ぶんやさんち

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ローズンゲンを愛用していた人 カール・バルト

2010-03-25 18:10:01 | ローズンゲン
3月17日付けで紹介いたしました宮田光雄先生の『御言葉はわたしの道の光――ローズンゲン物語』(新教出版社)の中で紹介されているローズンゲンの愛用者の筆頭はカール・バルト先生です。世に言う「バルト神学」のバルトです。バルト神学は、好き嫌いは別として20世紀を代表する神学であることには異論がないことでしょう。バルト神学の登場により、それ以前とそれ以後の神学はすっかり様変わりをしました。とくに、日本ではやっとキリスト教神学というものに目覚め始めた頃に紹介されたため、一時は神学と言えばバルト神学を意味するほどで、バルトにあらずんば神学に非ずという勢いでした。
宮田先生はカール・バルトについて、ローズンゲンとの関わりを、次にように紹介しておられます。
<ヒトラー支配下のドイツでナチの宗教政策に反対する教会闘争がくり拡げられたことは、よく知られています。そのリーダーとなったバルトは、ナチ当局からすれば全体主義的な国家統制を妨げる「敵」として最大の標的とされました。
1934年の夏のころ、ドイツの国防軍の全将兵から官吏全員まで、総統ヒトラーにたいする無条件の服従を宣誓するように求められます。しかし、ボン大学教授だったバルトは、キリスト者として、何らの留保条件なしにその命令に応ずることはできませんでした。そのため彼は、ボン大学から職務停止を命じられ、さらに懲戒裁判に付されます。予審の過程では、この宣誓問題ばかりでなく、バルトが授業をする際に教室で「ドイツ式敬礼」、右手を上げて「ハイル・ヒトラー」と叫ぶナチ式の儀礼を行なっていないという事実も問題とされていることがわかりました。これにたいするバルトの抗弁の中にローズンゲンが登場してくるのです。当時、彼は、すでに2年前から、いつも短い礼拝で講義を始めるようにしていたのでした。それは、ローズンゲンの朗読と讃美歌の一節の斉唱からなるものでした。バルトのローズンゲンとの関わりは、彼が若い日にシュヴァーベンの敬度主義者ブルームバルト父子から大きな影響を受けていたことを考えれば、不思議ではないでしょう。ともかくバルトは、神学の講義で行なわれていることは一種の礼拝であり、その場合、「ドイツ式敬礼」はふさわしくない、と主張したのでした。
このときの裁判では、バルトは奇跡的に勝訴することができました。しかし、その結果如何にかかわらず、ナチ当局は、しゃにむにバルトを免職して、やがてスイスへ出国するように追い込むのです。そこで明らかになったのは、もはや宣誓その他は問題ではなく、まさに告白教会の指導者バルトをドイツから追放することこそが意図されていたという事実でした。いずれにしても、ナチ権力との闘いの中で、バルトにとってローズンゲンが一つの役割を果たしたというのは、まことに興味深いところです(K・クーピッシュ 『カール・バルト』新教出版社)。>

宮田先生は、聖書の主題を「恵みによる解放のメッセージ」として受け取ることをカール・バルトから学んだと言っておられます。これはその後のいわゆる「バルティアン」と言われている人からはあまり耳にしないことですが、晩年のバルトは神の「大いなる肯定」と「神の人間性」ということを強調した、と宮田先生は述べておられます。「生ける神は、この世のため、また人間のための神でありつつ神なのである」。実に含蓄に富んだ言葉です。また、こんな言葉も紹介されています。
「人間は夕べにいたるまで労働や耕作にたずさわることを許されている。それには、むろん、人間がその五官や悟性を用い、2掛ける2は4という計算をすることも入っている。それだけでなく、詩をつくり思索すること、音楽を楽しみ飲み食いすること、喜んだり、またしばしば悲しんだり,愛したり、ときには憎んだり、若かったり年老いたりすることも。・・・・・こうした人間を妬むのは誤った神々のであろう。人間にとって無条件の主である真の神は、神が人間を創造した目的にふさわしくあることを人間に対して許されるのである」。
こういう言葉と発想はローズンゲンから生まれてくるに思います。わたしは基本的にはバルト神学の立場には立っていませんが、こういうことを語るバルト先生は大好きです。毎朝、ローズンゲンを読みながら、バルト先生もこうして読み、考え、言葉をつづり、祈っておられたのかなぁ、と想像しています。



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