主義には正しい見方が含まれているのである。
2.
このようにして我々は先ず、支那における民族主義の意味を正しく理解しなければならない。すべて戦争はこれに参加する国々においてその民族主義を喚起する性質を有している。支那における現在の民族主義にもそのような方面があることは確かである。しかし支那における民族主義の台頭は事変以前からのことであり、それは単に抗日というようなことが以上に内的な必然性を有している。即ちそれは支那の近代国家ヘの発展に伴うものであり、その限りこの民族主義は歴史的必然性と進歩的意義とを有している。それは日本自身があの明治維新の頃に尊皇攘夷の名において経験してきたものと類似するところがある。我々は支那における民族主義が支那の近代化にとって有する歴史的必然性と進歩的意義とを十分に認識しなければならない。この認識なしに支那の民族主義的傾向を単純に排撃し、その三民主義にいう民族主義を抽象的に否定するようなことはかえって反動的なことになるであろう。我々は支那の近代化ヘの歴史的に必然的な運動を阻止することができないし、また阻止すベきでもない。寧ろ支那の近代化こそ東洋の統一の前提であり(拙論「日本の現実」中央公論昨年11月号、全集第13巻収録、参照)従ってまた東亜協同体の形成にとっての前提である。日本は支那を征服しようとするものでない以上、支那の近代国家への発展を阻止すベき理由はない筈である。まして日本の国内に向っては民族主義を唱へつつ支那に対してはその民族主義を否定するというような矛盾を犯してはならない。もし日本において民族主義が今日何らか重要な意義を有するとすれば、それは支那においても同様の意義を有すぺき筈である。また逆に支那における民族主義に一定の制限が置かれねばならないとすれば、日本における民族主義にも同様の制限が認められねばならない筈である。このように考えていくのが東亜協同体的な考え方であると言い得るであろう。それのみでなく我々は歴史の現在の段階における支那の民族主義の特殊性を理解しなければならない。それは支那の近代化が日本よりも遅れて行われているという事情に基く特殊性である。いはゆる東亜協同体は単なる民族主義の上に立つことができない。その限り支那の今日の民族主義は批判されるベきものであり、しかもその批判は世界史の現在の段階がもはや単なる民族主義の時代ではないという点から、言い換へれぱば東亜協同体の思想の世界史的意義を闡明することから出立しなければならないであろう。
三民主義は救国主義であると既に孫文が言っているように、支那の民族主義は支郡の国家的独立の要求である。そして支那の独立は日支の共存共栄を意味すべき東亜思想にとってその前提でなければならない。支那の独立を妨げているのは列国の帝国主義である。日本の行動の意義は支那を白人帝国主義から解放することにあると言われるのである。この解放なしには東洋の統一は実現されない。しかしまたもし日本が欧米諸国に代わって支那に帝国主義的支配を行うというのであれば、東亜協同体の真の意義は実現されないであろう。白人帝国主義の駆逐という場合、駆逐さるべきものは帝国主義であって白人ではない。東亜協同体は本質的に白人に対しても門戸の開かれたものでなければならず、ただその帝国主義的侵入を許さないのである。東亜協同体の建設を目標とする日本みづからも同様に帝国主義的であることができない。しかるに帝国主義の問題は資本主義の問題である。かくて東洋の統一という空間的な問題と資本主義の解決という時間的な問題とは必然的に一つに結び付いている。東洋の統一の思想は白人の歴史が即ち世界の歴史であるかのように考える世界史についてのいわゆるヨーロッパ主義、世界を白人的見地からのみ考える思想を打破して真の世界の統一を実現すべき意義を有している。東洋の統一もまた単に日本的見地からのみ考えられてはならない。東洋の統一の実現がかえって真の世界の統一の基礎であるように、支那の統一の実現がまた東洋の統一の基礎であるのであり、この支那の統一を実現するものである限り支那の民族主義には東亜協同体の立場からも意義が認められねばならない。しかしながらこのように民族的に統一された支那がいかなる新しい政治的構成を有すベきかは、東亜協同体という新しい全体の見地から考えらるベきことである。なぜなら単なる民族主義の立場においては東亜協同体の建設は不可能に属するからである。
3.
民族主義が20世紀の思想であるということはできないであろう。世界史的に見れば、民族主義乃至国民主義の時代はあのルネサンスの時代であった。ルネサンスの時代は中世の教会的世界主義が破れて国民主義が現われ、近代的な国民国家の成立に基礎がおかれた時代である。中世を支配したのは地上における神の国の観念、あらゆる民族的、社会的、文化的差異を超えたカトリツク教会的な普遍的文化の観念であった。ルネサンスにおいて見られるのはこのような神の国の観念の没落と統一的カトリック的文化のそれぞれ独立な国民的文化ヘの分裂である。中世の世界語であったラテン語に対して国語の価値が認識され、「国民文学」が現はれたのもこの時代のことである。ダンテは「俗語論」を書き、イタリア語で不朽の傑作を遺した。イタリアにおけるヒューマニズムの出現はイタリア人の国民的意識の覚醒と結び付いていた。
このようにしてルネサンスの国民主義は中世の教会的世界主義を破って現われたものと見られ得るが、それは同時に世界的意義を担っていたのである。世界のルネサンスに先駆したイタリアの国民主義は自己の内に同時に近代的社会の普遍的原理を具えていた。それ故にこそ当時イタリアに国民主義の出現は世界史的なものであった。この国民主義はそれ自体としては特殊的なものであったにせよ、同時に普遍的意義を有したのであって、新しい世界秩序を指示していたのである。このやうにして歴史そのものが教えるように、すベて真に歴史的なものは特殊的にして同時に普遍的なものである。単に特殊的であって普遍性を有しないものは真に歴史的なものということができない。今日いわゆる東亜協同体が世界史的意義を有すベきものであるとすれば、それは東亜という特殊性を具えたものであることは勿論であるが、単に特殊的なものでなくて同時に普遍的なものでなければならない。言い換えれば、それは東亜の地域に限られないで世界の新しい秩序に対して指標となり得るようなものでなければならない。東亜の新秩序は世界の新秩序であり得ることによって東亜の新秩序ともなり得るのである。従って東亜の新秩序は今日の世界的な課題即ち資本主義の問題の新しい解決を提げて現はれるのでなければならない。東亜協同体は東亜に建設されるものとして特殊的であり、ある閉鎖性を有するものであるにしても、それは普遍的原理を含むものとしてどこまでも開放的であって世界の諸国の自由に出入し得るようなものでなければならない。
中世的世界主義に対して国民主義として出立した近代的社会の形態は、そのうちに普遍的原埋を含むことによって次第に世界化され、世界の現実は歴史の発展と共に次第に世界的になった。今日の世界の一切の事情が過去の歴史のいかなる時代に比しても世界的になっていることは明白な事実である。それは世界主義の勝利を意味するということができる。従って今日世界に国民主義とか民族主義とかが現はれたとすれば、それは、逆説的に聞えるにしても、世界の現実がいよいよ世界的になったために現はれた民族主義であり国民主義であるといわねばならない。世界は現在ますます世界的になったのであるが、近代的な世界主義が抽象的なものである限り、その抽象性の故に世界主義に対して否定的な国民主義乃至民族主義の現われてくる理由があった。しかし他方すでに世界の現実がいよいよ世界的になっている以上、世界史の現在の段階において民族主義や国民主義の有する意義は制限されている。即ちそれは近代的な抽象的な世界主義に対する否定の契機になるというに止まるのであって、行き着くベきところは最早や単なる民族主義や国民主義であることができない。今日はある意味では近代的世界主義の分裂の時代であるといわれるであろう。しかしながらこの分裂はもはや単に民族主義乃至国民主義への分裂ではあり得ない。固有な意味における、そして真に進歩的意義を有した国民主義はルネサンスの時代のものであった。このようにして今日東亜共同体というような民族を超えた一全体の構想の有する重要な意義が認められるのである。抽象的な近代的世界主義は世界の諸地域における、例えば東亜協同体のように種々の独自な新しい全体社会ヘ分裂すると考えられるであろう。けれどもこの分裂は単なる分裂であるのでなく、かえって新たな統一のためのものであり、一層具体的な世界主義ヘ道を開くものでなければならない。このようにして東亜協同体は新しい世界秩序に対する普遍的原理を内在せしめているのでなければならず、世界の新秩序の形成にとって動力となるものでなければならない。
近代的な世界主義はいかなる意味において抽象的であったのであろうか。それは各々の民族の有する固有性や特殊性に対する深い認識を有しない点において抽象的であると言われるのがつねである。それは実に近代的原理の上に、言い換えれば自由主義の上に立っているが故に抽象的であるのである。近代的自由主義は個人主義である。即ちそれにとっては個人が先であって社会が後のものである。アトムのように独立な個人が先づ考えられ、社会はしかる後にこのような個人が本質的には個人的立場から取結ぶ関係として出来てくるもののように考えられる。あの社会契約説は近代的社会観の典型的なものである。同じように近代的世界主義にとっては各々の国家がアトミズム的に先づ考えられ、世界はこのような国家の、本質的にはそれぞれの国家の立場における関係として後から出来てくるもののように考えられる。近代的世界主義は固有な意味におけるインターナショナリズム、即ちそこでは世界は単にネーションとネーションのインターリレーシヨンに過ぎず、従って勢力均衡ということが国際主義にとって最も有力な原理であった。近代的自由主義においては諸個人はあらゆる結合にもかかわらず本質的に分離されている。同様に近代的世界主義においては諸民族はあらゆる結合にもかかわらず本質的に分離されているのである。近代的社会はアトミズムの体系であるといわれるように、近代的世界主義もアトミズムの体系にほかならない。
今日自由主義に対して全体主義がいわはれている。全体主義的社会観は、全体を部分よりも先のものであるという原理に従って、先づ社会を全体として考え、その中においてそれに包まれるものとして個人を考えるのである。部分に対する全体の優先が認められる。ところで今日の全体主義は民族主義として現われた。そして既に述べたように近代的な抽象的な世界主義に対する否定の契機としてまづ民族主義の現われる理由が存する以上、且つ民族というものが共同社会(ゲマインシャフト)としての性質を自然的に具えてをり、 従来の社会の諸形態のうち全体主義を極めて直感的に示している関係から考えて、全体主義がまづ民族主義として現われたのは当然であると言えるであろう。しかしながら世界史の今日はもはや単なる民族主義に止まることができないとすれば、全体主義は民族を超えた東亜共同体というような一層大きな全体にまで拡充されねばならない。東亜思想は全体主義の拡充として意義を有するであろう。このような拡充は従来の民族主義的全体主義に含まれていた種々の非合理的要素が除かれることを要求している。東亜協同体は単なる民族主義によっては考えられ得ない故に、従来の全体主義が血と地というような非合理的なものを強調していたのに対して一層合理的なものを基礎としなければならない。民族と民族とを超えて結ぶ原理は一民族の内部においては結合の原理として可能であるような内密のもの、秘義的なものであることができず、公共的なもの、知性的なものでなければならない。また従来の全体主義は論理的にいっても全体が部分を抑圧し、個人の独自性と自主性とが認められないという欠陥を有してをり、そして事実としてもそうであったのであるが、新しい全体主義においてはこのような欠陥がなくならなければならない。東亜協同体という全体の内部においては、日本もその全体性の立場から行動することを要求されていると同時に日本はどこまでも日本としての独自性と自主性とを維持すベきであり、支那に対しても同様にその独自性と自主制とが承認されつつしかもどこまでも全体性の立場に立つことが要求されなければならない。このようにして一般的に要求される論理は、個体はどこまでも全体のうちに包まれつつしかもどこまでも独立であるという新しい論理であり、この論理は従来の全体主義における有機体説の論理に対して正しい弁証法の論理ということができるであろう。東亜協同体の内部においては各々の民族が独自性を有しなければならない以上、従来の抽象的な世界主義が民族の固有性を否定したのに対してこれが自覚を強調して現われた現在の民族主義にも重要な意義があると言わなければならない。しかもまた同じ論理に従って一民族の全体の内部においても個人の独自性と自主性との認められることが要求されるのである。このようにして考えられることは、新しい全体主義は自由主義に単に対立するものでなく、かえって自己のうちに自由主義を弁証法的に止揚するものでなければならないということである。単に自由主義に対立する限り全体主義もそれ自身一個の抽象に過ぎないであろう。更にまた東亜思想はもとより抽象的な世界主義を否定するところから生れ得るものであるが、この特殊的なものは自己のうちに新しい世界秩序に対する普遍的原理を含むことによって同時に新しい世界主義を指示するものでなければならない。この新しい世界主義は全体主義と同様の原理に従って考えられるものである。即ちそれは近代的世界主義におけるアトミズムを克服して世界を実在的な全体と考え、それぞれの民族がどこまでも独自性を有しつつしかもその中に包まれているという全体として世界を把握するものである。東亜思想は近代世界主義を否定しつつ同時に新しい世界主義を内在せしめていなければならないであろう。
4.
私は東亜思想の基礎となるベき新しい全体主義が従来の民族主義的全体主義の非合理性に対して合理的なものであるべきことを述べた。もとよりこの合理性は抽象的なものであってはならない。純粋に合理的であるのはある意味においては近代的社会即ちいわゆるゲゼルシャフトである。近代的ゲゼルシャフトは合理的であった限り開放的、公共的、世界的であった。しかしそれが近代自由主義的合理性であった限りその合理性も抽象的であり、従って制限を有したのである。その合理主義はマックス・ウェーバーのいうように簿記によって象徴されるような近代的合理主義である。東亜思想は合理的なものでなければならないといっても、それは抽象的な合理性をいうのでなく、かえってその合理性は今日の全体主義者が強調するゲマインシャフトの根抵をなすような非合理的なものを止揚したような具体的な合理性でなければならない。その合理性は抽象的に普遍的なものでなく、東洋文化の伝統というものと結び付いたものでなければならないであろう。しかしながら東亜協同体をゲマインシャフトと考えるところから封建的なものヘと反動に陥らないやうに注意することが大切である。ゲマインシャフトはゲマインシャフトとしてゲゼルシャフトが抽象的に開放的であるに対してつねに何らか閉鎖的な全体であるが、 新しい協同体は封建的なゲマインシャフトのように単に閉鎖的な体系であってはならない。それはゲマインシャフト的に閉鎖的であると同時にゲゼルシャフト的に開放的でなければならないと言われるであろう。(これらの点については今月の日本評論における拙論 「知性の改造」、 全集第14巻収録参照)。東洋的な社会はゲマインシャフト的性質を鮮明に有するといえるであろうが、それが封建的なものに依存するところが少なくないということを考えなければならない。この点から言っても、東亜思想が東洋文化の伝統を尊重することは当然であるとはいえ、それは単なる東洋主義に止まることができない。
私はすでに支那の近代化が東亜協同体の前提であると言った。東亜思想は東洋文化の伝統につながらねばならないことは明かであるにしても、このような近代化を除外することができない。一般に近代化をもって単なる西洋化の様に考えることは間違っている。人間は自分のうちに全くないものを身につけることができない。しかも自分のうちにあるものも環境から触発されて初めて発達する。音楽の素質のある者も他から音楽を聴くということがなければ自分のうちに音楽の素質のあることを発見することがないであろう。このようにして我々が有するいわゆる西洋的なものも単に西洋から与えられたのではなく、むしろ元来自分の内にあったいわば西洋的素質が西洋文化に接触することによって発見され発達させられたに過ぎないと考えることが出来る。人間の発達にも文化の発展にも環境が常に必要である。東亜文化の特殊性を主張することから世界文化との接触を排斥するようなことがあってはならない。東亜協同体の文化は単に西洋文化に対する東洋文化というようなものでなく、東洋の特殊性を有すると同時に世界的意義を有するところの、しかも東亜協同体の使命に鑑みて世界的に最も進歩的な文化でなければならない筈である。
いかなる世界史的行動もつねに一定の地域から発足する。けれどもそれが世界史的意義を有するものである限りそれは一定の地域に局限されない意義を有するものでなければならない。この際注意すべきことは世界的ということを単に地域的にのみ考えてはならないということである。世界主義を単に地域的に考えるならば、世界主義は世界征服主義ともならねばならないであろう。世界的ということは文化の内的な一定の性質をいうのであって、それがいかなる範囲の地域において実現されるにせよ、その範囲の広狭に拘らず、一定の文化は世界的であることができる。日本が世界を征服しなくても日本の文化は世界的になることができる。日本が支那を征服しなくても東亜協同体の建設に指導的であり得るということも根本においては日本の文化のこのような性質に依るのでなければならない。単に地域的な考え方をするならば、東亜協同体の建設ということも日本の侵略主義と考えられねばならなくなるであろう。いかなる世界的なものも抽象的に世界的に実現されるのでなく、一定の地域において特殊的なもののうちに初めて実現されるという意味において、抽象的な世界主義に対する地域的な考え方の具体性を認めなければならないと共に、東亜協同体というものを単に地域的に閉鎖的な体系として考えることは許されない。世界の現実が今日のようにいよいよ世界的になった場合においては地域的に完全に閉鎖的な体系としていかなる社会秩序を考えることも不可能にされている。東亜協同体が何等か閉鎖的な意味を有するとするならば、それはその秩序の内的性質によってそうでなければならない。即ちそれは近代的ゲゼルシャフトに対するゲマインシヤフトとしてすベてのゲマィンシャフトに本質的な一定の閉鎖的性質を有すると考えられるのであるが、しかし他方この新しいゲマインシャフトは近代的ゲゼルシャフトの基礎である資本主義が現在有する問題に新しい解決を与えることによって可能であるという意味において、即ち今日の世界史的課題を解決するという意味において本質的に世界的なもの、従って本質的に開放的なものでなければならない筈である。
東亜協同体といってももとよりただ協同的に作られるものではないであろう。その建設に対して日本は現にイニシアチヴを取るべき立場に置かれている。このようにいかなる世界史的な出来事もつねに一定の民族の行動として発足するという意味においては今日我が国において民族主義が強調されることも偶然ではない。しかしそれはあくまで我々の民族の世界史的使命を強調する立場に立たなければならない。そして東亜協同体の建設は日本の東亜征服を意味するのでなくかえって新しい基礎における共存共栄を意味するのでなければならない以上、また日本は自らイニシアチヴをとって作るこの東亜の新秩序のうちに自らも入っていくべきものである以上、日本も日本の文化もこの新秩序に相応する革新を遂げなければならない。日本がそのままであって東亜協同体が建設されるということは論理的にも不可能である。しかしまたそのことはこの共同体において日本がその固有性を発揮することを否定するものではないのである。国内における革新と東亜協同体の建設とは不可分の関係にある。このようにして新文化の創造なしには東亜の新秩序の建設もあり得ないのである。