ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/10/21~10/27

2018-10-27 10:17:36 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/10/21~10/27

2018 日々の聖句 10月21日㈰
(それゆえ、)わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ。(コヘレト8:15)

(というのは、)神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。(1テモテ4:4)

私の黙想:
今日の聖句、冒頭の言葉に軽くショックを受ける。いかにも聖書の言葉らしくない。しかし考えて見ると、「快楽」、口語では「歓楽」は人間が忌避すべき悪なのであろうか。いや、むしろ人間にとってなくてはならないものであろう。
岩波訳では「そこで、私は快楽を讃えることにした。楽しいときにはその楽しさを満喫しようではないか。
それはそうと、最後の一言が光っている。「人生の日々の労苦に添えられたものなのだ」。快楽とは「添えられた」ものなのだ。人生の目的ではないかも知れない。しかし、神が人生の添えられたものなのだ。付録、景品、おまけだという。なるほでそういうものであろう。

2018 日々の聖句 10月22日㈪
主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み、わたしたちはあなたを待ち望みます。(イザヤ26:8)

だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。(1ペトロ5:6)

私の黙想:
イザヤ26章は「その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた」という言葉で始める。これが「あなたの裁きによって定められた道」であるという。
捕囚の地バビロンにおいて、イスラエルの民は祖国の地に「堅固な都」(3)が再建されることを夢見、確信している。ここでは夢と現実とが重なりはっきりしない。事後預言かもしれない。
「堅固な思いを、あなたは平和に守られる」(3)。この平和は普通の平和ではない。口語訳では「完全な平安」と訳しているが、要するに「完全な平和、パーフェクト・ピース」である。それは戦争がない平和でも権力による平和、いわゆる「ローマの平和」や「アメリカーナ・ピース」ではなく、ヤハウェによる平和である。それはヤハウェによって「定められた道」を辿るところに生じる平和である。「堅固な都」が「堅固な思い」をもたらし、「堅固な思いが」「堅固な都」を作り出す。それは戦争と略奪によって立てられる豪壮な都ではなく、平和によって築かれ、平和によって維持される都である。異国の地において預言者の目にはこの光景が既に見えている。

2018 日々の聖句 10月23日㈫
隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。(申命記29:28)

サマリア人たちは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(ヨハネ4:42)

私の黙想:
「隠されていること」と「啓示されていること」とがある。つまり私たちが知っていること、知ることができることは全体の一部である。これが「律法」ということを考える際の基本原則である。園のすべての木を食べてもいい。「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」とヤハウエは語られた(創世記2:17)。人間の「生死に関わること」と「善悪に関わること」とは、「なぜ」と問えない。
考えてみると、私たちがもっとも知りたいことは、この2つのことではないか。ところが、この2つに関しては私たちは「結果」は知るが、「原因と根拠(理由)」は謎のままである。それを知るための「禁断の木(善悪を知る木)」は目の前にある。手を伸ばせば届く距離にある。現代の科学技術は手を伸ばして触れるところまで来ている。食べようと思えば食べられる位置にある。しかし食べてはならない。しかし食べてはならない。現代科学は食べても大丈夫だと誘惑する。現代科学は人間の知識欲の成果である。しかし同時に「狡猾な蛇」に変身する。とくに人間の生命分野はそこまできている。生まれてくる産児の性別を産まれる以前に判定できるところまできている。もう既にその判定によって「産まない技術「は手の内にある。しかしそれはしてはならない限界の向こう側である。
神の啓示とは、人間には食べてはならないことがあるということを示している。出来なかったことが出来るようになったからこそ、「してはならないこと」が啓示となる。この啓示(=戒め)は「我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されている」。子どもがそれを食べようとしたら「食べてはならない」と叫ばなければならない。殴ってでもそれを阻止するのが親の使命である。

2018 日々の聖句 10月24日㈬
人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか。(エレミア18:20)

人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。(コロサイ2:8)

私の黙想:
こういう言葉を読むと、私の中から反発の心が湧いてくる。人間は神を作る。作れる。エレミアに問いたい。では、どんな存在が神なのか。
そうなると、神とは何かという定義の問題になってしまう。
日本人は「神」を作る。あるいは、あれやこれやを「神」と定めて拝む。それはユダヤ文化から見ると神ではないかも知れない。日本人からいるとユダヤ人の「エル」ありは「ヤハウェ」は神かどうかではなく、訳が分からない。
この議論、イエスを巡って真剣に議論された。イエスは神か、人か。現実に私たちの間で生きた一人の人間を「エル」あるいは「ヤハウェ」と言えるのか。この議論なら日本人も「参加」できる。イエスは神か。通常の日本人なら「YES、彼は神に違いない」と平気で言える。では、どんな存在が神なのか。イエスのようの存在が神なのだ。
さて、こんな議論をあなたはどう思うか。

2018 日々の聖句 10月25日㈭
わたしは主の御業を思い続け、いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け、あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながらあなたの御業を思いめぐらします。(詩77:12~13)

マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。(ルカ2:19)

私の黙想:
口語訳では「わたしは主のみわざを思い起す。わたしは、いにしえからのあなたのくすしきみわざを思いいだす。わたしは、あなたのすべてのみわざを思い、あなたの力あるみわざを深く思う」と、「思う」という言葉が4回繰り返されている。4回とも微妙に異なる。「思い起こす」「思いだす」「思い」「深く思う」。ヘブライ語原典でも微妙に異なる(12節の2つは語形変化のみ)。「思い出す」「思い出そう」「口ずさむ」「語る」。新改訳は「思い起こそう」「思い起こそう」「思い巡らし」「静かに考えよう」。その辺のところを岩波訳は考慮して「思い起こし」「思い起こそう」「思い巡らし」「思い耽ろう」。どの訳がいいとは言えない。
おそらく、これは私の主観であるが、この詩人の朝の祈りの形であろう。初めの「主の御業は」最近私に起こったこと、「古の出来事」は旧約聖書が語る奇跡物語、多様な神のみ業を詠い(讃美)、最後にそれらのことを「思い巡らし」、「思いに耽る」、何と甘美な一時であろう。
を思い起こす。

2018 日々の聖句 10月26日㈮
わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩、わたしに与えられた分。(詩73:26)

その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。」(使徒23:11)

私の黙想:
口語訳では「わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である」。新改訳は「この身とこの心とは尽き果てましょう」。フランシスコ会訳は他の訳と少々違う。「わたしの身と心は思い焦がれる」。関根訳は口語訳とほば同じ。
問題はここでの「朽ちる(カーラー)」をどう解釈するか。この単語は旧約で4回しか用いられていないが、口語訳ではいずれも「衰える」と訳している。
祈祷書の訳は面白い「わたしの心と体が衰えても、神はとこしえにわたしの心の力、わたしのいのちです」(私はこの訳が一番好きだ)。
いろいろ総合して、神の永遠性に対して時間的制限の中で生きる人間の限界状況を示しているのであろう。私という一人の人間の中で「時と永遠」とが分裂状態にある。詩人はこれを「天」と「地」の対立として述べる。「天における喜び」を待ちわびる者の「地における苦悩」として語る。「天における喜び」を確信し、待ち望むがゆえに、地において「疲れ果てる」。「OK」が出ることを確信するがゆえに、その通知が来るのを一日千秋の思いで待つ。

2018 日々の聖句 10月27日㈯
他の神々に従って行くな。彼らに仕え、ひれ伏してはならない。お前たちの手が造った物でわたしを怒らせるならば(、わたしはお前たちに災いをくだす)。(エレミア25:6)

わたしたちもまた、(このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、)すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(ヘブル12:1~2)

私の黙想:
旧約聖書において偶像とは「手で造った物」に限定されていたようだ。しかし現在では手で造った物だけが偶像ではない。頭で造ったモノ(観念)もあれば、歴史が作り出したモノもある。自分だけ一人で造ったモノもあれば、集団で作り出したモノ、例えば明治以後の天皇制も見事な偶像である。お金は現在における典型的な偶像であるし、近頃では「大臣の地位」も偶像になっているし、さだめし閣僚決議は聖書みたいなものであろう。
キリスト教だって偶像化するし、聖書などいとも簡単に偶像化する。十字架造などはまさに偶像であるし、「神」さえもも偶像となる。もっとハッキリ言うと、私たちがこれこそ「神」だと思い信じたとき、それは偶像となる。だから神学は「神」否定から始めなければならない。

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