ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

松村克己:三位一体の神

2017-05-31 16:07:14 | 松村克己関係
松村克己:三位一体の神
関西学院大学神学部「神学研究」第9号、1959年12月

第1章 象徴性ということ
三位一体の神は、日本基督教団信仰告白の中にも、はっきりと言い表わされており、「主イエス・キリストによって啓示され、聖書に証されている唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神でありたもう」と誌されている。キリスト教神観の特色を三位一体の神だとするのは教会の長い伝統に基づき、信徒の常識となっている。しかしそれが何を意味するか、この教えを人々は果してどのように理解しているか、それによって示されようとする聖書の真理がどういうものであるか、についてはかなり暖味なままに放置されているようである。近代プロテスタント神学においては、古いこの教義は黙殺されてはいないが、人々によってその取扱い方はまちまちであり、教義学のうちに占めるその位置も一定してはいない。大体において正統主義の立場に立つ者は、最初に取扱わるベき神論の中でこれを取り上げている。それに対してシュライエルマッハーの流れをくむ神学者は、全叙述の最後においてこれに触れるのが普通である。バルトは原理論の場所で、啓示と関連して詳述しているが、シュラッターのような人はキリスト論の中で、アウレンも同様、言わば行きずりに取り上げている。
教理史の上からは、三一神論は明らかにキリスト論の発展であり、その要請として生れたものである。狭義のキリスト論はイエス・キリストの人格の秘密を主題とするのであるが、それは彼のなし遂げた業の考察、救済論と密接に結び付いている。狭義のキリスト論はキリストの人格における神・人の一致という困難な問題と取り組むわけであるが、この問題設定は、キリスト教における啓示の理解という観点から明確に規定されるのでなければ、思弁に走る危険がある。 その点において、バルトの方法は適切な試みであると言うベきである。キリスト論はキリスト教神学にとって原理的な意味を持っている。それだけにキリスト論の課題は福音の中心点を常に擁すると共に、広い地平を見失わずに神学の全領域を支え包むものでなくてはならない。それは常に清新な流れを溢れさせる生ける泉に比ベられるが、出口のない泥沼のようなものになってはならない。枯れた泉に再び生命の水を湧出させることは、独り神学者のみの任ではなくして、すべてのキリスト者の願いであり共同の責任でなくてはならない。その意味で小田切信男氏の提出された問題は、極めて重要な意義を包蔵すると考えられる。今日までの聖書に基づく論議は必ずしも豊かな実りを約束するとは見えず、かえってますます問題の困難さと深さとを次第に気付かせてくれるように思われる。聖書学や新約聖書神学の領域からはなお研究が打出されるであろうが、私はいささか方向を変えて、側面からの光を投じる道があるのではないかと、三一論の吟味を企てた次第である。

主題に入るに先立って、一つの事を明確にしておく必要がある。それは宗教的真理の表現の象徴性ということである。宗教における対象は何らかの意味において絶対性を担いかつそれを主張する。絶対的意味をもつものとの関わりにおいて、自らもまたその生に絶対的な意味を担おうとする、それが宗教的な要求であり実践である。それを実現する媒介として宗教はさまざまな行事・儀式・教義・組織を持っている。それらのものは何れも絶対的なものの指標として、一方には絶対的な意味を持ちながら、他方それ自身としては歴史的な存在であって人間的な不完全と相対性とを免れない。言わば 究極的なものを指し示す指標であって、最後的なものではない。がそれを他にして任意のものがそれに代り得るというものではない限り、独自な意味を担っている。そういう存在を普通「象徴」と呼ぶ。
象徴は媒介性によって生きる。これを失うとき、象徴はもはや象徴ではなく偶像に堕する。象徴の象徴たる理由は、それが自己を超えて指し示している当体によって常に生かされ、その働きの道具となり、その生命の器として存在することである。教義とか信仰告白を問題とするとき、われわれはこの事を忘れてはならない。この点において、カトリックとプロテスタントとの間には根本的な相違があるように思われる。カトリックと同じ意味においてはプロテスタントには教義というものは存在しない。信仰告白は教義と同じものではない。カトリックの教義も元来「シンボル」の名を担う限り、右の性格を否定することはむつかしいのではあるまいか。
次に記憶すベきは、キリスト教においてこの象徴性は徹底的に主張され生かされなくてはならないということである。福音とは教えである以前に、既に一つの事実であったし、また事実であることを主張し要求する。教えはこの事実を指し示し、また新らしい事実を生と歴史の中に生もうとする。見るべからざる神が、見える姿において自己を示し給うたというのが福音の本義である。それによって、望なく死すベき人間が神と共に生き、神の生に与ることが許されるからである。この神と人との関わり合いにおいて、主導性はあくまで神の側に求められなくてはならない。宗教的真理が救済とか恵みとかいう語を中心にして語られるのはそのために他ならない。
その場合、神の働きは啓示として人に達する。啓示の内容が単なる理念とか救済財にすぎないと考えられる場合には、神と人との間の質的区別は注意されず、また強調されない。しかし、啓示の内容が主体(神)そのものに他ならないと考えられる場合には、啓示の受領者である人間は自己の転換なしにはこの受領にも、それに基づく共同にも堪えることができない。そこでは死と復活という姿で必ず新生ということが語られる。新生は神との生の共同という姿をとる。それは何らかの意味において人が神に与ることであり、粗雑な言い方をすれば、「神となる」ことに他ならない。
前者、つまり啓示の内容が理念とか救いに関することである場合には、自己の内部に神性を見出し、神らしく生きる者となるということであるが、後者、つまり神自身が啓示された場合には、神に与る者とされて神の生を分かち合うのである。
神と人という全く異質的なものが、共同という仕方で一つの生を共に生きる。そこではその生は人のものでありつつ神のものであり、神のものでありつつ人のものであるという二重性が注目される。このような事態が可能にされ、与えられるためには、神は神たるままで人間に出会うのではなく、人として、人においてでなければならない。直接に出会うのは人でありながら、しかもそこで神は自ら働き、そのことを知らせる。いわば神は間接に、媒介されて人に関わりつつ、しかもそのことを人は直接に感じる。知性による推論や想像によるのではなく、人格的な直接体験としてそれを知る。これが象徴の機能に他ならない。
キリスト論や三一神論の表現もまた、信仰の反省と吟味の上に成立したものには違いないが、信仰という生の姿に立ち返って、それの言わんとするところ、動機に基づいて、その意味するところを理解しなくてはならない。信仰や信条が常識化されるところでは常に、本末の転倒、生命と衣との混同が存在するからである。

三位一体の教理が思想的に明確な形をとって定式化されたのはアウグスチヌスによったと言ってよい。彼に独創的なものがあったということではなく、揺れていたこの表現に不動の定式を与えたという意味である。tres personae, una substantia (直訳すると「三つの面と一つの実体」)という用語表現がそれである。元来この問題はギリシャ教父たちの間から始まって西方教会の中に落付いたもので、かなり複雑・面倒な歴史をたどっている。substantia という語を始めて使用したのはテルトゥリアヌス であるらしい(Adversus Praxeas 2,3;3,2)。三(trias)なる語を以て既にテオフィロス(2世紀末の有力な護教家の一人、アンティオケァの監督) Adversus Autolycum の中で実質的にはキリスト教神観の特徴を強調しているが、この語から明白に三一(trinitas) なる語を作り出したのもテルトゥリアヌスであると言われている。またペルソナ(persona)という語そのものも彼において見出される。3世紀の初めに活動したこの人からラテン神学は始まったと見てよい。
使徒信条はよく言われるように三項目式の信仰告白であって、父・子・聖霊が一つであるという明文はない。一体が明確に表明されるに至った信条としては普通アタナシゥスの名を冠せられている信条がある。アタナシゥスのものでないことは確かで、現在用いられている第2部の加わった形のものはずっと後代、8世紀頃のものと考えられるが、第1部の方は5世紀中頃に遡ることができると歴史家は見ている。思想的基調は明らかにアウグスティヌス神学であると言える。そこでは第3条において「一つなる神を三位において、三位を一体において礼拝する」と語られている。ここに三位とか一体とか訳された語は trinitas と unitas とである。 従って trinitas (三一)は trias (三)にも戻ったような使い方がされている。明確な表現のように見えて概念的にはかえって問題を感じさせる。trinitas は 「三たること」、unitasは「一たること」であって必ずしも三位とか一体とかいう明白な表現ではない。それは信条が Symbolと呼ばれる宿命であるかも知れない。それは今おいて、この二つの公同信条の間にニケア信条とカルケドンの信条が介在する。何れもキリスト論の信条と俗に呼ばれるものであって、前者においては父と子との同質(ホモウーシアス)ということが、 後者においてはキリストは「真に神であり真に人」であって、両性は一人のキリストにあって、混同されず、変じることなく、分かたれず、ひき離されないことが規定されている。
三と一とを結合し支えているものはキリスト論に他ならないことを、この事態は示していると言ってよい。しかしそれだけにこれを裏返して言えば、ニケア・カルケドンにおけるキリスト論的理解と表現とが適当かどうかということが問われることも可能である。近代神学は正にこの問を提出したのであるが、それが果して近代主義の弱さを暴露したものに過ぎないかどうかは簡単には決められない。
trinitas とか trias とかいう語が始めから明確な概念内容を持っていたのではなく、手探りで掴み出された慨念であることは、神(セオス)、位格(プロソーポン、ペルソナ)、体(ウーシア、スブスタンティア)等についても同様に言える。信仰の真理を言い表わそうとするこれらの概念をそのものとして明確にすると共に、それによって示され表現されようとしている真理の実態を明確にすることが神学的批判と呼ばれるものの仕事でなければならないであろう。

古プロテスタント神学は三一論を2つの観点のもとに分けた。神における「オペラ アド エクストラ」(外的働き) と「オペラ アド イントラ」(内的働き) との区別である。前者は神の啓示の働きにおいて見られる父・子・霊の三一的統一を意味し、普通は「経倫的三一論」とも「救済論的三一諭」とも呼ばれる。後者は神そのものにおける永遠の三一の関係を問題とするもので「本質的三一論」とも「内在的三一諭」とも呼ばれる。三一論の問題における疑義は主として後者に存する。新約聖書が前者について語っていることは詳論するまでもない。神は自己をイエス・キリストにおいて、聖霊によって示した。しかもここで私たちに示された神の啓示とは内容的に言えば神の愛に他ならない(1ヨハネ4:9、ロマ1:17、3:21、ヨハネ3:16)。
神の愛は、父・子・霊の三一的な働きとして福音の中に示され、それを通して神は御自身を私たちに与えようとされる。信仰によってこれを受けるとき、そこに成立つものが神との交り<共同>である。2コリントの末尾のパウロの言葉が「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わり」という三重性・三一性の形をとっているのはこの点を最も明らかにしている。初期の手紙ではただ簡単に「主イエス・キリストの恵み」(ガラテヤ6:18)、1テサロニケ5:28、2テサロニ3:18)となっているのがこのような形に発展したのは言うまでもなく反省の結果である。しかもなおこの形式が未だ固定したものでなかったことは、「主イエス・キリストの恵み」という一項目形式の祝福がフィリピ書やフィレモン書など晩年の手紙にも見えること、父なる神と主イエス・キリストという二項目並列の形式も見えることによって知られる。洗礼が始めはイエス・キリストの名によって行われたであろうことはほとんど疑いを容れないが、それがマタイ福音書末尾のような「父と子と聖霊の名によって」行われるようになったのも比較的早い頃からであると考えられる。使徒信条の形と考え合せても、父・子・聖霊の三重形式がキリスト告白とキリストの名の意味を反省することから発展したこと、しかも新約聖書の時代に既に見出されることは疑う余地がない。問題はその後の発展が三一神論という教理となり、それが啓示の神の三一論から、神の本質の三一論にまで至る道筋である。

第2章 聖書テキストの検討
ところでここで暫く立ち停って注意したいと思うのは、上に挙げた新約聖書における2つのテキストである。新約聖書の中で誰の目にも明瞭に訴えてくる三一的表現はこの2つである。2コリント書末尾の祝福の言葉は、今日では祝祷として用いられているが、ここで、「主イエス・キリスト」「神」「聖霊」の順序は偶然ではなくして深い理由があることを思わせ、またこの順序が極めて自然であるということに注意したい。そしてそのことから、私たちは困難な問題を解きほぐしてゆく糸口、方向付けを与えられるように思う。今日、祝祷において、この順序が変えられて「神・キリスト・聖霊」とされ、更に「父なる神」「子なる神キリスト」「聖霊なる神」と言ったような修飾が加えられる事例にぶっかることがあるが、これは人間の反省と恣意との結果であり、教理的歪曲である。結論を先取して言えば、三一神論ないしキリスト論は、いわゆる基本信条とか世界信条とか呼ばれているものだけでは不充分であって、プロテスタント諸教会の信仰告白が生れて来なくてはならなかった必然性はこの不充分さに基づいており、従って問題の新らしい展開は三一神論やキリスト論の理解が信仰諭や救済論の面から改めて取上げられ、吟味されなくてはならないということである。つまり信仰の客体とか内容とか呼ばれる面と、信仰の主体とか働きとか呼ばれる面とが密接な生きた関連において改めて理解し直されなくてはならない。この当然のことが実は今日までか本当にはなされていないということは驚くベきことである。筆者自身もまた、困難な問題を追いつつ漸くこの驚くベき事実に突き当ったことを告白せざるを得ない。プロテスタントが400年の歴史を持ちつつ、なぜそういうことになったのかと考えてみると、プロテスタント神学はカトリックに対抗するという情況の中でおのずから向うのペースに巻き込まれ、向うの概念と論理とを用いて自己の立場を表明しようとしている間に、何時しか同じ考え方に引き込込まれてしまい、自己の固有性を表明すベき根源的論理の追求と発見とを充分に自覚的に遂行しなかったということである。古プロテスタント神学はスコラ学の上に立ってプロテスタント・スコラ主義と呼ばれるに至って涸渇した。新しい生命を求めて出発した近代プロテスタント神学は体系の樹立に急であって、手当り次第に便利・有力と見える時代の思潮を利用してそれと共に推移したと言える。根本的な任務と課題とは、聖書の示す事実に深く聴き、よく見、現代における信仰との呼応・対決の構造を明確に把握することである。
さて信仰とは神と人との関係を示す概念であり、この関係は物を媒介とし世界を場として成り立つと考えられる限り、信仰は存在論的な問を根本において外すことができず、そこから真に有力な生き方も可能となる。然るに、信仰の客体・対象の面であるキリストや神の論が具体性を持ちうるために、信仰や救済の面(信じる側)に注目されたのはよいが、後者が再び対象化されて前者との関係が問題とされるに至ると、信仰論といえども対象の優位に基づく教条主義とならざるを得ないだけでなく、主客の生きた関係は把えられなくなる。真の主体は相互にのみ主体であり得るのであって、生きた信仰の体験はこのことを知っている。互に主体であるということは主客の転換・融通が行われるということである。これが聖書のいう交わり(コイノーニア)に他ならない。この事実の自覚に至る道行きを示すものが「主イエス・キリストの恵み」「神の愛」「聖霊の交わり」である。私たちが現実に知り得る当のものはキリストであり、その恵みである。それが反省され自覚されるとき、その背後にある神が、愛として知られる。キリストの恵みにおいて知られるものは神の愛である。しかし更にその成立の理由が問われるとき、信仰者は始めて聖霊の現実に目を開かれる。それは交わりの事実であり、そこで自己を見出し、キリストに出会い、神を知ったことを悟る。キリストの恵みを知ったと言うとき、信仰者は既にキリストゆえの人との交わりの中にいたのであり、人を媒介として彼を知り、彼との交りにおいて神を知ったのであた、と理解する。そうすると事実上の最初にあったものは自覚の上では最後に把えられることになる。いま不充分な図式を以て示せば次のようになろうか。

図1挿入

聖霊は復活したイエスの霊、つまりキリストの霊である。イエスは歴史的存在また人格であるが、キリストはその職分の上から出た彼の名であり、復活によって明らかとなった彼の本質的存在また人格である。それは時間と空間とを超えた存在の仕方として霊と呼ばれる。人はこの聖霊によってイエスをキリストと知り、また告白する(1コリント12:3)。しかしここで聖書はこのことを裏から確かめることを忘れていない。すなわち聖霊はただ漠然たる神の霊もしくは単なる霊ではなく、歴史的存在であるイエスに連り、イエスの人間と歴史とに関わりのない霊を排除していることである(1ヨハネ4:2~3)。
信仰者の関わる相手、信仰の対象はこのような二重の構造ないしは性格を持った存在である。歴史的であると共に超歴史的、人間的であると共に神的であること、これがキリスト論の根本志向であり、体験の地盤に密着した姿である。この私に対して(pro me)という方向を逆にして背後を問うとき、イエス—キリストの二重性はイエス(子)—神(父)の二重性となって立ち現れ、その関係が改めて問い返される。ここにそれ自身における(pro se)神としての三一神が反省の結果として登場する。その場合に忘れてならないことは、pro se の理解は pro me を離れては、あり得ないということである。
歴史的瞥見の示すように(後述)、三一神諭はキリスト論に要求されて出て来たものではあるがそれで問題は解決され定着したのではなく、かえって三一諭の教義決定が新たな地平において再びキリスト論を問い返すこととなり、問題は未解決のままに今日に及んでいると言ってよい。それは何を意味するかと言えば、三一論を支えるキリスト論はダイナミックなキリスト論でなければならないということ、それによって始めて、キリスト論は神学的思惟の発条となり、信仰の生命の泉となり、全神学を支える軸となり得るのである。従来の静的なキリスト論に対してダイナミックなキリスト論と言うのは何かと言えば、キリストを信仰の対象としてのみ理解するのではなく、信仰的実存の構造として理解することである。これは非常に困難な課題ではあるが、信仰の基礎的体験はそれを知りまたそれを求めている。信仰的実存の構造というのは、「キリスト我に、我キリストに」という交り、生の共同の構造である。交りは二つの主体の間に成り立っがその関係は動的である。しかし信仰者の場合の我はいわゆる「古き我」ではなく「新しき我」であり、この新しい主体はキリストが聖霊として臨み働くことによって古い生れながらの自我の中に新たに創造されたものである(2コリント5:17)。聖霊はここでいわゆる「分極」して聖霊(キリスト)とわが霊との対面という形をとったのである(ロマ8:16)。聖霊とは元来こういう動的な働きにおいて存在しまた私たちに体験される構造的な性格を持つものであって、静的な存在(entity))と考えるべきではない。この事は動的なキリスト論にとって欠くことのできない理解であり、それが三一論を動的に理解させる体験的根拠である。ヴァン・デューセンが聖霊の理解から出発して三一神論の新らしい理解を企てようという最近の試みは至当だと言うベきである(van Dusen;Spirit,Son and Father,1958)。またほとんど同時に公にされたC.C.リチャードスンの三一神論も、父と子とから出る聖霊については、前2者と同様な存在性を否説していることは当然と言わなければならない(C.C.Richardson;The Doctrin of the Trinity,1957)。古代・中世の実体論的思惟から近代の思惟が機能的な性格へと移ってきていることは注目されるが、その源泉は中世後期の修道院から生れた自然科学の成立と、ルターの福音理解にある。この点を詳述する暇はないが、私たちの三一神論の吟味はルターの福音及び信仰の理解を論理的・神学的に突きつめてみようとするにある。

本稿の結論ヘの方向ずけを一応明らかにした後、再び問題の2つのテキストに立ち帰って論を進めることにする。前述したように、キリスト者の信仰経験において現実に信仰の相手として立っているのはキリスト・イエスである。彼の恵みに触れて始めてその背後にある神の愛を知る。彼の父を私たちもまた彼と共に父と呼ぶことを許される。しかし父なる神は徹頭徹尾隠されている。この知られざる神を知り得るのは、彼に支えられ保証されてのことである。この保証・証しは何に基づくかと言えば、これも前述した聖霊の証しである。キリスト・イエス及びその父なる神との交りの理由を反省してキリスト者は始めて聖霊に気付きこれを知る。交りの現実こそ聖霊の現実に他ならないことを。キリスト教的実存成立の出発点であり根拠であったものは今や反省的認識においては最後に意識の面に立ち現れる。三一神的告白や頌辞が、キリストに始まり、聖霊に終ることは極めて自然であり、それはまた本質的な構造に基づくことであって、この順序が変えられ乱されるときには、実は信仰の現実と構造とは歪められ理解は混乱に陥らざるを得ない。それは三位一体論成立の概念使用とその規定並びにその理解の変遷においてこれを見ることができる。
このことを裏付けまたこれと呼応するものとして今一つのテキスト、あのマタイ福音書末尾の句を取り上げることができる。「父と子と聖霊との名によって」施される洗礼は、当初は「キリストの名」によって行われたのである。上の句における「名」が依然として単数であることは注目に値する。父と子と聖霊という3つの名辞を用いながら、彼らが現実にそこで受けとっていたものは三位一体の神であるというよりは、キリスト・イエスであったに違いない。キリストの名によって行われていた洗礼が、父と聖霊とを加えるに至っても、実質的には変りはなかったのである。2コリント書の祝福の句と同じように、キリストの現実が反省を通してその背後に、父と聖霊という2つの関係項をその構造的含蓄として意識させたに留まる。もしそうではなく洗礼におけるキリストの現実が見失われはしないにしても稀薄にされて、三にして「一なる神」の方に意識が傾くとすれば、洗礼のキリスト教的な特色は没却されてユダヤ教的理解へと近接するか、異教的グノーシスへの道を開くこととなるだろう。そしてニケア会議に至るまでのキリスト論々争の姿はまさしくこのことを示していると言ってよい。「父と子と聖霊との名」における名の単数は、一体なる神への志向から生れた単数でなく、三がキリスト・イエスの現実において示される三であり、中項「子」の重要性への関心の自然な定着と解すベきである。そのことはパウロがロマ書6章で取り上げている洗礼の意味の解説からして明瞭である。キリスト教の洗礼は、キリスト・イエスへと(エイス)、キリスト・イエスとの共同(コイノーニア)のために行われるので、その結果、キリストに在る(エン) 新らしい存在として生きる(ロマ6:3,4) に至る。
キリスト・イエスと聖霊との密接な関係は初代教会においては最も早くから注意されていながら、神学的反省の問題としては最もおくれて取り上げられた。キリストと神との関係が問われてニケア会議の決定を見た後、半世紀を経て開かれたコンスタンチノポリスの会議(381年)においてであった。その道行きを辿るに当って、考察の出発点となるのは「主イエス・キリスト」と呼ばれる場合の「主」の由来とその意味含蓄であろう。

第3章 イエス・キリストが「主」と呼ばれる理由
イエス・キリストが救済者として「主」なる称呼をもって呼ばれたのは、何処で始まり、何時から始まったか、という問題は歴史的論議としては簡単に片付けけられないものを含んでいる。宗教史学派はこれを異邦人教会においてであると見る。それは最も藍然性に充ちた見方ではあるが、エルサレムの原始教団では不可能であったか、という反問に対しては、決定的な「否」を言うことはできない。 明らかなことはエルサレムの原始教団であれ異邦人教会であれ歴史的評価は異るとしても、新約聖書自身の示すところでは、使徒がイエス・キリストを「主」と呼び、その名を呼んで祈ったということ、従って彼を礼拝の対象としていたことである(使徒言行録7:59、1コリント1:2、2コリント12:8、黙示録22:20)。しかしこの事から直ちに、聖書はイエス・キリストを神として拝したと結論することは早計である。理由は後に述ベる。
エルサレムの原始教団は最初イエスの弟子たちを中心とするユダヤ人から成っていた。彼らの宗教史的背景は言うまでもなくヤハウェを唯一の神、世界の創造者また審判者と仰ぐユダヤ教の伝統である。救済者メシアの待望は古く預言者たちから出て当時の人々の心にも強く生きていたが、メシアはヤハウェそのものではなく、ヤハウェの僕であり、ヤハウェから遣わされて地上に来る者であった。ナザレのイエスは聖書に予言され、待望されていたメシアであった。復活がそれを証する、というのがキリスト告白の意味であった。「キリスト」とはメシアのギリシャ訳に他ならない。原始教会は最初、イエスを「メシア」と呼んだに違いない。しかし問題はその他の呼び方をしなかったかということである。ここにおいて「主」の称呼が浮かび上がってくる。もとより当時の異教社会には様々な「主」があった(1コリント8:5)。東方の諸宗教はそれぞれに救済者(ゾーテール)をもち、これを主(キュリオス)と呼んでいた。パウロもキリストを自明的のように「主」と呼び、「主イエス・キリスト」という表現は至るところで出会われる。彼は原始教団で用いられなかった語をこのように自明的に用い得たであろうか。のみならず福音書や使徒言行録にも、イエスを「主」と呼ぶことはしばしば見出される。イエスの直弟子たちを経て原始教団の人々が使ったのではない語、パウロが異邦人キリスト者の間で始めて用いた語が福音書や使徒言行の訳者たちに影響してイエスを「主」と呼ばせた、というようなまわりくどい説明よりも、パウロはエルサレム教団の人々からこの称呼を受けとったと考える方がはるかに自然ではあるまいか。「主」という称呼も、彼自身が語っているように「私が最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、私自身も受けたこと」(1コリント15:3)の中の一つではなかったろうか。
更にエルサレムの弟子たちがイエスを「主」と呼ばなかったという断定を下し得る根拠はない。むしろ2つの理由からこの事はあり得ただろうと考えられる。第1は、イエスの直弟子たちが生前イエスを「主」と呼んだろうということ。この語はいうまでもなくヤハウェの名を口にしないために、旧約聖書においてヤハウェと書かれたところでアドナイ(主)と読んだこと、従ってヤハウェを呼ぶ名ではあったが、同時に地上の人間関係において「主人」を呼ぶ名でもあった。師弟の関係は主従の関係でもあった。とすれば、生前その師に対して「主」と呼んでいた弟子たちが、師の死後、何らかの理由が加わったとき、それを自然にしかも自覚的に口にしたということは極めて当然だと言えるであろう。何らかの理由というのはこの場合、いうまでもなく復活の経験である。復活の経験は歴史的なプロセスや姿を問えば面倒な議論もしなくてはならないが、今その意味内容を抽象的に把え、概念的に規定するとすれば、それはイエスの愛の永遠性の確信であり、それに基づく新らしい生の成立・展開に他ならなかった。それはイエスの存在と人格との永遠性を証するものであり、彼の神性を示すものに他ならなかった。パウロもまた、ダマスコ途上において神的存在に出会い、それがナザレのイエスであると告げられることによって、パリサイのラビからキリストの使徒へと転身したのであった。ここでイエスの「神性」とか「神的存在」とかいう語で表現されているものが何であるかを突きとめることに問題はかかっている。この暖味な表現が実は大切なのであり、この規定しがたい表現の中にこそ重要な秘密が宿されている。以下の考察は終始この点を巡っての批判となる筈である。
原始教団の人々は確かにイエスを神的存在と認めた。その意味で彼に神性を帰した。彼が単なる人ではなく預言者以上のものであることを主張した。それを示す者がメシア・キリストに他ならない。しかしそれは直ちに神・ヤハウェと同じではない。キリストは神から遣わされた者であるとはいうが、神が地上に降ったとも、神がキリストになったとも、聖書は語っていない。このような表現はやがて後に現れてくる説明である。彼らが「主」と呼ぶところのものは神話的存在ではなく、はっきりした地上の歴史を持ち、彼らが親しく生活を共にした人格である。彼らはただ「主」を説いたのではなく、ナザレのイエスが主でありキリストでると説いた。人間として歴史を有することこそ、救済の現実性を主張し得る根拠であった。このキリストを「主」と呼び、彼の名を呼んで祈りはしたが、祈りと礼拝の相手はイエス・キリストの父なる神であることを決して見失いはしなかった。彼の名を呼び彼に祈りはしたが、その意味が明確に自覚されてくると、祈りは彼によって父なる神に捧げられることを一定の方式によって表明するようになった。洗礼が彼の名によって行われたように、祈りは「主イエス・キリストの名によって」父に捧げられるに至ったのである。彼によって、ということは彼と共に、彼と共に歩む(生きる)ことによって、ということである。その事によって彼の父は私たちの父となり、父の独子である彼は私たちの長子であると理解された。イエス・キリストを「主」と呼びつつも、新約聖書は多くの場所で父なる神との区別をし、むしろ父と並ベて、神と主イエス・キリストという表現をとっている。この「と」なる表現もまた含蓄の深い「カイ(英語で言うとand) 」である。これは異る2つのものを同列に並ベたのでもなく、同格的に1を以て他を説明しているのでもなく、いわば2つの存在の共同関係を指し示すものであって、1は他なくしてはなく、両者の共同によって始めて1つの事態が生れまた機能することを示そうとする。従ってそこでは、直接に私たちと関わりを持つのはイエス・キリストであるが、彼との共同によって、その背後にある見えない神、彼の父を父として持ち、彼と父との共同をまた私たちにも移されて持っことができる。間接的に父なる神と関わりを持つことができるということを言い表わしている。信仰という一本の矢がキリストと神なる2つの的を貫いていると考えてもいいだろう。
神の啓示と救済とがキリストにおいて「エン(英語で言うとin)」またキリストによって「ディア(英語でいうとthrough)」行われ与えられるということは、神がキリストにおいて私たちに現前し働くということである。私たちが神の Wirklichkeit (actuality ) に触れるという場合にはそこに一面私たちと同じく人間的なものであると共に、他面神的なものがなくてはならない。それがとりも直さず媒介者・仲保者 (der Mittler )という概念を成り立たせることになる(2テモテ2:5、ヘブル8:5 )。パウロが既にロマ書で言っているように、イエス・キリストには「肉によれば」「霊によれば」という2面が区別される。前者においてはダビデの子孫から、女から生れた人間であるが(ロマ1:3、ガラテヤ4:4) 、後者においては、力を持つ神の子としてその先在が考えられなくてはならない(ロマ1:4、フィリピ2:6、へブル1:2、1:1)。この2つの面は後にキリストの人性と神性としてその関係が問われ、キリスト論の中心問題となるのであるが、忘れてならないことは、一人のイエス・キリストにおいてこの2つの面が取り上げられているということである。従ってキリストの理解において何れか一方に強調点が落ち他が軽くされるという事態がすぐに起ったし、またそれが繰返されることになる。そしてそれを救おうとして最初に出て来たものがロゴス・キリスト論であり、この立場がキリスト論論争を通じて保持されることになる。
キリストをロゴスとして説明する行き方はヨハネ福音書の冒頭に出てくるが、このロゴスは言うまでもなくアレクサンドリアのフィロンのロゴス説に基づく。彼はユダヤ教における知恵とか霊とかいう語で表現されて来た神と世界との媒介的存在をギリシャのヘラクレイトス以来のロゴス(理・言)という語を用いて言い表わしたのである。キリスト教神学者の先駆となる2世紀の護教家と呼ばれる一群の思想家たちは、大体においてキリストをロゴスと見るこの立場を共通にしている。それは言わば中間的・中庸の立場である。ただその中庸が静的ではなく、どれだけ動的な理解を深めることができるかに問題はかかっている。
ユスティノスに始まってテルトゥリアヌスに至るこれらの人々の前に使徒時代を継承する使徒教父と呼ばれる人々がある。その中で注目すベきはイグナティオスである。彼はパウロの「吾等の主、イエス・キリスト」なる表現を好んで「吾等の神イエス・キリスト」と変え、この時代の他の多くの教父たちがキリストの神性を認めつつもその人性を否定し得ずに、最初の被造とか初子とか呼んだ(ヘルマスの牧者・2クレメンス)のに対して、キリストは造られずして神と共に永遠の存在であると主張した。キリスト論とはキリストの人格の秘密を解明しょうとするものであるが、反省は既にこの頃から深められて行くことになる。当時の一般的傾向としては2つの流れがあり、一はユダヤ思想の伝統に立って神の唯一性を守ろうとするもの、従ってキリストに神性を認めつつも従属的な地位を許そうとするもの、これをエビオン主義と呼ぶ。他はキリストの神性を強調する結果はその人性を稀薄にし、むしろ人間イエスを影のような存在とするもの、これをグノーシス主義と称する。それぞれの立場からは養子説(Adoptionismus)および仮現説(Doketismus)が生れた。教会はこの両極端を却けて中道を行こうとする。2世紀における上の2つの立場の対立は3世紀になると勢力説 (Dynamisumus)と様態説(Modalisumus)との対立と変ってくる。ユダヤ教的と異教的という対立はなくなって、一般思想史的背景は新プラトン主義の優勢に見られるように、既に一神教的空気を強く打ち出して来ているからである。何れも神の唯一性を守るうとするもので、モナキアニスムス(Monarchianismus) の名で呼ばれている。2世紀末から3世紀中頃にかけて有力となったもので西方に起り次いで東方にも拡がった。前者の代表者としてはテォドトス(3世紀末)とサモサタのパウルス(3世紀後半)とがある。イエスは神の力を受けて神の子とされたので、力としての聖霊は人間を神的にすると考える。後者の代表者はサベリウス(3世紀始)である。この人は聖霊をも加えて、
父・子・霊の三者は同じ神の異った顕現様式に他ならない、一の(ヒュパスタシス) に三つのプロソーポンがあるとする。人間に体・魂・霊の三者があるのと同じだと考える。ロゴスというような中間的存在を考えず、神自身が人類の救のために人となった、それが「子」と呼ばれるキリストである、彼の復活昇天後は神は「聖霊」として働く、というように時間的様態としても説明した。サベリウスは東方で有力でありいわゆるサベリアニスムスの名で知られるようになったが、西方ではプラクセアス(2~3世紀交)及びその弟子ノエトス(3世紀始)によって受けつがれ、天父受難説(Patripassianismus) と呼ばれ批難されるようになった。キリストは地上にある間は神の化身であって、キリストの受難は父のそれに他ならないというのである。
ヒッポリュートス(3世紀始)やテルトゥリアヌスなどはこれらに反対してロゴス・キリスト論の立場を正統的教説として擁護したのであるが、西方教会における神学成立の場所としてテルトゥリアーヌスを挙げねばならないとすれば、東方における最初の神学者はオリゲネス(3世紀中頃)ということになる。そして東西の媒介者たる役割を果したのがヒッポリュートスであると言われる。
テルトゥリアヌスもオリゲネスもロゴス・キリスト論の立場を擁護して伝統的信仰を守ろうとする点においては共通であるが、テルトゥリアヌスにおいては整合的という点において欠けるところがあり、オリゲネスにおいてはその点の要求を貫こうとして正統的教説との間に矛盾と動揺とを隠し得なかったように見える。それがいわゆるニケア会議に至る動因となる。
今ここに至る経過を省略してこの会議の結果として成立したニケア信条において注意すベき点に留意すれば、前述のようにそれがキリスト論の信条であるということ、及び、その中心主張は父と子との同質(ホモウーシオス)ということである。三位一体の教義はこれに支えられて確立されるかに見える。この語はイスパニアから来た西方教会の有力な指導者、コルドヴァのホシウスによって提示され、多くの議論の後に採択されたという。多くの議論とはこの語の含む概念内容の故であったことは想像に難くない。この語は既にイレナイオスによれば、2世紀の中頃以後にグノーシス的異端として却げられたヴァンティノスによりて用いられていたらしく、サモサタのパウルスにおいても現れていて、従来は異端とされて来たものである。何れもキリストと神との同一を直接的に主張し、ロゴスの媒介者性を危くすると考えられたからである。いまこの語が再び持ち出された情況はアリウス派がロゴス・キリストを被造者とし、「第2の神」と呼んで人間と同じ地平で理解しようとする危険を蔵するのに対して、ロゴスの先在・父と子との共在をどうしても主張しなくてはならなかったからである。
周知のようにニケア会議はコンスタンテイヌス帝によって召集された第1回の世界教会会議、全体教会の会議ではあったが出席者は東方が圧倒的に多く、西方は極めて少数であったと言われている。しかも前述のホシウスは皇帝の意を受けてこの会議を計画し主宰し、言わば東方における対立の調停役をつとめた観がある。この時を始めとして、いわゆる世界教会会議なるものには政治的な要素が強く働いていることを見落してはならないし、また当然のことと考えられる。それだけにその決定による表現を内容的に理解するには慎重な用意が必要とされる。

第4章 ロゴス・キリスト論
「ホモウーシオス」という一語は形式的には決定的なものを打出したと見てよく、後の教義の基礎となるものではあるが、これで論争は終ったのではなく、かえってこの語を巡ってますます激しくなり、三一神論の教義はもう一度キリスト論ヘと押し戻された観がある。451年のカルケドンの信条は専らこのために生れたのであった。ここでは多くの論議、しかもほとんど尽された論議の後に、キリストは「真に神であり真に人である」という最も素朴な告白において、ロゴス・キリスト論の根本志向を明瞭にし、一切の論議と理解とを断念したかに見える。この間にいわゆるニケア信条として後に用いられるに至ったニケア・コンスタンテイノポリス信条が381年に、皇帝テオドシウス1世の召集による第2回世界教会会議の結果として生れた、と普通に考えられているが、この会議ではニケア信条が確認されたのみで新しい信条は作られなかった。380年にキリスト教が国教とされたについて、東方における教会の思想的統一を確立するために召集されたのがこの会議の目的であったからである。この時、エルサレム教会の監督キュリロスはその正統的立場を疑われたために、当時エルサレム教会で使用していた信条を提出した。これが後に451年のカルケドンの会議でコンスタンティノポリス会議の信条と信じられ、次いでニケア信条よりもこの形が多く用いられるようになったと言われている。恐らくその理由として考えられることは、カルケドンの信条が全くキリスト論に終始する信条であること、ニケア信条の後の論争において、聖霊が論議の対象となって加わったこと、の二つである。そしてウーシァの規定を厳密にし同時に内容的に三一論を明確にしたのはカパドキァの教父たち(4世紀後半)、即ちバシレイオス、その弟ニッサのグレゴリウス、及びナジアンズスのグレゴリウスの功績に帰せられる。彼らの解釈に従って問題の多いホモウーシオスは東方にも受容されるようになった。その解釈によれば、ウーシアは本質でありヒュポスタシスは実体と訳されるベく、両者は区別されなくてはならない。前者は共通の性質、本質を現わし、後者は個物の本質を意味する。この考え方はアリストテレス的である。ヒュポスタシスを、プロソーポン(persona)の意味に解するのは東方の傾向であるが、既に100年前、アレクサンドリアとロマとの同名の監督、両ディオニュシオスの間にこの語を巡って論争が行われた際にも見られたように、ロマの方ではこの語を神格の共通の本質ウーシアの意に解してこれを substantiaと訳していた。従って西方側は東方を三神論を説くものと批難したのであった。いまカパドキアの教父たちは東方の伝統的用語例に従って、父・子・霊なる3つのヒュポスタシスが一つのウーシアを共有するとなし、各ヒュポスタシスの関係は、父は「生れざる者」、子は「生まれた者」、聖霊は父から(後に西方教会では「及び子より(フィリオクエ)」が989年のトレードーの会議でニケア・コンスタンティノポリス信条に加えられることになる)「出でし者」として互に区別され、共通のウーシアとして神性(セオテース)を持つと説明する。
ここにかなり大きな問題が浮び上ってくる。ウーシアをこのように理解することは、少くともアタナシウスの考えとは隔ってくる。彼はニケア会議の時には正統派を代表するアレクサンドロスの補佐役に過ぎなかったが、この会議の後に始まる論争において漸く表に出てくる。彼がホモシオスの語を力強く打ち出して来たのは4世紀中頃以後であると言われている。彼は従来用いられて来たホモイオスなる語が、2つの別々なものが同性質を持つという意味になるのを恐れてこれを却け、父と子とは人間の親と子のように別々のものではないと言い、父と子とは不離であり、一であると強く主張した。そしてウーシアとヒュポスタシスとを区別することに反対し、父と子とが一つのウーシアであるならばまた一つのヒュボスタシスでなければならない。父・子・霊をそれぞれヒュポスタシスと呼ぶことは三神論になると批難した。この線は西方の実践的態度を示し、父・子・霊の区別における三を認めつつも結局においてその一なることを強調し、三位の間の関係を問うことを思弁として断念し、これを啓示の秘義として主張する。アウグスティヌスもこの線を継承し、420年頃から50年頃の間に成立したものと推定される後代のいわゆるアタナシウス信条にもその特長は明確に示されている。 即ち「一なる神を三位において、三位を一体において、礼拝する(…… unum Deum in Trinitate, et Trinitatemin Unitate venereremur )」という第3条の表現がそれである。
ここでは形式的には三一神論が確立されたように見えるが、その性格は「三→一」である。使徒信条の三項目的告白が一ヘと押し進められたことは繰返して語られる各条の言葉からして強く印象づけられるが、後半においはこれを支えるために、「神にして人」というキリスト論を展開する。そこで注目されることは、一なるキリストにおいて神性(Divinitas)と人性(humanitas) との二つの natura が substantia の混淆によるのではなくして、一なる persona において結合されている、という表現である。natura という語は見出されないが、この立場は後に両性説(ZweiNaturen Lehre と呼ばれるものであって、substantia 概念の新らし い問題提示を示すものとして注目に値する。ここに取上げられている事柄はカルケドン信条においても取上げられ、そこでは新約聖書以来長く忘れられていたフュシスの語によって浮び上ってくる。「御子は二つの性(フュシス)において認められ、それは交ることなく、変ることなく、分けられることもできず、離すこともできず、彼のうちにある」という表現である。「一なること(ヘノーシス) において両性の区別は取去られない」と続いて言われている。また「各々の性の特性(イディオテース)も保持される」とある。この用法からすると、やがて Natura と訳されるフュシスは substantia と等しい意味を持つのでなければ、その下位概念として説明的に用いられていると解する他はない。丁度後にスコラ学においてウーシア即ちエッセンティアを substantia の上位概念と考えたように、こういう概念の論理的分析がキリスト論の解明に役立つかどうかははなはだ疑問で、むしろ事態をますます混迷に導くことは歴史の示しているとおりである。ただここで注意しておきたいことは、カルケドン信条成立の背景となったものにキリスト単性説 Monophysitismus と呼ばれる立場が有力になって来たという事実である。
キリスト単性論と呼ばれる考え方は、ウーシア、ヒュポスタシス、フュシス、プロソーポン等の用語・概念の混淆に基づく理解の混乱から生じたと言ってよい。ニケア会議に至るキリスト論の重要関心事は、ロゴス(子)と神(父)との関係をどう理解するかという点にあったが、その後の問題は一転して、ロゴスの受肉者であるキリスト・イエスにおいて、ロゴスと人間イエスとの関係は何かという点に向けられた。まさに父と子との同質を確定した上は当然に予想される展開でなければならない。イエス・キリストという一なるぺルソナにおいて、神とウーシアを等しくするロゴス——これをセオテース(神性、実は神たること)という——と人間イエス——これをアンスローポテス(人性、 実は人たること)という——とはどんな関係にあり、どう理解されるかという問題である。
ラオデキアの監督アポリナリウス(390年没)はこれを神性と人性との両性の一致(ヘノーシス プシュケー)と考えたが、アンティオケア学派はこれを意志の一致と考えた。前者にあって、神と人とが端的に一つであるとは考えがたいので、人間に魂と体とがあるが一つであるように、キリスト・イエスにおいて体は人性であるが魂は神性であり、彼においては普通人と違って、その魂または理性の代りにロゴスが生きていると考えた。これは明らかにイエスにおいて神性の完全は認めるが人性は不完全である、ということを意味する。初期の仮現節(ドケティズム)に連る神性一元論である。これはやがてアレクサンドリアの監督キュリロス(444年没)やエウテュケス(454年没)によって明確な単性論として主張されるに至る。
これに対してアンティオケア学派はモプスエスティアの監督テオドロス(428年没)を代表者として、右の両性の一致を否定し、一致はただ意志的にのみ考えられると主張する。この説はネストリウス(451年没) によって受け継がれた。431年のエペソ会議はキユリロスとネストリウスの両者をば共に破門したが、この二つの立場に対して正統主義を樹立しようとしたのがカルケドンの会議(481年)であった。単性論に対しては両性論が確立され、両性の一致は拒けられた。同時に意志の合一を説く単意論も当然に拒けられることになる。そして両意論が確立されるのは649年のローマの会議においてである。
しかしカルケドンの決定をどのように理解し説明するかは残された問題である。単性論者にこの決定を受け入れ得るものとするために調停者として登場するのがピザンティウムのレオンティウス(534年没)であり、そのエンーヒュポスタシスの提唱である。彼はキュリロスがフュシスをほとんどヒュポスタシスと同義に解したのに対してフュシスとヒュポスタシスとの区別を主張し、これを通性と個性との別とする。これは前述のカパドキアの教父たちの考え(前述)を継承するものであり、今一つの前提はロゴスをヒュポスタシスと解することである。そこでイエス・キリストに二つのフュシスのあることは二つのペルソナがあるということにはならず、一つのペルソナ(ヒュポスタシス)のうちに二つのフュシスが見出される。神のヒュポスタシスであるロゴス・受肉者においては、その人性は失われたり損われたりせず、完全に含まれて(エン) いる。 それが エン・ヒュポスタシスの意味であって、キュリロスのような単性論者のアン・ヒュポスタシスの主張と対立する。
ここまで来て私たちは一つの視野の開けて来たことに気付く。フュシスはもはやスブ スタンチアではなくしてヒポスタシスの中に見出される通性であるからして、スブスタンチァ(実体)の属性と解されていることを。同時にその指示する方向は、スブスタンチアとヒュポスタシスの接近、及びフュシスとウーシアとの接近である。ここではイエス・キリストはロゴスの受肉者としてヒュボスタシスと呼ばれるが、そこからは彼の父なる神は、恐らく二次的に、換言すれば比愉的にヒュポスタシスと考えられようが、本来的意味のヒュポスタシスは pro me にはイエス・キリストであって、そこから父のヒュポスタシスも我のそれも理解されると言えそうである。今一つのことはイエス・キリストにおける神性は父と共通に持つ通性であって、彼を述語的な用法では神と呼ぶことはできても、主語的な用語法で神と呼ぶことは適わしくないということである。イエス・キリストは 「真に人であり真に神」である、という表現は、神の属性と人の属性とを一つの人格において共に完全に持っているということであって、実体的に神と人とが一つだということを意味しないことが明らかとなる。神性と人性との両性は互に他に与って一つである。これは後に属性の融通(communicatio idiomatum ) という概念で言い表わされ、ダマスコのヨハネ(777年没)においてペリコフェーシス(circumincessio、両性の交互内在) なる語で説明されている事態である。

第5章
以上の簡単な教理史的瞥見を通して私たちは、三一神論とキリスト論との関係、キリスト論論争とその理解の中心問題とを指摘し得たかと思う。三一神とキリストの二性一格の教理は東西両教会に共通であるが、異る処は、西方におけるその後の教理の発展と、東方がここに留まったこととである。その違いは聖霊の規定における西方のフィリオクエ(filioque)の挿入と、画像論争の結果たる東方教会の礼拝(ラトレイア)と崇敬(プロスクネーシス)の区別である。そして私たちは西方教会との一致に関してはほとんど絶望的であるが、東方教会とのそれにはある可能性を感じることができるように思われる。世界教会運動をめぐる現実の情況もそれを暗示する。そしてそれは偶然ではなく、厳密な福音の理解という根本問題を巡って、この区別が現れてくるように思われる。東方教会において教義の発展が停ったと見えるのは、実はそれを担っていた民族的生命の衰退という事実に制約されているものと考えられる。彼らの立ち停った点にこそ主要な問題が含まれている。私たちはそれを取り上げて前進することが求められているようである。
キリスト論における両性論、ぺリコーレーシスの語は私たちに何を訴えるか。それはヒュポスタシス(個性的実体)とウーシア(一般者的実体)との相即・転換という事態を示して一方に混乱の因を作っていると共に、他方に二つの異るものの分離における一致、対立における統一という構造をどのように考えたらよいかという問題の提起である。ほとんど決定的とも言うべき解決への方向は、聖書の示す基本的・根源的な信仰体験を問うて、その用語を手がかりに、今日の私たちの課題を追及することである。二つの異る主体の間に成り立つ生の共同は交りという概念によって示されている。この語の示すものこそ救の現実である。この基盤に立ってキリスト論も三一神論も、聖書において問い返されなくてはならない。そしてその道は既に述ベたようにルターにおける福音の理解を改めて神学的に押し進めることから始められるであろう。
ルターにおける福音の新らしい理解は、「神の義」のアウグスティヌス的な理解から導かれた。それは義を神の性質・属性としてよりも、神の働きとして理解する道が開かれたことであった。神の義は「信仰から信仰へ」という仕方で、福音の中に顕わされた一つの出来事である。彼はロマ1:17のパウロの句をこのように解した。彼の信仰はこれに応じて、「客観的・対象的な信仰個条(fides quae creditur)」から「主体的 ・主観的な信じる働き(fides qua creditur)」への転換を得ただけではなく、啓示という神の働きに対応する人間の根本的な態度・生き方として実体的にではなく機能的(functional)に、言わば啓示とのファンクション(困数関係)として理解された。これは重要な点であるが、間もなく見失われたかの感がある。そして信仰は再び信条として客観的内容的に解されるか(古プロテスタント神学)、心の働きないしは状態、感情、意志などとして解される(近代プロテスタント神学)かの別はあっても、何れも実体的な理解という点では共通である。このような立場に立つ限り、カトリックであれプロテスタントであれ、神学的理解は既に一定の限界をもって、その壁を破ることはできない。それは一言で言えばイデアリスムの限界である。そしてそれは今日、機能的思惟に慣れていると考えられる科学者たちの間にも、近代的な変形をとげて実証的客観主義の要求となって現われている。医学の倫理とか科学者の責任とか言う形で提出されている問題はこの根源的な課題の指標である。
この哲学的な根本問題に近ごろ私たちの注意を喚起したものとして、C.S.Wauckope;
Devotion into Sense,1948 (深瀬基寛訳「ものの考え方」昭和26年)なる一書を挙げたい。人間にとって生きるということと知るということ(考える)とはアウグスティヌスの指摘するように一つのこと、互に分離しえない基本的事実である。人間は考えつつ
生き、生きつつ考える。考えるとは生の反省であり、そこでは自他の区別と統一、少くとも自他の統一的関係付けということが行われる。これが「私がある」「私が生きている」という根源的事実の構造である。ウォーコップはこれを「SーP」という記号で表し、「パターン」(pattern)と呼ぶ。カントの先験的図式論にヒントを得たものらしい。これは判断の図式(ものの考え方)にも自他の関係付けの図式(生き方)にも当てはまる。判断において主語(S)と述語(P)との関係は個物と一般者との関係として考えられる。個物とは、アリストテレスの定義したように、主語となって述語とならないもので、彼はこれをヒュポケイメノン(基体、基に横たわるもの)と呼んだ。ヒュポスタシス(位格、他者に対して区別された主体)はこれから出た名詞である。 真の意味での個物は従ってどうしても述語にはならないもの、あくまで主語に留まるものでなければならない。これが主体としての「S」である。「私は主体である」というとき、その「主体」はいうまでもなく説明語として用いられた述語である。この主体なる語は「主体とは力の発する中心である」という文中では形の上からは主語であるが、いうまでもなく真の主語・個物ではない。「主体というもの」、として述語から移されて主語の位置には立っているが、述語的一般性において把えられている。一般的にいえば、「は」という助詞によって受けられる主語は、主語化された述語、あるいは述語的一般者として把えられている仮りの主語に他ならない。真の主語は「が」という助詞で表わされる。「私が」という場合の私は、他ならないこの私、他と区別された絶対性における私を意味するが「私は」の場合の私は他と並ぶ相対性における私、あるいは他の多くを代表する相対的代理性における私である。前者は質的なものを、後者は量的なものを示しているということもできよう。
概念におけるこの質——量の二重性とその統一、従って逆に概念のもつ対立的分裂ヘの必然性の中に、へーゲルのいう原始分裂としての判断成立の根拠がある。と同時に、人間の存在の仕方、生の構造もまたこのパターンによって説明される他はないというのがウオーコップの考えの骨子である。
いまこの考え方を私たちの当面している問題に当はめるとどうなるか。SーPを量的な包摂関係と考える形式論理の立場をすて、質——量の区別における統一という全体として考える立場をとるのは何故か、と問われるなら、それは人間の生と思惟との根本的与件として見出されたもの、およそ生きるとか考えるとか知るとかいうときには既にこの基本的前提を承認し、そこから出発する他はない最も具体的な立場だからと答える他はない。判断におけるSーPの統一は生におけるSーPでの統一の反映であり反省作用における変形である。思惟もまた生の一つの姿だからである。しかしこの逆は成り立たない。生は常に一つの全体であって、思惟の部分であるとは言えない。この制約をこえようとするのがあらゆるイデアリスムの要求ではあるが、なるほど判断の要素として取り出された概念は、質——量の二重性を担うものとして、主語ともなり述語ともなる。S→P. S←Pという可逆性が成り立つかに見える。しかしこの可逆性は思惟の対象化・客観化の作用によって成り立つのであって、ここでは主語は既に見たように質的・個性的なものを失って等質化・量化の過程に服している。
この述語化された主語の位置に「神は」といって措定された神が、「三位一体の神である」と述語的に規定されるとき、その神はもはや主体としての神そのものではない。一つの判断命題が成り立つのは判断の主体の働きによる。S→(sーp)と書き表わすことができよう。
ところで判断の主体は具体的には特定の誰彼ではあっても、理性的存在としての一般性に担われている限り、このSは、なお交換・代理・代表を許す一般的主体であって真に個的な主体とは言えない。真の主体はむしろ判断の主体が行為の主体となるときである。それはどうして起こるかと言えば、行為の主体に出会ったときである。換言すれば、判断における述語の一般者がその背後にかくれてある主体の象徴として働くときである。従って判断は主体と主体との関係を客体的に示す鏡となる。

    S →(sーp) ← S

と書き表すことができる。2つのSは究極的には私と神とである。そこに至るまでには多くの純化の段階が考られる。今はその詳論に入ることを割愛しなくてはならないが、この究極における主体的関係こそ、純粋な「信仰」と呼ばれる交りの関係である。

    私 ⇄ 神

言うまでもなくイニシャティブは大きいS、即ち神にある。 隠れた主体はここで歴史 (人)と自然(物)とを媒介にして相見える。この実在体験が反省され認識作用によって言語的表現をとるとき、道は2つとなる。概念的表現と詩的(文学的)表現とである。そして言語の象徴性を極度にまで生かし得る道が後者にあることは言うまでもない。
ヴァン・デューセンは前掲の近著において、現代の神学者たちの三一論に関する諸説を紹介批評した後に、最も独創的にして示唆に富む解釈として彼自身が多くをそれに負うことを表明している一書を挙げている。それは神学者ではなくして平信徒しかも 一婦人作家 Mrs.Dorothy Sayer の The Mind of the Maker(1941)という書物であるという。ウォーコップが自分の基本的な考え方の原理と図式とを示した後、これを現代の諸学、生物学、心理学、社会学、原子物理学、数学、美学などの領域で検証したのち、最後の章を「豚飼いの帯」と題するかなり長い創作をもって終っていることと対比して、非常に興味をそそられる。教義とか信仰告白とかいうものの性質を神学は常に見失うことなく、その象徴性を生かして福音の事実ヘの道を理解という面からそれぞれの時代の中で拓り開いて行かねばならないが、この批判的な仕事は自己の限界の自覚を伴わねばならない。アウグスティヌスが三位一体論においてとった方法と視点、また私たちには奇異と見える文中での祈りの数々、それは私たちに示唆するところが少くない(拙稿「アウグステイヌスの三一論」「神学」5号参照)。 教理・神学・典礼・芸術作品・儀式などの生きた関連が注意されなくてはならない。そして神学は、一方に実践的要求と結びついているがしかしこの事は神学の学的性格を損傷するものとなってはならず、かえって他方にその徹底的な批判性のゆえに、深い哲学的思索と結びついて生と学との動的統一を発揮し得るものとならねばならない。神学はその意味で深さと広さとを要求される。三一論とキリスト論とはこのような神学の任務とその遂行との試金石となるであろう。

※参考文献省略


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