ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/7/29~8/4

2018-08-04 09:14:18 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/7/29~8/4

2018 日々の聖句 7月29日㈰
まことにあなたは御自分を隠される神、イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる。(イザヤ45:15)

いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネ1:18)

私の黙想:
何故神は御自分を隠されるのか、理解できない。隠れていても、どうせハッキリ見えるのに。何か「無神論者」のために「隠れんぼ」して遊んでいるように感じる。預言者イザヤの言葉でしょう。神の存在が最も鮮明の活動していた時代なのに。
と、今朝は少々、私も隠れたい気分である。

2018 日々の聖句 7月30日㈪
主よ、不当な利益にではなく、あなたの定めに心を傾けるようにしてください。(詩119:36)

金銭の欲は、すべての悪の根です。(金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。)しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。(1テモテ8:10~11)

私の黙想:
今日のカギの言葉は「あなたの定め」、文脈考え、これは「定価」である。制作され商品化する時、その商品には「定められた価格」がる。欲深い連中はj「神の定めた定価」を無視して暴利を得ようとする。果たして、この解釈に間違いがないか。他の翻訳もしてみよう。
先ず口語訳、「わたしの心をあなたのあかしに傾けさせ、不正な利得に傾けさせないでください」、ここには「定め」というような「定価」を推測するような言葉ではない。しかし主旨はそうことである。フランシスコ会訳、新改訳「あなたのさとし」、岩波訳は新共同訳と同じ「定め」と「利益」が対比されている。
聖書の読み方にできるだけ霊的に読む方向と出来るだけ現実に近づけて読む方向がある。要するに、その場、その場で使い分けるのが正しい。

2018 日々の聖句 7月31日㈫
万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。(イザヤ37:16)

わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。(黙示録19:11)

私の黙想:
当時の世界で弱小国の一宮廷預言者の言葉。強国アッシリアから攻められ、兄弟国イスラエルは滅ぼされてしまっている状況において預言者イザヤはいう。それこそヒゼキア王はちじみあがっている。それを励ますイザヤの信仰。
ヒゼキア王はイザヤの前ではヤハウェに従うといい、その裏ではアッシリアの王にいい顔をする。ヒゼキア王の最後は悲劇である。

2018 日々の聖句 8月1日㈬
主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。(サムエル上14:6)

祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。(マルコ11:24)

私の黙想:
ダビデの先王サウルの息子ヨナタンは良い子なんだけど、少々オッチョコチョイなところがあったらしい。今日の場面は、そのヨナタンがサウル王に内緒で若い部下を1人連れて敵情視察、早い話スパイをするところである。若い二人は直ぐに敵に察知されが逆に狙われることになる。当然、危険な状況に立たされ、若い部下は逃げ出しそうな気配であるが、少々オッチョコチョイのヨナタンは元気よく彼を励ます。今日の聖句はその励ましの言葉である。
確かに、その時の戦闘ではヨナタンたちが勝ったが、信仰という名の下に無茶をしてはならない。それが大事になりサウル王も登場する本格的な戦争になってしまった。
若気のゆえとは言え、信仰に名を借りた冒険主義は慎むべきである。

2018 日々の聖句 8月2日㈭
主よ、あなたはわたしの避けどころ、命あるものの地で、わたしの分となってくださる方。(詩142:6)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えました。(1ペトロ1:3)

私の黙想:
王になる前から若きダビデは軍功をあげ、国民の英雄になっていた。女たちは踊りながら互に歌いかわした、「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」と女たちは歌い、躍った」(サムエル上18:7)。 それを嫉んだサウル王はダビデを殺そうと考え初めていた。それを感知したダビデは王宮から逃げ出した。サウル王は何人かの部下を引き連れてダビデを追跡した。
ある日、ダビデ長く続く旅に疲れて、とある洞窟の奥に身を隠し休んでいた。何と言うこと、ダビデ追跡の長旅に疲れたサウロ王たちも、同じ洞窟の入口付近で休憩した。ダビデたちが洞窟の奥にいることも知らずに、王たちは、宴会を始めた。彼らは飲み疲れて、油断し、だらしなく寝込んでしまったという。
これを絶好のチャンスと見たダビデの部下たちはサウル王を殺すことを進言したが、ダビデはサウロ王の着衣の裾だけを切り取り、殺そうと思ったらら殺せたことをサウロ王に告げた(サムエル上24章)。この出来事が余程愉快だったのか、今日の聖句はその時のことを背景にしている。

2018 日々の聖句 8月3日㈮
あなたの神、(主はバラムに耳を傾けず、あなたの神、)主はあなたのために呪いを祝福に代えられた。あなたの神、主があなたを愛されたからにほかならない。(申命記23:6)

わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。(2テモテ2:13)

私の黙想:
申命記23章は面白い。へ〜、ユダヤ人社会ではそんなことがあるんだと、驚かされる。近親婚、セクハラ、パワハラ、民族差別などなど。ここに登場するバラムとは諸民族の枠を活動する「よく当たる」という評判の預言者(占い師)である。この預言者の主な働きは「呪いをかける」ということらしい。
ここでの「呪い」とはおそらくバラムによる「呪い」であろう。ヤハウェはその「呪い」を「祝福」に変換するという。この「変換」が問題だ。

2018 日々の聖句 8月4日㈯
すべての命あるものは、肉なる人の霊も、(神の)御手の内にあることを。(ヨブ12:10)

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。(ロマ14:7~8)

私の黙想:
今日は門叶さんの「字句分析」より遅かったおかげで、問題点がハッキリしていて黙想しやすかった。「肉なる人」も「すべての命あるもの」の一部であり、「(神の)御手の内にある」ことは、言わずもがなである。
ところが「霊も」という言葉が加わると、「肉なる人の霊」は、「すべての命あるもの」の一部ではなくなる。だから、その違いを強調しようと思うと、この「ルアッハ」を「息」とか「風」と解することは出来なくなる。「神の息」を吹き込まれた人間は「霊」をもつ「命あるもの」となったが、「神の手の内にある」という点では「すべての命あるもの」と同じだということを述べている。

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