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ぶんやさんの記録

鷲田清一『「待つ」ということ』 (角川選書)

2008-09-18 19:40:12 | ときのまにまに
哲学者鷲田清一氏の『「待つ」ということ』 を読んだ。非常に面白い。「面白い」という言い方は誤解を生むだろうので、少しキザな言い方だあるが、「読む値打ちがある」とか、「示唆に富み、教えられることが沢山あった」と言い替えた方がいいかもしれない。
「待つ」というテーマはキリスト教にとっても、飛びっきりの重要テーマである。特に、教会暦では1年のはじめの4週間(今年は11月30日から、12月24日まで)は降臨節(アドベント)と呼ばれるキリストの来臨を「待つ」シーズンであり、この期間の主日説教のテーマは基本的には「待つこと」である。
鷲田氏は「待つこと」というテーマのもとに、「焦れ」から始まり「開け」まで19章にわたって、「待つこと」について臨床哲学的分析を重ねる。もともと、これらの文章は角川書店の広報誌「本の旅人」に連載されたもので、それだけに読者層はかなりレベルの高い読書人を対象にしている。ちょっと、気になるが著者はご自身のことを「臨床哲学者」という言い方をしているが、これはいわゆる「講壇哲学者」とか、浮世離れした大学哲学者に対する皮肉ではあろうが、納得できる。
第1章から読み始めて第10章「膠着」辺りまでは、「待つ」ということの現象学的分析(臨床哲学的分析)が展開され一気に読める面白さある。しかし、第11章の「退却」あたりからから認知症に関する議論や「礼拝」や「祈り」などの話題が取り上げられ、焦点がゆるみ、退屈するが、第16章の「倦怠」から終わりの第19章「開け」まで、サムエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」(安藤信也・高橋康也訳)が取り上げられ、「待つこと」についての「深い深い」論述が展開され、再び読書意欲を喚起される。著者は、これを取り上げるために、この書を現したのであろう。非常に面白い。今まで、この著作について知らなかったことを恥ずかしく思いながら、早速アマゾンに『ゴドーを待ちながら』を注文した。
著者は「あとがき」の中で、「『水が満ちてくるように』。そう、水は内から湧いてくるのではない。だから『からだを退避させ』空き地をつくることがどうしても必要なのだろう。空き地をつくるというのは、迎えるということである。いや、来るやもしれないものを迎えるために場所を空けておくということである。待つということは、その意味で、希望を捨てた後の希望の最後のかけらなのだろう。あるいは、希望が崩れたあとでも希望を養う最後の腐葉土なのだろう。「腐葉土」、humus、「ヒューマン」の語源である。待つことは「ヒューマン」という意味の根っこに食い入っている。ちなみに、humusはhumility(謙虚)の語源でもある」という。
降臨節を迎えるに当たって、若い聖職の諸君には、ぜひ読んで欲しい書である。

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