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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/05/28~06/03

2017-06-04 10:03:18 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/05/28~06/03

2017 日々の聖句 5月28日(日)
あなたは必ず御覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を、顧みてくださいます。(詩10:14)

イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。(ルカ9:11)

私の黙想:
今日の聖句、何か据わりが悪い。何がどうなって据わりが悪いの分からない。先ず、「必ずご覧になって」とは何をご覧になるのか。「ご覧にならない」でも後半は十分に成り立つ。と考えながら、口語訳を見ると、この部分こうなっている。「あなたはみそなわし、悩みと苦しみとを見て、それをみ手に取られます」これならスッキリしている。神は世界を見渡し、「悩みと苦しみとを」見て、それを神の手に引き受ける。じっくり比較すると神の行為は逆になっている。「委ねる人を顧みる」のではない。フランシスコ会訳ではもっと鮮明だ。「あなたご自身で苦しみを顧み、悩みをご覧ください」。人間側での「委ねる」なんていうことは文字にもなっていない。新改訳はドラマティックだ。「あなたは見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるために、じっと見つめておられました」。ここまで来ると同じ原文とは思えない。文語訳はだいたい新改訳に近い。「なんじは見たまえり、その残害(そこない)と怨恨(うらみ)とを見て、これに聖をくだしたまえり」(多少書き改めています)。さて、岩波訳はどうなっている。興味を抱いて読むと、成る程、岩波訳らしい。「あなたは——まことに、あなたが——見た、禍いと悲しみを。あなたは眺める、あなたの手に置くため」。もちろん詩の中のごく一部だけで、判断するわけにはいかないが、これで新共同訳の据わりの悪さがはっきりした。要するに、訳せていないのである。

2017 日々の聖句 5月29日(月)
主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。(詩5:13)

憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)

私の黙想:
神さまは「あつかましい奴」がお好きなようだ。遠慮深い人間をご覧になるとイライラなさるのじゃないだろうか。考えて見ると、旧約聖書に登場する「信仰深い」人間は、あつかましいようだ。その典型が、イサクの息子ヤコブだろう。私は従っているのだから、私をお恵みになるのは当然だという思いがあるように思う。その点、ユダヤ人と比べると日本人クリスチャンはかなり損をしているのじゃないだろうか。今日の聖句でも、「あなたに従いますから、お守りください」ではない。「お守りくださいます」と、あつかましくも断定的だ。どうやら、ここらあたりに、聖書における「契約」という考え方に、日本的な感覚との差があるのじゃないか。

2017 日々の聖句 5月30日(火)
主であるわたしは、(恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた。)見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。(イザヤ42:6~7)

自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、(自分も体を持って生きているのですから、)虐待されている人たちのことを思いやりなさい。(ヘブル13:3)

私の黙想:
「日々の聖句」では括弧内が省略されている。「見ることのできない」以下は、「〜〜ために」とその目的が書かれている。普通の日本語として今日の聖句を素直に読むと、「私は、〜〜〜のために」ということになる。これでは何のことか、主であるわたしは、何をしたのかさっぱり分からないであろう。私のようにローズンゲン(日々の聖句)を、沢山の聖書に囲まれた状況で読んでいるなら、何が省略されているかすぐに分かるから、「変だなぁ」と思いながらも味わうことが出来るが、ローズンゲンはいろいろな人たちがいろいろな状況で読み、その日の鍵とする。「赤いかさばらない」日々の聖句をハンドバックに入れて旅に出て、車中での読む人もいるだろうし、それこそいろいろな場面があり、ローズンゲンはそれらの人と人とを結びつける役割を果たしている。いったい、日々の聖句の編集者たちは、どういう形で読まれるかと想定しているのだろうか。本日のような聖句の省略の仕方は、どうなんでしょうか。はっきり言って、愚かなことだ。
さて、今日の聖句、いわゆる第2イザヤの言葉である。ここで「あなた」と呼ばれているのは誰かが重要だ。その「あなた」に託されている課題は明白であるが、その「あなた」とは誰か。主である「わたし」が呼び、手を取り、しかもその「あなた」は私が「諸国の光として形作り」、立てた、という「あなた」とは誰か。今は、祖国を追われ、異国の地で「囚われており」、何かをしたくても何もすることが出来ない状況に置かれている民、ユダヤの人たちである。主なる神は彼らをここでは「あなた」と呼び、重要な課題を課している。この言葉を聞いた彼ら(つまり主から「あなた」と呼ばれている彼ら)は、ここから解放される「時」が間近に迫っており、ここから解放されることの意味を理解したに違いない。

2017 日々の聖句 5月31日(水)
わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。(詩25:15)

あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。(ヤコブ5:8)

私の黙想:
アルファベット詩。非常に整った信仰の詩で安心して読める。原文で当たると実は、15番目の「サーメク」が抜けているが、それを22節で補っている。どうせ補うなら、元のところにと、思うが、それは考え方の違いであろう。内容的にも22節は他の節と比べると異なる。まその他にも、多少乱れがある。
ほとんどの邦訳は1節を無難に訳しているが、岩波訳は凝っている。「あなたこそ、ヤハウェよ、わが魂を私は挙げる」、なかなか面白い訳だ。
今日の聖句で「注いでいます」は、原文ではただそちら方向に「向いている」という語である。この「向いている」という語は次の16節の「私に向いていください」と対になっている。まさにヤハウェとの「アイコンタクト」である。

2017 日々の聖句 6月1日(木)
ダビデは主に言った。「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。(サムエル下24:10)

イエスの言葉:言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。(ルカ15:10)

私の黙想:
今日の聖句サムエル上と下とが間違っている。この部分(21章〜24章)はサムエル記の補遺である。ダビデの時代に3年間飢饉が続きた時があった。たぶんこのとき、ヤハウェから命じられて、部下の意見を無視して人口調査をしたらしい。何故か、この人口調査が神の怒りとなった。ダビデの部下であるヨアブもこの命令には疑問があったらしい(3節)。歴代誌上21:1では「サタンに駆り立てられて」となっている。要するに人口調査とは兵士の数を数えることで戦力の調査であったらしい。戦争の勝ち負けを戦力の差にすることは、悪魔の誘惑である。ということらしい。軍の大将ヨアブもダビデ軍の戦力の弱さを感じ、これの10倍の戦力は必要だと数えているように思える。

2017 日々の聖句 6月2日(金)
苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され、(わたしの魂は慰めを受け入れません)。(詩77:3)

どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。(1テサロニケ3:5)

私の黙想:
何故「夜」なのか。夜なら、手は「疲れている」だろう。日々の聖句では省略されているが、なぜ「わたしの魂は慰めを受け入れません」なのだろうか。この詩全体の基調の中で違和感がある。この部分フランシスコ会訳では「私の魂は安らぎを拒む」。成る程、そういうことか。
ここでの「苦難」とは、個人的なものでも、あるいは一時的なものではなさそうである。フランシスコ会訳では、何を根拠にしているのか不明だが、この詩のタイトルは「昔を回想して救いを求めるイスラエルの祈り」とあり、次のような解説がなされている。少し長いが引用しておく。
「本詩は一人称単数形で歌われているけれども、作者がかつてイスラエルが主の大いなる力によって救われたことを回想して、国民の幸福を求め、イスラエルの復興を祈ったものである。北のイスラエル王国の伝承が、嘆きの中に入れられているようであるが、本詩の年代は通常、捕囚から期間後の困難な時代と考えられている」(以下省略)。
この解説、納得できる。米田豊先生も、この詩は「バビロン捕囚中に記されたもの」と言っておられる。
詩人の嘆きは一朝一夕で解決される程度のものではない。だから、日毎に上がったり下がったりする感情の起伏による程度の慰めは不要である。日々の生活は、普通に営まれながら、いる成就するか分からない深い苦難の中での祈りである。

2017 日々の聖句 6月3日(土)
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。(イザヤ50:4)

ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。(使徒言行録16:14)

私の黙想:
旧約聖書ので「弟子」という言葉を読むと、何か違和感を感じる。何故だろう。ちなみに口語訳で旧約聖書において「弟子」という言葉が何回使われているか検索してみると、たった1回だけである(イザヤ8:16)。ちなみに新共同訳では5回、それもホンの行きづりみたいなもの。ということで、今日の個所は口語訳では「教えを受けた者」と訳されている。
今朝は、窓の外で鳴くカラスの大きな声で目が覚めた。熟睡しているとき神からの呼びかけて目が覚めたのは、幼いサムエルであった。彼はその声を先生のエリの声だと思って、エリのもとに走った。しかし、それはエリの声ではなかった。そんなことが2回繰り返されて、先生であるエリは、それがヤハウェの声であると悟り、幼いサムエルに、今度その声を聞いたら、「どうぞお話しください。僕は聞いております」と返事をしなさい、と教えたという(サムエル上3:1~10)。これが、後に偉大な預言者になるサムエルが初めてヤハウェの声を聞いた経験であった。このことを先生である祭司エリはどう思ったのだろう。賢明なエリは、時代の大きな変わり目を感じたに違いない。ヤハウェの語りかけは、サムエルに移った。
イザヤもエレミヤも、エゼキエルも、ヤハウェの呼びかけの声で預言者となった。預言者になることは生やさしいことではない。弟子と訳されているこの言葉は「リンムーディーム」という言葉で、これは預言者イザヤの弟子グループに名付けられた集団名のようだ。

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