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原本ヨハネ福音書研究付録4「姦淫の女」

2017-07-29 13:46:04 | 聖研
原本ヨハネ福音書研究付録4
姦淫の女(ヨハネ福音書7:53~8:11)

この物語は主要な写本に欠けており、おそらく原本ヨハネ福音書にも最終的編集者によるヨハネ福音書にもなかったものだと考えられている。この物語ではイエスが姦淫の女を裁かずに赦したということで高く評価され、2世紀後半にはかなり知られていたらしい。しかし2世紀末のヨハネ福音書の断片(パピルス)にも、この物語は見られない。大貫隆はこの物語の挿入を3世紀後半以後とみている。
それまではイエスの権威を示す一つのエピソードとして単独で流布していたものであるが、誰かが福音書の中に挿入して保存したいと考え、ヘブル福音書や、ルカ福音書等に挿入した形跡があるが、最終的にはヨハネ福音書に挿入されたものだと思われる。これをここに入れた理由は、恐らく8:15の「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしは誰も裁かない」という言葉の実例として相応しいと思われたのかも知れない。

<以下テキスト>
イエスは、まだ辺りが暗い頃、前日お泊まりになったオリーブ山から神殿にお参りに来られました。すると、既に神殿には大勢の人たちが集まっていました。彼らはイエスを見かけると話を聞こうとして、イエスの周りに集まってきました。イエスはベンチに腰をかけて話し始められました。
イエスが話しておられると、突然、律法学者たちやファリサイ派の人たちが一人の女性を連れてきました。
何事かとイエスが見ていますと、彼らはイエスに話しました。
「先生、この女を姦淫の現場で捕まえました。律法によりますとモーセは、こういう女は石打ちにせよ、と命じております。それであなたのご意見を伺いたいのですが」。
彼らの魂胆は、この問題についてのイエスの答えによってはイエスを告発できると思ったらしいのです。いきり立っている彼らを見て、イエスは静かに、うつむいたまま、指で地面に何か字を書いて居られました。何を書いておられたのかは分かりません。そんなイエスの態度を見て、彼らはますますいきり立ち、しつこく答えを求めますので、イエスは顔を上げて、彼らを見回して言われました。
「あなた方のうちで律法に違反をしたことのない者がまずこの人に石を投げつけたらいいでしょう」。
こう言われると、再び地面を見つめ、何か字を書き続けておられました。
イエスの言葉を聞いた人々は、年長者たちから、順次一人また一人とその場を離れ、イエスとイエスの前で震えている女性だけになりました。
その時やっとイエスは顔を上げて女性に、「ご婦人、みんなどこに行ってしまったのでしょうね。あなたを訴える人は誰もいないようですね」。女性は答えました。「先生、もう誰もいません」。イエスは静かに、 「私もあなたを訴えません。自由にどこへでもお行きなさい。二度と律法に違反しないように」。

<以上>

A. 語句解説
(1)「オリーブ山」(1節)
ヨハネ福音書では、「オリーブ山」という言葉はここだけにしかない。マルコによれば最後の晩餐の後、イエスと弟子たちとはオリーブ山に出かけている。その先にゲッセマネがある(マルコ4:26)。この部分をヨハネでは「イエスは弟子たちをうながし、キドロンの谷の向こう側に行かれました」となる。つまりヨハネは「オリーブ山」という言葉は使わないようである。
(2) 「律法学者たち」(3節)
「律法学者」という言葉は福音書ではしばしば見られるが、ヨハネ福音書ではここだけである。
(3)「律法では」(5節)
確かに、申命記22:22~24およびレビ記20:10によると姦淫を犯した者は男も女も死刑と定められている。なぜ、ここでは女だけが連れてこられたのだろうか。厳密に言うなら、姦淫の現場を押さえておきながら、女性だけを逮捕したということ自体が、律法通りに行動していないことであり、律法軽視、ないしは律法違反である。彼らはそのことに気が付いていない。
(4) 「告発する」(6節)
彼らの目的はイエスを律法を軽視する者として訴えることである。ヨハネ福音書ではこの単語は5:45とここだけでしか用いられていない。5:45ではイエスが人々を父なる神に「告発しない」という文脈で用いられている。
(5)「律法に違反したことのない者」(7節)
この個所は通常は「罪を犯したことのない者」「罪のない者」と訳されている。この言葉は新約聖書ではここだけに現れている。この単語は「罪を告発する」というような仰々し言葉ではなく、「欠点がない」という程度の軽い単語として用いられているらしい。欠点がないという人間はあり得ない。ここでは、律法違反が問題になっているのであるから、私はこれを「律法違反」と訳しておいた。現代風に言うと法律違反であろう。
(6) 「みんなどこに行ってしまったのでしょうね」(10節)
口語訳も新共同訳も疑問文にしているが、原文では疑問文とも平叙文とも取れる。単なる事実というより、同意を求める言葉。
(7) 「訴える」(10、11節)
この単語もヨハネ福音書ではここだけ。この言葉を新共同訳は「罪に定める」、口語訳は「罰する」と訳しているが、それは強すぎる。
(8) 「自由にどこへでもお行きなさい」(11節)
この言葉を新共同訳では「行きなさい」、口語訳は「お帰りなさい」と訳しているが、要するにこの場面では、「行け」という意味で、「どこに」という指定は無い。だから私はこのように訳した。この言葉で含蓄されていることは、今後のこの婦人の生き方に関わることであり、それは誰かが、「ああせよ」「こうせよ」というような余地はなく、完全に彼女自身の問題である。
(9) 「二度と律法に違反しないように」(11節)
福音書のイエスには、この種の言葉は見られない。マルコにおけるイエスの場合は、罪の赦しを宣言した後は、「行きなさい」とか「(安心して)家に帰りなさい」(マルコ5:19、5:34、7:29、10:52)という言葉が続く。「マタイにも、ルカにもイエスが別れ際に相手に対して『もはや再び罪を犯すな』などと説教する場面はただの一度も出て来ない」(田川建三)。文脈から考えると、イエスの言葉は「自由にどこへでもお行きなさい」で終わっているのであり、これは余分な一言である。要するに「一言多い」。こんなことイエスが言うはずがないので、これはお節介なクリスチャンが付け加えたのであろう。ところが多くの熱心なキリスト者はこの言葉が好きなようである。これがないと「一件落着」がないとでも思っているのだろうか。

B. この物語は何を語ろうとしているのか。
昔から言われていることは、イエスが姦淫の女を裁かずに赦したということがイエスの振る舞いをよく示している、ということである。果たして、そうだろうか。また「私はあなたを訴えようとは思いません。自由にどこへでもお行きなさい。二度と律法に違反しないように」という言葉が、イエスらしさを示しているといわれている。果たしてそうだろうか。この句は通常は、私もあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」と訳されている。この言葉が説教を促しているとも言われている。この婦人を罰する権利のある者、つまり罪のないお方はイエスだけであり、私たちもイエスによって罪が赦されたのだと説教する。果たして、そうだろうか。ここで、イエスはこの婦人の罪を赦しているのだろうか。また、「もう罪を犯してはならない」という言葉はイエスらしいセリフなのだろうか。もしそうだとすると、イエスも律法学者たちと同じレベルでこの婦人を「罪人」だと思っていることになる。

C. 「姦淫」「姦通」「不品行」
まず始めに、新約聖書で「姦淫」という単語が用いられている個所を確認しておく。

マタイ5:27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
マタイ15:19 悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくる。

マタイ19:18 イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。

マルコ7:22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。

マルコ10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。 

ルカ18:20『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。

マタイ5:32 だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。 

マタイ19:9 不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

マルコ10:11 「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。 

マルコ10:12 また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。

ルカ16:18 すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである。 

マタイ5:28 だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 

ルカ18:11 『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、

ヨハネ8:3~4 姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 

福音書以外では、パウロの手紙で4回、ヘブル書で1回、ヤコブ書で2回、黙示録では10回である。福音書以外の文書にまで入ると問題が複雑化するので、ここでは福音書にだけ絞って論じることとする。
4つの福音書(口語訳)では17回「姦淫」という言葉が出現している。
(1) このうち、マタイ5:27、15:19、19:18、マルコ7:22、10:19、ルカ18:20の6回はいわゆる十戒に基づく罪のリストに出てくる。これらはすべて新共同訳においても「姦淫」と訳されている。
(2) マタイ5:32、19:9、マルコ10:11、10:12、ルカ16:18は離婚と姦淫との関係を論じた平行記事である。注目すべきことは、これら5回は「姦淫を行う」と訳されており新共同訳では「姦通」という訳語が用いられている。つまりこれは動詞である。
(3) あの有名なマタイ5:28「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」という言葉は新共同訳では丁寧に「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである」と訳されている。この訳はかなり訳者の解釈が入っている。原文では「他人の妻」などとは書いて無くてただ「女」であるし、「みだらな思い(エピスーメオー)」も直訳すれば「もの欲しそうに」というだけの言葉である。つまり、この言葉は未婚であれ、既婚であれ、一人の女性を「自分のもににしたい」という思いで見るだけすでに姦淫したことになる、という意味である。これも新共同訳では「姦通」と訳している。
(4) ルカ18:11では、神殿で二人の男が祈っている。一人はファリサイ派の男で、彼は自分の正しさを主張し、いろいろ罪を列挙し、私はそれらの罪を犯していないという。そのリストの中に「姦淫する者ではなく」という。これを新共同訳では「姦通を犯す者でなく」という。
(5) さて、以上が共観福音書における「姦淫」の使用例である。ヨハネ福音書では、たった 2回だけ「姦淫」という言葉が使われている。8:3と4で、例の「姦淫の女」の記事である。「姦淫をしているとき」「姦淫の場で」捕まえたという。これを新共同訳では、「姦通の現場で」「姦通をしているとき」捕まえたという。だからタイトルも「姦淫の女」ではなく「姦通の女」である。この記事は後から付加されたといわれているが、そうだとするとヨハネ福音書では「姦通」の記事はないことになる。ところがヨハネ8:41の「わたしたちは不品行の結果生まれたものではない」(口語訳)を新共同訳では「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」と訳している。原語では「ポルネイアス」で、罪のリストにおいては通常は口語訳のように「不品行」と訳されるが、マタイ15:19「殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹り」というように姦淫と並んで用いられている。姦淫と不品行とがどういう関係なのかよく分からない。ここでの使用例から考えると、ユダヤ人たちがイエスを殺そうと企んでいることを見破られ、アブラハムの子孫ならアブラハムの子孫らしい行動をせよ、イエスから批判された。それに対して私たちはアブラハムの正当な子孫であることを主張する言葉である。正しい性関係によって生まれた子供は正当な子供であり、不品行な性関係の結果産まれた子供は奴隷だという。この正当性の反義語が不品行である。マタイ5:32では「だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである」というように用いられている。不品行が離婚の唯一の正当な理由となり、その女性と結婚する、つまり性関係を結ぶとそれが姦淫となる。従って、これを新共同訳のように「姦淫」と訳すのは正確ではない。

D. さて、ここでの問題は姦淫と律法との関係である。もう少し具体的に言うと、普段から律法に対して批判的なイエスに対して姦淫の現場で逮捕した婦人をイエスの前に連れてくることによって、姦淫の罪に対するイエスの態度を問うことである。「姦淫」とは要するに究極のセクハラであり、セクハラ問題に対してイエスが何を語るのか。そのことによってイエスの律法に対する姿勢を明らかにしようという魂胆である。
結論を先取りすると、ここでのイエスの姿勢は一貫してこの問題に対して「無関心」ということである。何の姿勢も示していない。完全に無視、連れてきた連中も見ないし、連れてこられた婦人も見ない。多くの説教者が嬉しそうに取り上げる「罪の赦し」も語らない。その態度が、下を向いて何か字を書くという態度である。人びとは苛立ち、騒ぎ立てる。セクハラだ、セクハラだと。しかし考えてみると、姦淫というような行為の背景には複雑な問題が絡んでいる。時にはそうしなければ生きていけない、ということもあるだろうし、または、他人が介入できないような個人的な愛憎関係があるかも知れない。そういうことをすべて無視して姦淫の現場を押さえたというだけで、それが律法に反する行為であると騒ぎ立てる。その結果は、この婦人の生死に関わる。そのことの問題性に人びとは何も気付いていない。ただそれが律法違反というだけで騒ぎ立てる。やっとイエスが頭を上げ口にした言葉が「あなた方のうちで律法に違反をしたことのない者がまずこの人に石を投げつけたらいいでしょう」であった。通常はこの句は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と訳されている。このセリフの問題は「罪を犯したことのない者」という言葉である。実は、この言葉は新約聖書ではここにだけ出てくる単語である。通常の訳が伝道説教のために都合がいいのでよく用いられる。「罪を犯したことのない人間はいない。すべての人間は罪人である。ということで教会では「罪人よ、悔い改めよ」と叫ばれる。これがいわゆる伝道説教の典型的パターンである。
しかし、残念ながらイエスがここで言っていることはそんなことではない。ここでは神学的な意味での「罪」が問題になっているのではない。むしろ日常における律法違反、現代風に言うと法律違反である。今まで一つも法律に違反していない者は石を投げたらいい。一回も法律違反をしたことがない者はいない。何らかの形で法律違反をしている。たとえば、道路交通違反など、自動車を運転している人間なら一度や二度、いやいやもっとふんだんにスピード違反をしている。この種の犯罪が告発されたら、人びとは言う。先日も問題になったではないか。誰でも白紙の領収書を受け取り、自分の金額を書き込んでいる。だからこの種の問題が告発されたときに、それにまともに答えようとしたら、「誰でもしている」としか答えられない。いや、姦淫の罪はそんなに軽いものじゃない。大問題であるという。本当にそうだろうか。姦淫の罪を厳密に適用しようとしたら、人間はほとんど異性を愛するということは不可能に近くなり、結婚する者はいなくなるであろう。だから変な話、セクハラに近い行為も結婚したら認められるというような法の抜け穴を作り、できちゃった婚などという。イエスの前に引き出された婦人にしても、どういう状況だったのかわからない。結婚を間近に控えた恋人同士だったのかも知れない。ヒョッとしたら、娼婦だったかも知れない。もしそうだとしたら、彼女を捕まえる前に彼女たちを使って儲けている人間たちを告発しなければならないであろうし、そうでないとしても「律法に従えば」、姦淫の罪は男女二人が告発されなければならない。彼女を連れてきた連中は、まずそのことによって律法違反をしている。彼らはそれに気が付いていない。イエスから言われて、初めて彼ら自身が法律違反をしていることに気付かされ、その場を「黙って」立ち去る。この物語の肝心の部分はここである。
そう考えてみると、イエスの「私もあなたを罪に定めない」(新共同訳)という言葉も罪の赦しの宣言ではなく、「私もあなたを訴えません。自由にどこへでもお行きなさい」という意味であろう。なお、おまけに付けられた「もう罪を犯してはならない」という言葉は、説教者が無理に付け加えた言葉であろう。イエスが、こんなこと言うはずがない。

E. お節介ついでに、この婦人はこれからどういう生き方をするのであろう。物語そのものは何も語っていない。再び姦淫する女として生きるのか。あるいはそこから脱して、新しい生き方をするのか。ここで多くのキリスト者は悔い改め、回心を期待するが、その期待はここで彼女を訴えた律法学者たちと同じ考えとなる。イエス自身はそんなことには全く関心が無い。これがこの物語を通して語られるイエスの姿勢である。

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