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ぶんやさんの記録

親爺のこと(15) 親爺と日本ホーリネス教団

2008-07-19 09:55:06 | ぶんやんち
親爺と日本ホーリネス教団との接触がどうしてもハッキリしない。ただ一点だけ明らかなことがある。5月6日のブログで述べたように、親爺は22歳のとき、日本レスキューミッション吉岡伝道館で、山崎亨治牧師から洗礼を受けたということである。時は昭和5年(1930年)10月3日のことである。お袋の受洗より約1年半後である。
ここで、先ず第1の疑問。なぜ山崎亨治牧師なのか。山崎牧師はその当時すでに日本ホーリネス教団の中心的指導者の一人であった。その人がなぜ、日本レスキューミッションの伝道所で洗礼式を執行しているのか。これについて考えられることは唯一つ、その当時日本ホーリネス教団を中心とするいくつかの伝道集団が聖霊派ということで緩やかな連帯関係があったのだろうという推測である。例えば、山陰聖者と呼ばれた聖公会のバックストン宣教師を中心とする交わり、ここは正式には日本聖公会に属しているが、独自の活動をしていた。そこから、日本ホーリネス教団へは笹尾鉄三郎先生や米田豊先生が、初めは緩やかに、後にはどっぷりと関係している。日本ホーリネス教団そのものも、当初は「超教派的な伝道団体」であったし、日本ホーリネス教団が成立して後も東洋宣教会(OMS)としてカウマン宣教師夫妻やキルボルン宣教師を中心としてOMSという顔を持って、超教派的な活動を展開していた。つまり組織としての教団の枠組みはかなりいい加減なところがあったのであろう。従って、例えば年会(シノッド)というかなり教会政治的な場も「ホーリネス大会」という顔をちらつかせて、他教派の信徒を巻き込む雰囲気があった。というようなことで、おそらく親爺は山崎牧師との関わりの中で、ホーリネス教団と「付かず離れず」という関係を保っていたのかも知れない。
それより、少し前辺りからホーリネス教団では海外宣教の重要性が強調され、「朝鮮、台湾、マオリ、ブラジルなど、明らかに国家の軍事的な海外進出に便乗した形で伝道活動を展開している。伝道の対象は土地の原住民も念頭におかれていたが、、実質的には、植民地政策の中で海外に派遣された邦人が中心であった」(池上良正著『近代日本の民衆キリスト教』234頁)。とくに、昭和6年日中戦争が始まり、昭和7年3月1日に満州国の建国宣言がなされる直前、機関誌の1月号で「満蒙へ進出せよ」という文章を書き、6月号には「満蒙伝道の急務」を著し、信徒たちへ積極的な大陸への移住と伝道とを呼びかけている。お袋の新京派遣もこの一貫の中での任命であった。日本ホーリネス教団が昭和7年になって突然このような主張が出て来たわけではなく、そういう雰囲気が数年前からあったことは確かであろう。
親爺は、このようなホーリネス教団の呼びかけに応じて、満洲にのこのこと出かけたとは思えない。なぜなら、それならば、当然、教籍を移して、そのような手続きがなされるはずであるが、親爺の行動にはそのような素振りは全く感じられない。
むしろ、親爺の満州行きにはもっと強い内面的な決意というようなものを感じる。ただ、典型的な農村青年であったので、どうすればいいのか具体的な手続きや準備もほとんどないまま、満州行きの汽車に乗ってしまったという感じである。

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