ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 10/21~10/27

2012-10-28 06:33:16 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 10/21~10/27

losungenj 2012.10.21(sun)
宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。(Ex32:26)
信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。(2Cor13:5)
私の黙想:
モーセの留守中に、人々が協力して自分たちで作り上げた金の子牛、これこそ「民主主義」の象徴だ。しかしモーセが仕える神は民衆から隔絶し、「上から」語りかけるヤハウェである。民族・国家を経営し導くのは自分たちの手による民主主義か、ヤハウェか。選べ。金の子牛を民主主義の象徴とするのには少々無理があるかも知れない。政治の世界に「神」を「単純に」持ち込むのは危ないが、民主主義を絶対化することにも危険である。いわゆる「民主主義」の限界、無思想性を常に頭に置いておく必要がある。

三浦 三千春 総合的・複合的な見地ですね。中途半端な「民主主義」がへんちくりんなものをいろいろ産みだしてしまうのは、今の日本の情勢だと思います。

文屋 善明 民主主義とは政治思想ではなく、組織運営の手段です。日本ではその点が誤解されているようです。

三浦 三千春 民主主義というものを使いこなせる人たちの集まりに、依然として日本はなってないのだな~、と、とても残念に感じる場面が多くあります。

losungenj 2012.10.22(mon)
あなたたちは、他のどの民よりも数が多くなく、どの民よりも貧弱であった。しかし、ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちは選ばれた。(Deut7:7-8)
神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。(1Cor1:28)
私の黙想:
聖書の神の一つの特徴は偏愛である。その具体的現れが選び。これは聖書による信仰の大問題である。神の愛の普遍性と偏愛性、この矛盾をキリスト教はまだ克服していない。普遍に傾くと観念化し、偏愛に傾くと神話化する。偏愛を普遍化すると悪しき予定説となる。

門叶国泰氏のFBより
(1)「ハーシャク」の原意は「The radical meaning of the verb is to fix or bind,and it is used of a man’s falling in love with a woman(Gen.34:8)」G.A.Smith(1918)
(2)新共同訳が「あなたに対する愛のゆえに」と訳した箇所の「あなたに」の原文は「あなたがた(複数)」である。口語訳・新改訳・フランシスコ会訳はすべてマソラ原文通りに「複数 」に訳している。(KJ&RSVはyou. KJは単数の時は[thee]を用いることが多い。)

門叶 国泰 「心引かれて(新共同訳)」が「偏愛」で、「主の愛のゆえに」の方が「愛:アーハブ」、この使い分けが面白いですね。「説教」になりませんか、無理かな、大筋を外しそう。
18分前 · いいね!

文屋 善明 これはなかなか面白い。「心引かれる」が具体で、その具体を支える根拠としての「愛(アーハブ)」。ただ、この場合アーハブの対象としての「あなた」は観念で、ハーシャクの対象としての「あなたがた」は具体的な「あなたがた」である。新共同訳はその点に拘ったのか。


losungenj 2012.10.23(tue)
主はモーセに言われた。「 わたしが命じるすべてのことをあなたは語りなさい。」(Ex7:1-2)
話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。(Mat10:20)
私の黙想:
モーセは口べたであったという。それに対して兄アロンは雄弁であったらしい。しかしアロンは神の言葉を聞く耳を持っていなかった。説教とは「語る」ことよりも「聞く」ことが肝心である。私の心の中で私に語りかけている神の霊の言葉を聞くことなくして説教は出来ない。

losungenj 2012.10.24(wed)
わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻す。(Ezek34:16)
キリストの言葉:わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。(Joh6:39)
私の黙想:
神にとって神の民が世界のどこに住もうと神の民であり「失われたもの」ではない。エルサレムに住もうとバビロニアで住もうと、神の民は神の民である。ここでいう「失われたもの」とは神の手からはみ出し者、神に逆らう者、神から離れた者である。その反逆した神の民を必ず取り戻すという神の意志。人間は神を捨てても、神は人間を捨てない。この信仰を彼らは捕囚の地で得た。だから「あの時、既に」デアスポラとしての生き方を選び取ることができた。

losungenj 2012.10.25(thu)
イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく。(Hos3:5)
パウロの手紙:あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(Phi3:6)
私の黙想:
イスラエルの預言者がイスラエルの民に語るイスラエルがバビロン捕囚からの祖国へ復帰する預言。これをキリスト者はどう読むのか。ここにキリスト者は新しいイスラエルとしての自分たちの救済の根拠を置く。その解釈は無理であろう。ただの横取りじゃないのか。そんなことまでして、イスラエルの民族史とキリスト教とを重ねる必要はないであろう。ただ、旧約聖書の思想そのものの凄さを認識し、それをキリスト教思想の母体とするだけで十分ではないか。旧約聖書のキリスト論的再解釈は不要である。

losungenj 2012.10.26(fri)
彼は弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。(Isa1:4)
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。(Tit2:11)
私の黙想:
裁きは弱い人にも強い人にも公平でなければならない。それは当然のこと。しかし現実には弱い人、貧しい人に不公平な裁判が行われている。このことを告発するのは重要な責任である。見て見ぬ振りは不正に荷担していることになる。そういうことが世に溢れている。弱小企業の爆発事故にはすぐに警察の捜査が入るのに、何故、東電の原発事故には警察の捜査が入らないのか。

losungenj 2012.10.27(sat)
あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。生ける水の源である主を捨てたからだ。(Jer17:13)
あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。(Heb3:12)
私の黙想:
「命の源泉」、ここでは「水」であり、「神の言葉」であり、神ご自身を指す。現実的に考えて、私たちにとっての「命の源泉」とは何であろう。水であり、空気であり、光であり、土地であり、環境である。これらを汚し、破壊することが神から与えられた人類の「命の源泉」から離れることだ。

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