ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/05/07~05/013

2017-05-14 07:42:37 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/05/07~05/013

2017 日々の聖句 5月7日(日)
わたしの口は賛美に満ち、絶えることなくあなたの輝きをたたえます。(詩71:8)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(1テサロニケ5:16~18)

私の黙想:
「私」はそんなことはない。他にも、いろいろ口にしなければならないこともある。それはそれとして、「あなたの輝きをたたえる」とは一体どういうことなのだろう。感謝の言葉を口にすること、聖歌を(時々)歌うことなのだろうか。いったい「あなたの輝き」とは何か。口語訳では「頌栄とをもって」でかなり違う。文語訳は参考にもならない。フランシスコ会訳、新改訳は「あなたの栄光」、岩波訳は新共同訳と同じように「あなたの輝き」である。原語では「ティファラー」で、この単語は「美しい装身具、麗しい、栄光、栄えなどなど、荘厳さを示す語であるらしい。神の輝きとは、神の荘厳さ、栄光を意味し、神とは荘厳な方であり、神こそが栄光である。ここで「たたえる」という言葉はない。つまり、一日中神の栄光の中にいるということを示している。この詩は高齢になって、「敵」から「あなたは神から見棄てられた」(11節)と罵られているのに対して、「いや、私は一日中神の輝き、栄光、荘厳さの中にいる」と言うのである。
ルカ福音書を読むと、イエスの初詣のとき、シメオンとアンナという老人が登場し、彼らは一日中神殿の中で過ごしていたようである。あの老人たちのことを思い起こす。

2017 日々の聖句 5月8日(月)
死ぬことなく、生き長らえて主の御業を語り伝えよう。(詩118:17)

(高官たちは)何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。(使徒言行録16:23,25)

私の黙想:
「死ぬことなく」、それは無理な話で、これはある特定の状況を前提し、そこでは「死ぬことなく」ということであろう。死を予感するような状況から脱出し、神の奇跡的な業を報告する。通常の言語表現では、「死線を越える」とはそういう意味である。
ところがイエスの場合は、文字通り「死線を越えて」向こう側に行ってしまった。人生のエンディング、それはすべての終わりで、その向こう側はない、と常識は語る。ところが弟子たちは、そこからイエスの言葉を聞いた。「私は甦りである、命である」「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。本当のことをいうと(真理)、私は命へ至る道なんだ。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。

2017 日々の聖句 5月9日(火)
わたしは多くの戒めを書き与えた。しかし、彼らはそれを無縁のものと見なした。(ホセア8:12)

キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。(ガラテヤ1:6)

私の黙想:
ホセア書8章は読むに耐えられない。よくもまぁ、ここまで堕落したものだと思う。その極点が今日の聖句であろう。神の言葉さえも完全無視である。これを口語訳で読むと、もっと酷い。例えば8節、「イスラエルはのまれた。彼らは諸国民の間にあって、すでに無用な器のようになった」。要するに「他国並み」になったイスラエルは「無用な器」だという。12節を口語訳で読むと、「わたしは彼のために、あまたの律法を書きしるしたが、これはかえって怪しい物のように思われた」。「無縁のもの」どころじゃない。「怪しい物」だと訳している。フランシスコ会訳では「ほかの者が定めたものとみなされる」、新改訳では「他国人のもののようにみなす」と訳している。酷い。もう、神の言葉も関係ないという。神がイスラエルに呆れている。今日の新約の聖句、「私はあきれ果てています」はパウロの言葉であるが、ホセア書の言葉はヤハウェの言葉である。
我が国では首相が国会の答弁で「読売新聞を読め」という。酒場での議論も、国会の議論もごちゃ混ぜで、「私は呆れ果てています」。

2017 日々の聖句 5月10日(水)
貧しい人を嘲る者は造り主をみくびる者。災いのときに喜ぶ者は赦されない。(箴言17:5)

これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。(マタイ18:10)

私の黙想:
権力者を嘲っても、いいよね。バカをバカと思って見くびったらエライ目に遭うよね。人に災いを与えても素知らぬ顔をしている責任者たちを激しく批判しても、許されるよね。ということで、今日の聖句の黙想は終わり。と言って、終わりきれないのは、貧しい私たちだ。そして今まさに災いを受けている、私たちだ。叫ばなくっちゃ。大声を上げて批判しなくっちゃ。彼らは私たちをバカにしているし、みくびっている。今に見ておれ、酷い目に遭わせてやるから。

2017 日々の聖句 5月11日(木)
主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼む。(詩71:5)

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(2コリント4:16)

私の黙想:
ここでの「希望」とは何を意味するのだろうか。希望とは将来に関する信仰である。希望がないということは将来がないということである。つまり「あなたはわたしの希望」とはあなたが私の将来を保証する方、将来を切り開いてくださる方。あなたがいなければ、私の将来は閉ざされていることを意味する。10節に今問題の「共謀」が出てくる。敵はテロを共謀している。11節には「神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕えよう。彼を助ける者はもういない」と、敵たちはいう。つまり詩人には「希望」はない。しかし、詩人は「主よ、あなたはわたしの希望」という。ここでの詩人は、この世での「(主の)救い」をもう諦めているのかも知れない。詩人はむしろ死後の「復活」を祈っている。主は、必ず、私の名誉を回復(復活)してくださると信じている(20節)。

2017 日々の聖句 5月12日(金)
諸国の民よ、皆聞け。大地とそれを満たすもの、耳を傾けよ。主なる神はお前たちに対する証人となられる。(ミカ1:2)

イエス・キリストの言葉:全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)

私の黙想:
預言者ミカはいきなり、こう宣言する。「お前たちに対する証人」、難しい言葉だ。誰に対して誰を、そして何を証言するというのだろうか。そのことがミカ書全体のメッセージなのであろう。状況は、神の民イスラエルは南と北とに分裂している。分裂そのものが神には不満である。だからミカは両方に対して呪いの言葉を語る。一つの民族が分裂状態にあるということは、両国にとって不幸である。分裂状態にあるということは強大国の餌食になりやすい。何事においても大国の支配を受る。軍事、経済、民生等、そのひずみをまともに受けるのが地方である。ミカは、イザヤと同時代の預言者であるが、その視点は地方である。地方から中央政府に対して批判の言葉を語る。
このまま行くと、両国は必ず滅びる。神がそれを保証する。神が全世界に対してそれを宣言する。このまま進むと、両国は必ず強大国の餌食にされると。だから、とにもかくにも、南北統一を計らなければならない。

2017 日々の聖句 5月13日(土)
(しかし、) やがて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、(感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、)「万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と歌う声が聞こえるようになる。(エレミヤ33:11)

洗礼者ヨハネの言葉:花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。(ヨハネ3:29)

私の黙想:
日本だけの現象なのか、よく分からないけど、最近の「結婚したがらない若者」が増えているという。確かに増えている。若者たちの話を聞くと、現在は結婚できるような経済状態ではないという。とくに、高学歴なものたちの間では、結婚して家庭を持つということが負担以外の何ものでもなく、それならもっと気軽に、経済的に男性女性対等で、「終末同棲」程度が丁度良いという。じゃ、それ程生きがいのある仕事をしているのかという、そうでもなさそうである。要するに、家庭というものの煩わしさを避けたいと思っているようだ。
だいたい、結婚式の費用を聞いただけで、その無駄さに、わざわざ挑戦したいと思わないのであろう。先日も、結婚記念写真だけで、式を挙げないというカップルの話を聞いた。親の負担でなければ結婚式を挙げられないような社会は間違っている。その意味では、今日のエレミヤ書の聖句はかなり実感から遠いような気がする。やはり現代社会は間違っている。花嫁と花婿の手放しの喜びの声が聞こえるような社会でなければ、間違っている。40歳代、50歳代にならなければ、結婚式を挙げられないような社会は間違っている。

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